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透明人間の証明

 透明人間は、本当に透明なのか。

 それとも、見てくれる人がいないだけなのか。

 ——見てくれる人がいなくなった今、確かめる方法がある。



         *



 十月の第四週。火曜日。


 蓮と離れてから、三週間が過ぎた。


 大学には行けている。講義にも出ている。ノートもとっている。カフェのシフトも入っている。ご飯も食べている。睡眠も取れている。


 全部できている。


 全部できていることが、少し怖い。



 教育実践論。火曜三限。教育学部の専門科目。


 この講義だけは、蓮と関係がない場所だった。蓮は文学部だ。教育学部棟に蓮が来る理由はない。だからここには蓮の不在がない。最初からいない場所には、いなくなった痛みもない。


 教授が言った。


 「来月の模擬授業の準備を始めてください。十五分間、小学校五年生への国語の模擬授業。テーマは自由です」


 模擬授業。教壇に立って、クラスメイト二十人を生徒に見立てて、授業をする。教職課程の必修。避けて通れない。


 透明人間が、人前に立つ。


 矛盾だ。透明な人間は教壇に立っても見えないはずだ。存在感を発揮して、生徒の注意を引いて、声を教室の隅まで届けなければならない。それが教師の仕事だ。


 でも私は、教師になりたいと思って教育学部に入ったのではない。


 母が教師だった。


 小学校教諭。現役。朝六時に家を出て、夜七時に帰ってくる。持ち帰りの採点。日曜の教材研究。家の食卓で赤ペンを走らせている母の横で育った。

 三つ上の姉は、そんな母の期待を一身に背負って、完璧な優等生として育った。私は、その眩しすぎる光の横で、波風を立てないように、期待されないように、息を潜めて生きてきた。透明でいることが、家での私の生存戦略だった。


 教師とはこういうものなのだと、見ていた。ずっと。


 見ていたら、いつのまにか自分も教育学部にいた。母のようになりたいわけではない。ただ、人を見ることと、人のために何かを準備することが、自分にもできるかもしれないと思った。


 コーヒーを淹れるのと同じだ。相手を観察して、最適な温度を探して、差し出す。


 蓮に淹れるコーヒーの話じゃない。教育の話だ。混ぜるな。



 模擬授業の準備を始めた。


 テーマは「言葉にできないものを言葉にする」。


 小学校五年生の国語。詩の授業。教科書に載っている詩を読んで、自分の言葉で感想を書く。「正解はない。感じたことを、自分の言葉で」。


 このテーマを選んだ理由は、考えない。考えたら蓮に辿り着く。辿り着くから、考えない。




 水曜日。カフェ「雫」。シフト。


 閉店後、カウンターを拭きながら店長に言った。


 「来月、模擬授業があるんです」


 「模擬授業って、先生役やるやつ?」


 「はい。十五分間。人前で」


 店長が焙煎機のスイッチを切った。左手で薬指をさすりながら。


 「あんたが人前に立つの、想像つかないねえ」


 「……私もです」


 「でもさ、あんた、カウンターの内側じゃ毎日やってるよ」


 「え?」


 「客の顔見て、その日の気分を読んで、合う味を出す。それ、授業と同じでしょ。目の前の人が何を必要としてるか見て、合うものを渡す」


 そうだろうか。


 コーヒーを淹れることと、教壇に立つことは違う。カウンターの内側は守られた領域だ。教壇は剥き出しだ。


 「守られてると思ってるかもしれないけどさ」


 店長が私を見た。あの目。読み取る目。


 「あんた、カウンター越しにお客さんの人生覗いてるじゃない。それって守られてるとは言わないよ。踏み込んでるんだよ」


 布巾を握ったまま、黙った。


 踏み込んでいる。


 蓮のコーヒーの好みを覚えた。常連のカフェラテの女子大生が疲れている日を見分けた。佐藤さんが新聞を読む順番を知っている。踏み込んでいたのかもしれない。カウンター越しに。静かに。


 「あんたは透明じゃないよ。ひよりちゃん」


 店長が左手の薬指を、親指でそっとなぞった。白い跡が残るその場所を。

 「あたしも昔、踏み込むのが怖くて、透明なふりして、大事なもの手放したからさ。あんたには、そうなってほしくないんだよ」


 店長が背を向けた。焙煎機の掃除を始めた。


 「透明な人間は、コーヒー淹れられないからね。透明な手じゃカップ持てないでしょ」


 笑った。少しだけ。


 透明じゃない。


 そうかもしれない。



 木曜日。夜。自室。


 母に電話した。毎週の電話。


 「元気?」


 「元気だよ」


 「ご飯食べてる?」


 「食べてる」


 「カーディガン着てる? 十月もう寒いでしょ」


 「着てるよ」


 いつもと同じ会話。天気と上着と食事。母はいつもそこから入る。核心には触れない。聞きたいことがあっても、まず天気を聞く。


 「お姉ちゃん、また昇進したのよ。ひよりは相変わらず、目立たないようにしてるの?」

 悪気はない。母はただ、事実を並べているだけだ。でも、いつもならこの言葉で、私は透明な箱に押し込められていた。

 「……ううん。目立たないようには、してないよ」

 電話の向こうで、母が少し驚いたような息を呑む音がした。いつもなら「相変わらずだよ」と流す私が、初めて否定したから。


 「……お母さん」


 「ん?」


 「教師って、どうやって生徒の前に立つの。最初」


 母が少し黙った。電話の向こうで、赤ペンを置く音がした。採点中だったのだ。いつも。


 「最初は全然だめだったよ。声は震えるし、板書の字は曲がるし、生徒に笑われるし」


 「どうやって慣れたの」


 「慣れたっていうか、見るようにしたの。一人ずつ。教室全体を見ようとすると怖いから、一人だけ見る。その子が理解してるかどうかだけ確認する。次にもう一人。そうやって一人ずつ増やしていったら、いつの間にか三十人見えるようになってた」


 一人ずつ。


 「ひよりは観察する子だから、たぶん大丈夫だよ」


 母にそう言われると、少しだけ信じられる。母は嘘を言わない人だ。お世辞も言わない。「大丈夫」は、本当にそう思っている時しか出てこない。


 「ありがとう」


 「天気予報見てね。明後日から冷えるから」


 天気で始まって天気で終わる。いつもの電話。


 切った後、スマホをベッドに置いた。


 蓮にこの話をしたいと思った。


 模擬授業のこと。母の話。店長の言葉。一人ずつ見るということ。


 蓮に話したい。蓮に聞いてほしい。でも蓮の連絡先を知らない。


 蓮がいたら、話さなくても伝わるのだろうか。隣に座っているだけで、独り言が零れて、蓮がそれを拾ってくれるのだろうか。


 零れない。


 蓮がいないと、独り言は零れない。


 でも今日は、母に話した。店長に話した。自分の言葉で。声を出して。蓮の隣じゃなくても、声は出せた。


 出せた。出せたのだ。



 金曜日。教育実践論の教室。


 模擬授業の構成を書いたノートを見直していた。


 隣の席の桜庭さんが、自分のノートを覗き込みながら唸っていた。先週は話しかけられなかったけれど、今日は少しだけ、自分から声を出せそうな気がした。


 「……導入、どうしよう」


 独り言。


 私と同じだ。この人も独り言を言う人だった。

 でも、私の独り言とは違う。桜庭さんの独り言は、誰かに聞いてほしくて無意識に漏れたSOSの音だった。

 蓮が私の独り言を拾ってくれたように。今度は私が拾う番だ。


 息を吸った。声帯の震えを意識して、相手の耳までの距離を測る。五十センチ。個体距離。


 「私は詩の授業をやるんですけど、最初に短い詩を朗読して、生徒に『何が見えたか』を聞くところから入ろうと思ってます」


 桜庭さんが顔を上げた。目が丸い。話しかけられると思っていなかった顔。

 でも、嫌な顔じゃなかった。


 「あ、それいいかも。いきなり教科書開いてって言うより入りやすい」


 桜庭さんの声は、少し高くて、よく通る音だった。蓮の低くて掠れた声とは全然違う。でも、ちゃんと私に向かって放たれた、温度のある声だった。


 「桜庭さんはどんなテーマですか」


 「作文。でも作文って言うと子供たちが身構えるから、手紙を書かせようかなって。誰かに伝えたいことを、手紙の形で」


 手紙。誰かに伝えたいこと。


 「いいと思います。手紙なら相手がいるから、書きやすいですよね。もしよかったら、お互いの模擬授業、一回見せ合いませんか。本番の前に」


 自分でも驚くような提案だった。


 桜庭さんが目を丸くして、それから、ぱっと明るく笑った。


 「うん、お願い! 私も誰かに見てもらいたかったの」


 私も、少しだけ安心した。

 桜庭さんが笑った時、空気がふっと緩むのがわかった。蓮が隣にいる時の「無音の安心感」とは違う、言葉のキャッチボールが生み出す「有音の安心感」。

 冷たかった指先に、少しだけ血が巡る。


 話せた。自分から。知らない人に。蓮のバリケードなしで。菜月のリードなしで。


 誰かに伝えたいことを、手紙の形で。


 手紙を書くべき相手が、いる。


 手紙じゃなくてもいい。声でもいい。言葉でいい。


 でもまだ、その言葉が胸の中で固まりきっていない。まだ少し、形が曖昧だ。



 土曜日。菜月から連絡が来た。「学食。十二時。来い」。疑問形じゃない。いつもの菜月。


 学食で向かい合った。菜月はきつねうどんを啜りながら、私の顔をじっと見た。


 「顔、変わったね」


 「……変わった?」


 「前はさ、世界終わった顔してたじゃん。今は、なんつーか、世界終わったけど再起動しかけてる顔」


 菜月らしい言い方。的確で、容赦がなくて、温かい。


 「一人で断れたよ。勧誘」


 菜月の箸が止まった。


 「……マジ」


 「最初は蓮の真似した。目を細めて、黙って。でもそれじゃ駄目だって思って、自分の声で言った。『行きません』って」


 菜月が私を見た。目が大きくなっていた。


 「桜庭さんっていう人にも、自分から話しかけた。模擬授業の練習、一緒にやろうって」


 「あんたが? 自分から?」


 「うん」


 菜月がうどんの汁を啜った。それから、鼻を啜った。違う音だった。


 「泣いてないから」


 泣いていた。目の縁が赤い。


 「あたしさ、あの時キツいこと言ったけど」


 「言ってくれてよかったよ」


 菜月が私を見た。あの時と同じ目。でも、刃じゃなかった。


 「答え、出た?」


 「出た」


 「……好き? 依存?」


 「好きだよ。一人で立てた上で、蓮が好き」


 菜月が長い息を吐いた。肩が下がった。ずっと力が入っていたのかもしれない。あの日からずっと。


 「じゃあ行きなよ」


 「え?」


 「行けって言ってんの。なに座ってんの。うどん冷めるでしょ、あたしの」


 菜月が笑った。大きな目がくしゃっと潰れて、いつもの菜月に戻った。


 「あんたが幸せなら何でもいいんだよ。最初からそう言ってんじゃん」


 友達の温度。蓮の手とは違う温度。刃を持ったまま、ずっと見守ってくれていた人の温度。


 「ありがと、菜月」


 「礼はいいから結果報告しろよ。速報で。既読つけてから三十秒以内で」


 笑った。久しぶりに、声を出して。



         *



 三週間と四日。


 蓮のいない日常を、生きた。


 講義に出た。模擬授業の準備を始めた。母と電話した。店長と話した。桜庭さんと話した。コーヒーを淹れた。常連の顔を見て味を選んだ。


 透明人間だと思っていた。でも透明じゃなかった。見てくれる人はいた。店長。母。菜月。桜庭さん。


 たくさんの人が私を見ていた。


 でもその中で、蓮だけが——独り言を拾ってくれた。


 「雨やんだ」を。「お腹すいた」を。「猫」を。「暑い」を。


 誰にも聞こえないはずの声を、あの人だけが聞いていた。


 見てくれる人はたくさんいる。でも、聞いてくれる人は一人だけだった。


 蓮がいなくても生きていける。証明した。三週間と四日で。


 でもその証明の先に、もう一つの問いがある。


 生きていけることと、生きたいことは、同じじゃない。


 蓮のいない世界でも生きていける。蓮のいない世界は色がない。蓮のいない世界の独り言は枯れる。


 全部わかった。わかった上で。


 蓮に会いたい。


 依存ではなく。証明を終えた人間として。自分の足で立てる人間として。


 蓮に会いたい。


 「……会いたい」


 独り言。


 聞こえていない。蓮はここにいない。


 でも言えた。自分の声で。自分の言葉で。


 聞こえていなくても——言いたい言葉が、もう私の中にある。

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