うまくいかない日
一人で立つと決めた。
決めたからといって、すぐに立てるわけじゃない。
補助輪を外した自転車は、最初は必ず転ぶ。
*
十月の第三週。
蓮に「隣に座らないでください」と告げてから、二週間と少し。
大学には行けている。講義にも出ている。でも、全てが少しずつずれていた。
火曜日。教育実践論の教室。
端の席を避けて、真ん中あたりの席に座るようになった。
隣には、いつも同じ女の子が座っている。長い黒髪をひとつに結んだ、桜庭さくらという名前の学生。
音が、うるさい。
蓮が隣にいた時は、教室の雑音は遠くのBGMだった。蓮の衣擦れの音、シャーペンの三拍子、微かな呼吸音。それだけが私の耳に届く世界の全てだった。
今は違う。前の席の男子が貧乏揺すりをする音。斜め前の女子がスマホをフリックする爪の音。誰かの咳払い。蛍光灯の微かなジーというノイズ。
全部が鼓膜に直接刺さってくる。蓮という「沈黙のバリケード」がどれだけ分厚く私を守っていたか、なくなって初めて物理的な音量として理解した。
前方の席から、出欠確認のプリントが回ってきた。
桜庭さんがプリントを受け取り、私に回してくれる。
「はい」
「あ、ありがとう……」
声が、掠れた。
小さすぎて、桜庭さんには届かなかったらしい。彼女はすでに前を向いてノートを開いていた。
プリントを受け取った手が、少しだけ宙で迷った。
蓮が隣にいた時は、声のボリュームなんて気にしなかった。
独り言の音量で呟けば、蓮が勝手に拾ってくれたから。
でも、普通の人間関係では、相手に届く声量で話しかけなければならない。
その「普通」が、こんなに怖い。喉が絞まる。言葉が口の中で潰れる。
話しかけよう。
そう思った。模擬授業の準備について、誰かと相談したかった。
桜庭さんの横顔を見る。真剣にノートをとっている。
「あの」
喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
今話しかけたら迷惑かもしれない。無視されたらどうしよう。変な人だと思われないか。
蓮の沈黙のバリケードに守られていた時は、他人の目なんて気にならなかった。
バリケードがなくなった今、他人の視線や反応が、直接肌に突き刺さる。
結局、九十分の講義が終わるまで、私は一言も発することができなかった。
水曜日。カフェ「雫」。
シフトに入って、コーヒーを淹れる。
常連の佐藤さんがカウンター席に座った。いつものように新聞を広げている。
佐藤さんの好みの温度、好みの濃さ。体で覚えているはずだった。
お湯を注ぐ。
ポットから落ちるお湯の線が、いつもより太い。
蓮がカウンターの端に座っていた時は、お湯の落ちる音と蓮の呼吸のペースが自然に同期していた。蓮の静けさが、私の手首の角度を安定させていた。
今は、その基準点がない。
メトロノームを失ったピアニストみたいに、自分の中のテンポがわからない。
頭の中で、菜月の言葉がリフレインしていた。
『あんたが好きなのは篠宮蓮なの。それとも、篠宮蓮がいる自分の居場所なの』
一人で立てることを証明しなければならない。
早く。早く証明して、蓮に会いに行きたい。
その焦りが、指先に伝わっていたことに気づかなかった。
「お待たせしました」
カップを出す。
佐藤さんが新聞から目を離し、一口飲んだ。
そして、少しだけ眉を寄せた。
「……ひよりちゃん。今日、ちょっと薄いね」
心臓が跳ねた。
「えっ……すみません、淹れ直します」
「いや、いいよいいよ。飲めないわけじゃないから」
佐藤さんは優しく笑ってくれたが、私はカウンターの下で拳を握りしめた。
失敗した。
佐藤さんのコーヒーを失敗するなんて、半年ぶりだ。
閉店後、店長がシンクを洗いながら言った。
「あんた、今日焦ってたね」
「……はい」
「お湯の落ちるスピードが速かった。早く抽出しようとして、お湯を太く注ぎすぎたんだよ。だから味が薄くなった」
店長は私を見なかった。スポンジを動かす手も止めない。
「一人で頑張ろうとするのはいいけどさ。空回りしてるよ」
図星だった。
蓮がいない穴を埋めようと、必死になりすぎていた。
一人で立てることを証明しようと急ぐあまり、目の前のコーヒーにも、隣の席の学生にも、ちゃんと向き合えていなかった。
「……どうすれば、いいんでしょうか」
「さあね。でも、自転車の練習と同じだよ。最初は転ぶ。転んで、膝すりむいて、痛い思いして、それでもペダル漕ぐしかないんじゃないの」
店長が蛇口の水を止めた。
「あんたは今、転んでる最中。痛いのは当たり前だよ」
帰り道。
十月の夜風が、コートの隙間から入り込んでくる。
寒い。
蓮が隣を歩いていた時は、こんなに寒く感じなかった。
あの人の体温が、風を遮ってくれていたから。
いや、違う。物理的に風を遮っていたわけじゃない。でも、蓮が隣にいるだけで、世界の温度が違った。
今はその温度がない。寒さが、骨まで染みる。
柔軟剤の匂いもしない。アスファルトの匂いと、排気ガスの匂いだけ。
一人で立つということは、ただ強がるだけじゃない。
自分の弱さや、不器用さや、失敗と向き合うことだ。
蓮という防波堤がなくなった世界で、冷たい風を直接浴びながら、それでも自分の足で歩くことだ。
「……寒い」
独り言が零れた。
誰も拾ってくれない。
風の音に掻き消されて、夜の闇に溶けていった。
うまくいかない。
でも、これが「一人で立つ」ということの、本当の始まりなのだ。




