菜月の刃
菜月が怒った。
いや、怒ったんじゃない。
刺した。正確に。深く。
*
九月中旬。学食。昼休み。
菜月がきつねうどんの箸を置いた。
いつもの菜月じゃなかった。声のトーンが違う。表情が違う。大きな目が真剣で、笑っていなかった。
「ひより」
名前。
菜月が「ひより」と呼ぶ時は、本気の目印だ。
「聞いていい」
「……うん」
「あの人がいなくなったら、あんた、どうするの」
心臓が掴まれた。
「どうって」
「大学。一人で行ける」
行ける。行けるはずだ。蓮がいなくたって大学には行ける。
「勧誘、一人で断れる」
断れる。断れるはずだ。
「講義中、一人で座っていられる。隣が空いてても平気」
答えられなかった。
「閉店後のカフェ、一人で片付けて、一人で帰れる」
答えられなかった。
笸を持つ指が白くなっていた。いつから力を入れていたのか、わからなかった。
全部「はい」と言えるはずだった。一年前は全部一人でやっていた。蓮に会う前は。大学に一人で行って、一人で勧誘をかわして、かわせなかったけど、一人で講義を受けて、一人でカフェで働いて、一人で帰って。全部一人でできていた。
今は「できる」かどうかじゃなくて、「できると即答できない」ことが答えだった。
菜月が続ける。
「好きなのはいいよ。あたし応援してる。でもさ」
菜月の声が、微かに震えた。怒りじゃない。心配の震えだ。
「でもあんた、あの人なしで生きていけなくなってない」
「……」
「あの人がいるから大学に行ける。あの人がいるから教室にいられる。あの人がいるから断れる。あの人がいるから、あんたは安心できる」
菜月が私の目を見た。逸らさない。
「それって、好きなの。それとも、楽な環境が欲しいだけなの」
世界が、ぐらりと揺れた。
学食の騒音が遠くなった。菜月の声だけが鮮明に聞こえる。
「あんたが好きなのは篠宮蓮なの。それとも、篠宮蓮がいる自分の居場所なの」
口を開いた。「違う」と言いたかった。
言えなかった。
否定の根拠がない。
蓮がいなくなった金曜日。世界から色が消えた。音がなくなった。温度が下がった。衣擦れの音がしない教室は箱だった。
それは「蓮が好きだから」だと思った。自覚した。好きだと認めた。
でも菜月の問いを前にすると。
「蓮がいない世界が嫌」と「蓮が好き」は——同じなのか。
居心地のいい環境を失いたくないから「好き」と名付けているだけじゃないのか。
蓮が隣にいると安心する。蓮がいないと不安になる。蓮がいると教室にいられる。蓮がいないと教室が箱になる。
それは蓮という「人間」が好きなのか。
蓮という「機能」が欲しいだけなのか。
バリケード。沈黙のバリケード。あの名前を最初につけた時、蓮は「機能」だった。勧誘を防いでくれる壁。居心地のいい沈黙を提供してくれる装置。
装置を好きになったのか。人を好きになったのか。
お腹の底が、ぎゅっと縮んだ。
「あたしはさ」
菜月がうどんの汁を啜った。少しだけ、その手が震えていた。
「昔、それで失敗したから。相手のことが好きなのか、一人になるのが怖いだけなのか、わかんなくなって。結局、お互いボロボロになった」
菜月が自嘲するように笑った。いつも明るい菜月が、初めて見せた後悔の顔だった。
「あんたには、そうなってほしくない。あんたが幸せなら何でもいいんだよ。でもあんたが幸せじゃなくて、依存してるだけなら——それは恋じゃない。逃避だよ」
涙が、一粒だけ落ちた。
うどんの汁に落ちて、滲んで、見えなくなった。
「……ごめん」
「謝んな。考えろ」
菜月が鼻を鳴らした。
「考えて、自分で答え出しな。あたしには出せないから」
菜月のハンカチが差し出された。ピンクの花柄。菜月らしい。
受け取った。目を拭いた。菜月の手が、私の拳の上に重なった。温かかった。
友達の温度。蓮とは違う温度。蓮の手は冷たいのに触れた場所が熱くなる逆説の温度だった。菜月の手はまっすぐに温かい。嘘のない温度。
その温度が、今は一番、痛かった。
*
帰り道。
菜月の言葉が、頭の中で反響していた。
もし答えが「依存」だったら。もし私が好きなのが「蓮がいる環境」だったら。
蓮に対して、最低だ。
あの人は言葉を失くしてまで、行動で何かを伝えようとしてくれた。傘も、ノートも、絆創膏も。全部、声にできない気持ちの翻訳だった。その全てを「快適な空間」として消費していたのだとしたら。
胃が縮んだ。比喩じゃない。胃酸が逆流しかけた。街路樹の下で立ち止まった。九月の夕暮れ。秋の虫だけが鳴いている。
蓮に、会いたい。会いたいと思っている自分が、もう信用できない。
答えが出ないまま、歩き始めた。
独り言は——出なかった。




