表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/39

うまくいかない日

 一人で立つと決めた。

 決めたからといって、すぐに立てるわけじゃない。

 補助輪を外した自転車は、最初は必ず転ぶ。



         *



 十月の第三週。


 蓮に「隣に座らないでください」と告げてから、二週間と少し。

 大学には行けている。講義にも出ている。でも、全てが少しずつずれていた。


 火曜日。教育実践論の教室。


 端の席を避けて、真ん中あたりの席に座るようになった。

 隣には、いつも同じ女の子が座っている。長い黒髪をひとつに結んだ、桜庭さくらという名前の学生。


 音が、うるさい。


 蓮が隣にいた時は、教室の雑音は遠くのBGMだった。蓮の衣擦れの音、シャーペンの三拍子、微かな呼吸音。それだけが私の耳に届く世界の全てだった。

 今は違う。前の席の男子が貧乏揺すりをする音。斜め前の女子がスマホをフリックする爪の音。誰かの咳払い。蛍光灯の微かなジーというノイズ。

 全部が鼓膜に直接刺さってくる。蓮という「沈黙のバリケード」がどれだけ分厚く私を守っていたか、なくなって初めて物理的な音量として理解した。


 前方の席から、出欠確認のプリントが回ってきた。

 桜庭さんがプリントを受け取り、私に回してくれる。


 「はい」


 「あ、ありがとう……」


 声が、掠れた。

 小さすぎて、桜庭さんには届かなかったらしい。彼女はすでに前を向いてノートを開いていた。

 プリントを受け取った手が、少しだけ宙で迷った。


 蓮が隣にいた時は、声のボリュームなんて気にしなかった。

 独り言の音量で呟けば、蓮が勝手に拾ってくれたから。

 でも、普通の人間関係では、相手に届く声量で話しかけなければならない。

 その「普通」が、こんなに怖い。喉が絞まる。言葉が口の中で潰れる。


 話しかけよう。

 そう思った。模擬授業の準備について、誰かと相談したかった。

 桜庭さんの横顔を見る。真剣にノートをとっている。

 「あの」

 喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。

 今話しかけたら迷惑かもしれない。無視されたらどうしよう。変な人だと思われないか。

 蓮の沈黙のバリケードに守られていた時は、他人の目なんて気にならなかった。

 バリケードがなくなった今、他人の視線や反応が、直接肌に突き刺さる。

 結局、九十分の講義が終わるまで、私は一言も発することができなかった。



 水曜日。カフェ「雫」。


 シフトに入って、コーヒーを淹れる。

 常連の佐藤さんがカウンター席に座った。いつものように新聞を広げている。

 佐藤さんの好みの温度、好みの濃さ。体で覚えているはずだった。


 お湯を注ぐ。

 ポットから落ちるお湯の線が、いつもより太い。

 蓮がカウンターの端に座っていた時は、お湯の落ちる音と蓮の呼吸のペースが自然に同期していた。蓮の静けさが、私の手首の角度を安定させていた。

 今は、その基準点がない。

 メトロノームを失ったピアニストみたいに、自分の中のテンポがわからない。


 頭の中で、菜月の言葉がリフレインしていた。

 『あんたが好きなのは篠宮蓮なの。それとも、篠宮蓮がいる自分の居場所なの』

 一人で立てることを証明しなければならない。

 早く。早く証明して、蓮に会いに行きたい。

 その焦りが、指先に伝わっていたことに気づかなかった。


 「お待たせしました」


 カップを出す。

 佐藤さんが新聞から目を離し、一口飲んだ。

 そして、少しだけ眉を寄せた。


 「……ひよりちゃん。今日、ちょっと薄いね」


 心臓が跳ねた。


 「えっ……すみません、淹れ直します」


 「いや、いいよいいよ。飲めないわけじゃないから」


 佐藤さんは優しく笑ってくれたが、私はカウンターの下で拳を握りしめた。

 失敗した。

 佐藤さんのコーヒーを失敗するなんて、半年ぶりだ。


 閉店後、店長がシンクを洗いながら言った。


 「あんた、今日焦ってたね」


 「……はい」


 「お湯の落ちるスピードが速かった。早く抽出しようとして、お湯を太く注ぎすぎたんだよ。だから味が薄くなった」


 店長は私を見なかった。スポンジを動かす手も止めない。


 「一人で頑張ろうとするのはいいけどさ。空回りしてるよ」


 図星だった。

 蓮がいない穴を埋めようと、必死になりすぎていた。

 一人で立てることを証明しようと急ぐあまり、目の前のコーヒーにも、隣の席の学生にも、ちゃんと向き合えていなかった。


 「……どうすれば、いいんでしょうか」


 「さあね。でも、自転車の練習と同じだよ。最初は転ぶ。転んで、膝すりむいて、痛い思いして、それでもペダル漕ぐしかないんじゃないの」


 店長が蛇口の水を止めた。


 「あんたは今、転んでる最中。痛いのは当たり前だよ」



 帰り道。

 十月の夜風が、コートの隙間から入り込んでくる。

 寒い。

 蓮が隣を歩いていた時は、こんなに寒く感じなかった。

 あの人の体温が、風を遮ってくれていたから。

 いや、違う。物理的に風を遮っていたわけじゃない。でも、蓮が隣にいるだけで、世界の温度が違った。

 今はその温度がない。寒さが、骨まで染みる。

 柔軟剤の匂いもしない。アスファルトの匂いと、排気ガスの匂いだけ。


 一人で立つということは、ただ強がるだけじゃない。

 自分の弱さや、不器用さや、失敗と向き合うことだ。

 蓮という防波堤がなくなった世界で、冷たい風を直接浴びながら、それでも自分の足で歩くことだ。


 「……寒い」


 独り言が零れた。

 誰も拾ってくれない。

 風の音に掻き消されて、夜の闇に溶けていった。


 うまくいかない。

 でも、これが「一人で立つ」ということの、本当の始まりなのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ