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祈りの行き先

 蓮がいない世界は、歩ける。

 歩けるのに、色がない。

 色がないまま、歩いている。



         *



 十月中旬。


 蓮がいない日常に、慣れてきた、わけではない。慣れてなんかいない。でも足は動く。大学には行ける。講義には出られる。


 端の席には座らなくなった。


 あの場所にいたら、隣の空席が目に入る。蓮の形をした不在が、ずっとそこにある。だから真ん中あたりの席に座っている。人に囲まれた席。


 独り言は、減った。


 蓮に聞かれていないと思うと、声が出なくなった。


 独り言は「誰にも聞こえていない前提」で出てくるものだったはずなのに。


 聞いてくれる人がいない世界では、声が枯れる。喉の奥が詰まったみたいに、何も出てこない。


 カフェのシフトは続けている。コーヒーは淹れている。蓮が来ないカフェで。窓際B席が永遠に空いているカフェで。


 味は変わっていない。はずだ。湯温は同じ。蒸らし時間は同じ。注湯の角度も同じ。何も変えていない。


 でも店長が言った。


 「あんた、最近コーヒーが静かだね」


 「……静かって何ですか」


 「前より丁寧になった。でもね、丁寧と正確は違うんだよ。あんたの今のコーヒーは正確。でも前のは丁寧だった」


 何が違うのかわからない。温度も時間もグラム数も同じだ。


 「祈りが消えたんだよ」


 店長が布巾を絞った。左手の薬指の跡。白い肌の環。


 「あんたのコーヒーには祈りがあった。誰かにおいしく飲んでほしいっていう。その祈りが、今はない」


 祈り。


 蓮のために淹れる時だけ、指先が震えて、息を止めて、抽出が終わった瞬間に祈った。


 その祈りの行き先が、もうない。



         *



 閉店三十分前、窓際B席にマグカップを置いた。


 置いてから、すぐに下げた。

 一瞬だけ、蓮がカップを両手で包む映像が見えた。見えて、消えて、空の椅子だけが残った。


 誰も座っていない席に、湯気だけを置くのは、違うと思った。


 祈りは本来、席に置くものじゃない。人に向けるものだ。


 その日は、来た客全員に同じ温度で淹れた。


 レジ前で迷っていた会社員には、酸味の弱い豆を勧めた。子連れの母親には、熱すぎないように少しだけ抽出温度を下げた。常連の大学生には、いつもの濃さに寄せた。


 「助かります」


 「ちょうど欲しかった味です」


 言葉を受け取るたび、胸の奥が少しずつほどけた。


 祈りの行き先は、ひとつじゃなくていい。


 そう思った。


 そう思ったのに。


 閉店後に窓際B席を拭く時だけ、手が止まった。


 布巾を当てたまま、十秒。


 十秒で何が変わるわけでもないのに、十秒だけ動けなかった。


 蓮のいない世界でも、私は働ける。淹れられる。笑える。


 でも、拭き終えた木目の向こうに、まだあの人の輪郭を探してしまう。


 祈りの行き先を増やせても、祈りの出発点は消えない。


 「……帰ろ」


 独り言が、久しぶりに出た。


 聞いている人はいない。


 それでも、出た。


 鍵を閉めた。夜風が頬に当たる。十月の終わりは、思ったより冷たかった。


 明日は、もう少しだけ、前に進める気がした。

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