座らないでください
言った。
震えた声で。泣きそうな声で。でも逃げずに。
全部、言った。
*
十月第一週。月曜日。101教室。二限。
講義が終わった。
学生たちが立ち上がる。ノートを閉じる。鞄に荷物を入れる。ざわざわと出口に向かう。
教室が空になっていく。
私と蓮だけが、端の席に残っていた。
蓮はノートを閉じて、鞄にしまおうとしている。いつも通り。何もない月曜日の二限の後のように。
私は立ち上がった。
蓮のほうを向いた。
「篠宮さん」
初めてだった。私が蓮の名前を呼びかけに使ったのは。席が隣だから、名前を呼ぶ必要がなかった。顔を向ければ済んだ。
蓮が顔を上げた。
私の目は、赤かったはずだ。泣いた跡じゃない。泣きそうなのを堪えている赤。唇が微かに震えているのが自分でもわかった。
「もう——隣に座らないでください!」
教室の空気が、凍った。
エアコンは動いている。窓の外には秋の光がある。でも空気が、動きを止めた。
蓮の手が止まった。鞄のファスナーを持ったまま。
名前を呼ばれた。座らないでくれ、と言われた。
蓮の目が、微かに、見開かれた。暗い茶色の目。鋭い、いや、一生懸命見ようとしている目。その目が、少しだけ大きくなった。
私が続ける。声が震えている。
「私、あなたを利用してたんです」
蓮の表情が、変わった。
無表情の男の、初めての表情変化。目元の筋肉が微かに動いた。眉間が寄った。怒りじゃない。困惑。理解しようとして、できない、という顔。
「隣にいてくれると楽だから。勧誘が来ないから。静かだから。教室に居場所ができるから」
一語ずつ。区切るように。言葉を選んでいる。選ぶ必要がないくらい何度も練習した言葉を、それでも一語ずつ確認しながら。
「あなたの傘を使って。ノートを使って。沈黙を使って。全部、私の快適さのために」
蓮の指がファスナーから離れた。
その手が、微かに震えているのが見えた。
無表情だった顔に、初めて明確な痛みの色が走った。傷つけてしまった。私の言葉が、あの人を。
「それは好きとは違う。あなたに失礼だ」
目から涙がこぼれた。一粒。右の頬を伝って、顎から落ちた。制服のスカートに染みが。いや、私服だ。ジーンズの上に落ちた。
「だから、私は一人で立たなきゃいけない」
私は拳を握った。爪が掌に食い込んでいるのがわかる。血が滲むくらい強く。
本当は、こんなこと言いたくない。蓮を傷つけたいわけじゃない。あの不器用で優しい人を、私の勝手な迷いで傷つけるなんて最低だ。でも、このままじゃ私は蓮を壊してしまう。蓮の優しさに寄りかかって、蓮の重荷になってしまう。自分を守るためじゃない。蓮を守るために、私は一人で立たなきゃいけない。
「あなたがいなくても。一人で」
蓮が口を開いた。
「」
声が出ない。
蓮の唇が動いている。形だけ。音がない。言葉を選んでいる。「違う」「利用なんかじゃない」「隣にいろ」「俺がいたかったんだ」。全部、頭の中にある。わかる。蓮の唇の動きでわかる。あの人の唇は「い」の形をしている。「い」で始まる言葉。いろ。いるな。いたかった。いつだって。
でも出ない。
16歳で壊れたスピーカー。音量が0のまま。
蓮の唇が開きかけて、閉じた。
一秒。
二秒。
目が合っていた。蓮と私の目が。涙で滲んだ視界の中で、蓮の顔がぼやけている。でも目だけは見えた。蓮の目が、揺れていた。
あの鋭い目が鋭くなかった。鋭くなんかなかった。何かを必死に留めようとしている目だった。留めきれないものが溢れそうになっている目だった。
間に合わなかった。
蓮の沈黙が——間に合わなかった。
言葉が出るまでの時間を、私は待てなかった。待ったらもう戻れない。待って、蓮が何か言ったら、離れる覚悟が崩れる。
「さようなら」
私は鞄を持って歩き出した。教室の通路を。蓮の前を通り過ぎる。
振り返らない。
蓮の手が、伸びかけたように見えた。私の腕を掴もうとしたように。
でも、止めた。
触れたら、声の代わりに触れたら、私にまた「利用」されたと思わせるかもしれない。蓮の行動の全てを「利用した」と私が言うなら、行動で引き留めることもまた、私を苦しめる。そう思ったのかもしれない。
蓮の手が、机の上に落ちた。力なく。
私は教室を出て行った。扉が閉まった。足音が廊下に消えていく。
101教室の端の席に、蓮だけを残して。




