蓮の影を纏う
蓮の真似をして、断れた。
でもそれは、蓮の力だった。
私の力では、まだなかった。
*
十月二十八日。月曜日。
一号館の廊下。
サークル勧誘の男子に声をかけられた。
「ねー、瀬川さんだよね。うちのサークル見学来ない」
立ち止まった。
断れない。いつもの。声が出ない。首を横に振れない。蓮がいた時は、蓮の存在だけで勧誘が消えた。
蓮はいない。
「もう一人の子もいたじゃん、隣にいた怖い顔の人。あの人もう来ないの」
蓮のことだ。
何かが変わった。
姿勢を正した。背筋を伸ばす。顎を引く。
少しだけ目を細めた。
蓮がいつもやっていた、あの仕草。目を合わせず、口を開かず、ただ、存在で空気を変える。
蓮の模倣。蓮の影。蓮が隣にいた半年間で、体が覚えていた所作。
前を向いた。黙って。
でも、それじゃ駄目だと思った。
蓮の影に隠れてやり過ごすのは、もう終わりにしなきゃいけない。
私は息を吸った。
「行きません」
声が出た。震えていたけれど、はっきりと。
「興味がないので、行きません。もう声はかけないでください」
男子が目を丸くした。いつも俯いて逃げていた私が、正面から言葉を返したから。
「あ、そ、そう。ごめんね」
男子は逃げるように去っていった。
できた。
一人で断れた。バリケードなしで。蓮の影も借りずに。
自分の言葉で、断れた。
手で顔を覆った。
今、あの人の真似をした。目を細めて。背筋を伸ばして。黙って。蓮がいつもやっていたことを、私の身体が再現した。
蓮がいない場所で。蓮の所作が、私の中に根づいている。
158センチの眼鏡の女の子が目を細めても、蓮ほどの威力はない。蓮は180近くて目つきが鋭くて存在感が桁違いだ。
でも、機能した。
蓮が隣にいた時間が。蓮の所作を横目で見続けた時間が。静かで安全で心地よかったあの時間の全部が、私の骨になっていた。
影で戦えた。
でも影は影だ。借り物の強さで断って、廊下に一人で立って、誇らしさは一秒も浮かばなかった。蓮の不在を、別の形で確認しただけだった。
ふと、視線を感じた。
廊下の突き当たり。階段の踊り場。
黒い髪。白いシャツ。
蓮が、立っていた。
いつからそこにいたのかわからない。でも、まっすぐに私を見ていた。
助けに来ようとして、私が自分で断ったから、足を止めた。そんな距離感だった。
蓮は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ本当に微かに、目元を和らげて、頷いたように見えた。
そして、静かに背を向けて階段を降りていった。
心臓が、跳ねた。
見ていてくれた。私が一人で立てるか、ずっと遠くから見守ってくれていた。
その事実だけで、冷たかった指先に、一気に血が巡るのがわかった。
水曜日。カフェのシフト。
閉店三十分前。常連の女子大生が入ってきた。いつもカフェラテを頼む人。ポニーテール。大きなトートバッグ。
「カフェラテで……あ、やっぱりブラックにします」
いつもと違う注文。カフェラテの人がブラックを頼む時は、甘さではなく覚醒を選ぶ時だ。
間を置かず、ブラックを淹れた。丁寧に。正確に。祈りは、なかった。
カウンターに置いた。女子大生が一口飲んで、目を閉じた。肩が丸い。呼吸が浅い。
店長は奥の事務所にいた。店内に他の客はいなかった。
蓮なら、何もしない。何も言わない。ただそこにいる。存在だけで空気を包む。それが蓮の方法だ。
その方法を、月曜日に借りた。機能した。でも、私の方法ではなかった。
「今日、いつもよりちょっとだけ深い豆なんです。苦かったらミルク足しますね」
嘘だった。いつもと同じ豆。でも、この人の肩の線を見たら、何かを差し出さずにはいられなかった。
女子大生が顔を上げた。
「……ありがとうございます。なんか、ちょっと救われました」
声が少しだけ柔らかくなっていた。肩の線が下がった。鞄の持ち手から指が離れた。
帰り際。「おいしかったです」と笑って、ドアを閉めた。
カウンターの内側で、私は布巾を握ったまま立っていた。
蓮の沈黙を借りなかった。蓮の所作を真似なかった。
私の声で。私の嘘で。私のコーヒーで。一人の人間の夜を、少しだけ軽くした。
蓮は行動で伝える人だ。傘を差し出して、席を移して、絆創膏を貼る。
私は言葉の人だ。観察して、選んで、一文を差し出す。
月曜日は蓮の影で戦った。水曜日は自分の言葉で守った。
蓮の影ではなく、私の足で立てた瞬間が、あった。
*
蓮がいなくても生きていける。
講義に出られる。勧誘を断れる。バイトに行ける。コーヒーを淹れられる。ご飯を食べられる。寝られる。起きられる。
全部できる。
でも色がない。
講義のノートは自分の字しかない。隣に整った筆跡がない。衣擦れの音がしない。シャーペンの三拍子がない。柔軟剤の匂いがしない。
カフェに蓮は来ない。「ごちそうさま」がない。「うまい」がない。
音はあるけど音楽じゃない。
蓮の衣擦れの音が欲しい。蓮の「うまい」が聞きたい。蓮が隣にいる世界の温度が欲しい。
蓮の影じゃない。蓮が欲しい。
これは、依存じゃない。一人で立てた。自分の言葉で人を守れた。
その上で、蓮がいないと色がないと知った。
蓮が好きなのだ。
篠宮蓮という不器用で、無口で、言葉が怖くて、でも傘を差し出して、ノートを書いて、絆創膏を貼って、「うまい」を絞り出す、あの人が。
自分の意志で——この人の隣にいたい。
「瀬川さん」
不意に声をかけられた。振り返ると、氷室拓真が立っていた。蓮の友人。以前カフェに来て、蓮の過去を教えてくれた人。
「氷室さん……」
氷室は困ったような顔をしていた。でも目は笑っていなかった。あの時と同じだ。軽い口調の奥に、覚悟がある目。
「あいつ、ずっとお前の空席見てる。講義中も。ノートも取ってない」
息が詰まった。
「あんな抜け殻みたいな蓮、高校の時以来だ。——あの時と同じになるかと思った。でも、あの時と違うのは」
氷室が私を見た。まっすぐに。
「今のあいつには、戻る場所があるってことだ」
氷室の声が少しだけ掠れた。四年間隣で見守り続けた人間の、本物の声だった。
「蓮を見てやってくれないか。毎講義後に101に残ってんだよ。ずっと一人で」
氷室は頭を下げて、去っていった。
壁に背中を預けた。
蓮が空席を見ている。私がいた場所を。
蓮に会いに行かなきゃ。
自分の言葉で伝えなきゃ。
夜。自室。ベッドに座って、枕を抱いた。
声に出した。
息を吸った。喉の奥が詰まる。指先が冷たい。
「あなたが、好きだからです」
震えた。怖い。拒絶が怖い。言葉が怖い蓮の前で、言葉を使うことが怖い。
でも蓮は四ヶ月間、怖がりながら行動で伝え続けてくれた。声が出ないのに。それでも傘を差し出して、ノートを書いて、カウンターを越えてきた。
蓮にできたことが、言葉を持っている私にできないはずがない。
もう一度。
「あなたが、好きだからです」
少しだけ、眠れた。
夢の中で蓮がカウンターの端に座っていた。コーヒーを両手で包んで。目を閉じて。
笑っていた。
蓮の笑顔を見たことがない。一度も。無表情の人だから。
夢の中の蓮が笑っているのを見て——泣いた。夢の中で泣いた。
起きた時、枕が濡れていた。




