空席を見つめる人
蓮を探した。
カフェに。大学に。図書館に。中庭に。
最後に見つけたのは、最初の場所だった。
*
十月二十九日。火曜日。夕方。
カフェ「雫」。シフトが終わった。
窓際B席は、今日も空いていた。
店長に言った。
「すみません、今日は少し早く上がりたいんですけど」
店長が私を見た。目の奥を読んでいる。
「探してるんでしょ」
「……え」
「行きな。あたしが閉める」
どうして店長はいつもわかるのだろう。言葉にしていないのに。顔に出ているのか。
「あたしの分まで、言いなよ」
店長が左手で薬指をなぞった。無意識かもしれない。でもその仕草に、全部が詰まっている。
「はい」
エプロンを外した。鞄を持った。ドアベルが鳴った。
走った。
*
大学。十月の夕暮れ。空がオレンジ色に染まっている。
一号館。101教室。
ドアを開けた。
いない。
教室に誰もいない。夕方の講義は終わっている。蛍光灯が消えている。窓からの残光だけが床に四角く落ちている。
端の席。最後列。壁際。蓮の定位置。
空いている。
図書館。
走った。息が切れる。ローファーが石畳を叩く音が響く。
図書館の入口。閉館時間を過ぎていた。ガラスの扉にCLOSEDの札。中は暗い。
中庭。
ベンチが三つ。全部空いている。誰もいない。街灯が一つ灯り始めた。虫が光に寄っている。
キャンパスの坂を下りた。もう一度上った。息が苦しい。
どこにいるの。
蓮はどこにいるの。
LINEも知らない。電話番号も知らない。アパートの場所も知らない。連絡手段が何もないのに、蓮の隣に半年もいた。音と匂いと温度だけで繋がっていた関係。連絡先を交換するなんて、一度も考えなかった。
考えなかったのは、必要なかったからだ。蓮はいつも隣にいた。いつもカフェに来た。連絡しなくても会えた。
会えなくなって初めて、何も持っていないことに気づいた。
蓮の手の温度は知っている。蓮の衣擦れの音は知っている。蓮の「うまい」の声色は知っている。蓮の耳の赤さは知っている。
でも電話番号を知らない。
不器用にもほどがある。お互いに。
もう一箇所。
最後に蓮がいそうな場所。二人が最初に隣り合った場所。
101教室。
さっき見た。いなかった。
でも、もう一度。
走った。一号館に駆け込んだ。階段を上がる。廊下を走る。ローファーの音だけが反響する。誰もいない廊下。夕暮れの光が窓から差し込んでいる。
教室の扉を開けた。
——いた。
最後列の端の席。
篠宮蓮が一人で座っていた。
ノートは閉じている。本も開いていない。シャーペンも出していない。鞄が足元にある。
ただ、空いた隣の席を、見ていた。
私の席。四月から七ヶ月間。私がいつも座っていた場所。
蓮が、その空席を、見つめていた。
教室は暗い。蛍光灯は消えている。窓から入る街灯の光と、廊下からの非常灯の光だけ。薄暗い。蓮の顔に影が落ちている。
蓮はまだ気づいていない。入口に立っている私に。
私の足が動いた。
教室の通路を歩く。後方から前へ。最後列に向かって。
足音。ローファーが床を叩く。
蓮が顔を上げた。
暗い教室の中で、蓮の目が、揺れた。街灯の光を反射して。あの鋭い目が、鋭くなかった。
目が赤かった。少しだけ。泣いた跡なのかわからない。蓮が泣くところを見たことがない。でも、赤かった。
私は蓮の隣の席に、座った。
いつもの席。端から三番目。壁際から二番目。蓮の左隣。
椅子が冷たい。十月の夜の教室の椅子は冷たい。
蓮が、私を見ている。
声は出さない。いつものように。でも目が、あの、一生懸命見ようとしている目が、私を見ている。暗い教室で、目が悪いのに、目を凝らして。
口を開いた。
「私、一人で立てました」
蓮の目が微かに揺れた。
「勧誘も断れた。あなたの真似をしたら、できちゃった」
蓮の眉がかすかに動いた。
「バリケードがなくても、大丈夫だった」
声が安定している。練習したから。昨夜、部屋で何度も。振り返らないように。泣かないように。最後まで言い切れるように。
「でも」
安定が崩れた。
「できるのに、全部つまらなかった。色がなかった。音がなかった」
涙がこぼれる。止められない。
「あなたの衣擦れの音がしない教室は、ただの箱だった」
蓮の喉元が動いた。
「私があなたの隣にいたいのは——楽だからじゃない」
息を、止めた。
「あなたが、好きだからです」
涙が止まらなかった。言い切った。震えたけど。逃げなかった。
蓮が、動かない。
いや、違う。
蓮の目の縁が、赤くなっている。唇が、微かに震えている。
蓮の指が机の縁を掴んでいた。白くなるほど。
何かが出てこようとしている。
——お願いだから。




