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三段告白

 蓮が喋り始めた。


 あの、三文字しか喋らない人が。

 壊れたスピーカーが、壊れたまま、全力で鳴った。



         *



 蓮の唇が、動いた。


 「」


 音がない。形だけ。もう一度。


 「……」


 掠れた音が漏れた。声未満の、吐息に近い音。


 蓮の喉が動いた。唾を飲み込む。小さな音。暗い教室の中で鮮明に聞こえた。


 それから声が出た。


 「……最初に、隣に座った時」


 文だ。


 「うまい」でも「いい」でも「慣れた」でもない。文を話している。三文字じゃない。三文字の人が、文を話している。七ヶ月間、二文字か三文字しか聞いたことがなかった声帯から、文が出ている。


 蓮の声は掠れていた。何ヶ月も使っていない声帯が軋んでいる。


 「理由なんて、何もなかった」


 理由がなかった。ただ、それだけ。


 「ただ空いてたから、座った」


 空いていたから。ただ、それだけ。頭がぐるぐる回った。理由がない。蓮が隣に来た理由は、偶然。空席だったから。


 蓮の口が開いた。


 音が出なかった。唇が「だ」の形を作って、空気だけが漏れた。声にならない。


 五秒。十秒。


 蓮は口を閉じた。顎を引いた。諶めたのかと思った。机の縁を掄む手が白い。


 もう一度、口を開けた。


 「だけど」


 出た。掛れて、壊れた音だったけど。出た。


 蓮の声が震えている。


 蓮は言葉を恐れる人だ。正しい言葉で人を傷つけた人だ。それ以来、言葉を止めた人だ。


 その蓮が、止まらない。


 「お前が、言った」


 蓮が私を見た。目が悪いから少し目を細めて。あの人は眷んでいるんじゃない。ちゃんと見ようとしているんだ。


 「誰にも、聞こえないくらいの」


 「小さい声で」


 蓮の目の縁が赤い。


 「『あの人は冷たいんじゃなくて、不器用なだけだと思うけどな』って」


 覚えていない。全く。いつ言ったかも覚えていない。


 でもそれが、蓮の人生を変えていた。


 蓮の声が裏返りそうになる。


 「お前は、俺のことを、その」


 言葉がつかえた。唇の形が正しくない。口が開いて、閉じて、また開いた。


 「知らないのに。名前も、過去も、何も」


 蓮の手が震えている。


 「俺が、冷たいんじゃないって。不器用なだけだって」


 息を吸った。深く。息が足りていない。走った後みたいに肩が上下している。喋ること自体が、蓮の身体には全力疾走なのだ。

 「俺は」


 蓮の顔が歪んだ。


 「親父に、言ったんだ」


 「『あんたの人生は、失敗だ』って」


 教室の空気が凍りついた。


 「『母さん泣かせて……逃げるだけの、人生なんて』」


 蓮の目が、暗い虚空を見つめていた。あの日の父親の背中を見ているように。言葉が途切れ途切れになり、呼吸が浅くなる。


 「正論、だった。間違って、なかった。……だから、親父は家を出て」


 「半年後に、事故で、死んだ」


 蓮の指が、机の縁をさらに強く掴んだ。爪が白を通り越して紫になっている。


 「俺の言葉が……親父の最後の逃げ道を、塞いだ。……俺が、親父を殺したんだ」


 「それから……怖くなった。自分の口から出る音が。……だから、全部、飲み込んだ」



 「母さんも。氷室も。誰も」


 息を吐いた。吸った。



 「その一瞬で、ただの空席が」


 蓮が私を見た。誰かを求めている目だった。


 「俺の」


 言葉が詰まった。唇の形が作られて、崩れた。もう一度、形を作って、また崩れた。空気が喍を通らない。首筋に筋が浮いている。


 十秒。


 教室の沈黙が重い。蓮の呼吸だけが聞こえる。荒い。走った後みたいに肩が上下している。


 待った。何も言わずに。蓮が言葉を見つけるまで。


 「たったひとつの、居場所に。なった」


 教室に沈黙が落ちた。蓮の耳が、赤い。首筋まで。


 「理由が、なかった。から。始まって」


 蓮の声が震える。もう制御できていない。何年も閉ざされていた声帯が、軋みを上げて。


 「でも。今は」


 「お前じゃなきゃ」


 言い直した。


 「お前が、いないと。俺の、全部が。空っぽ、だ」


 蓮が、一度だけ目を閉じた。


 目を開けた。


 「日和」


 心臓が、止まった。


 名前。初めて蓮が、私の名前を呼んだ。「日和」の三音。掌れた声で。裏返りそうな声で。


 「ごちそうさま」でも「うまい」でも「いい」でもない。私の名前。蓮が今まで一度も呼ばなかった名前。呼べなかった名前。


 呼んだ。


 「好き、だ」


 教室が、止まった。


 声が震えている。二文字の間に息を吸った。たった二文字に、息継ぎが必要だった。


 「お前が。俺を」


 唾を飲んだ。


 「必要と、してなくても」


 蓮の手が伸びた。私に向かって。躊躇った。止まりかけた。


 止まらなかった。


 蓮の手が、私の手に触れた。


 指が触れる。重なる。蓮の長い指が、私の指を包む。あの大きな手。絆創膏を貼ってくれた手。傘を差し出した手。ノートに文字を書いた手。カップを両手で包んだ手。


 冷たい。蓮の指は冷たい。いつだって。体温で言えば三十四度くらい。でも触れた場所が燃えるように熱い。三十八度。四十度。測れない。測る必要がない。


 「俺が。お前の隣に」


 最後の一語を、息の続く限りで。


 「いたい」


 言葉が怖い男が。持っている言葉の全部を、振り絞った。


 錆びついた蝶番が、無理やり回されたように。不器用なまま。掠れたまま。でも鳴った。


 泣いた。声を上げて泣いた。蓮の手を握り返した。指を絡めた。爪の先まで。冷たくて熱い矛盾の手を。涙が止まらなくて。鼻の奥が痛くて。喉が詰まって。


 蓮もたぶん、泣いていた。あの鋭い目の縁が赤い。睫毛が濡れている。でも声は出さない。蓮は声を出して泣く方法を知らない。十六歳で止めてしまったから。


 でも手は震えていた。私の手を握る蓮の手が。微かに。ずっと。


 101教室。最後列の端の席。四月に二人が最初に隣り合った場所。窓から差す街灯の光が、繋がった手を照らしていた。


 言葉を失くした人が——言葉を取り戻した夜。独り言が聞こえる人が独り言じゃない言葉を、初めて声にした夜。


 秋の、暗い、誰もいない教室で。二人だけの。


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