巻き戻し再生
蓮の行動を、全部、遡って見直した。
同じ記憶なのに、意味が全部変わっていた。
フィルムを巻き戻して、別の言語の字幕で再生するみたいに。
*
九月。後期が始まった。
101教室に戻った。いつもの席。
蓮がいた。隣に。夏休みを挟んでも同じ席。同じ鞄。同じ順番。
でも私の目が変わっていた。
氷室の話を聞いてから、蓮の所作の意味が、ぜんぶ書き換わった。
蓮がノートを開く。ペンを持つ。板書を黙々と写す。あの印刷みたいに整った文字。
前は「几帳面な人なんだ」と思っていた。
今は違う。
あの文字の整い方は「乱れたくない」の証だ。蓮は文字が乱れない限り自分が壊れていないことを確認できる。自律の証拠。制御できていることの証拠。
蓮が私のノートに板書を写してくれた日。あの綺麗な筆跡。「字、きれい」と独り言を言った日。
あれは「ノート写しておいたよ」と言えない蓮が、代わりに文字だけを残したのだ。声の代わりに。
蓮の指がシャーペンを回している。カチ、カチ、カチ。三拍子。
この三拍子は蓮の心臓の代弁なのかもしれない。声が出せない分、指で音を出す。無意識かもしれない。でもこの音が蓮の「今ここにいる証」になっている。
知ってしまうと、全部が違って見える。
蓮が講義中に微動だにしないこと。前は「集中力がすごい」と思っていた。今は、動いたら空気を乱すと思っている人の、必死の制御に見える。自分の存在を最小化しようとしている。他人に影響を与えないように。
蓮がカフェで窓際のB席に座ること。前は「好きな席なんだな」と思っていた。今は、あの席がカウンターとちょうど対角で、私の作業を邪魔しない位置だとわかる。かつ、私の手元が一番よく見える角度でもある。邪魔をしないように離れて、でも見ていたかった。
蓮が「うまい」としか言わないこと。前は「語彙が少ないのかな」と思っていた。今は「うまい」の三文字が、蓮にとってのギリギリだとわかる。もっと言いたいことがある。「コーヒーが好きだ」「お前の淹れ方が好きだ」「毎日飲みたい」。言いたい言葉が全部、言葉にする前に止まる。止まって、止まって、残った最小の破片が「うまい」。
蓮の「うまい」は——削り出された告白だ。
全部知ってしまった。知ってしまったら、もう、蓮の所作を「無口な人の日常」としては見れない。
蓮は言葉を失くした人だ。だから全部を行動に変換する。傘も、ノートも、絆創膏も、席の位置も。全部、声にできない言葉の、身体的な翻訳だ。
蓮が何もしないように見えた日々が——何もしないのではなく、「黙って選び続けてくれた日々」だった。
隣に座ることを。私のシフト日に来ることを。カップを両手で包むことを。「うまい」と声に出すことを。
全部、蓮が選んでくれていた。
カフェ「雫」。九月の平日。
蓮がカウンター席の端に座っている。後期最初の来店。
コーヒーを淹れた。エチオピア・イルガチェフェ。蓮のために、この豆を選んだ。
注湯しながら考えた。
蓮が一口目で目を閉じる、あの仕草。
店長が言っていた。「大事に飲んでるの。舌じゃなくて心で飲みたいから、目を閉じる」
蓮が目を閉じる一口目に。全神経を集中させている一口目に。蓮は何を感じているのだろう。
コーヒーの味だけじゃない。たぶん。味だけなら、どの店の誰のコーヒーでもいい。蓮はここにしか来ない。私のシフトにしか来ない。
あの一口目に、私の「祈り」が届いているのだろうか。
「おいしくあってほしい」。それだけの祈り。でもその祈りの向こうに「あなたに飲んでほしい」がある。もっと向こうに。
カップを出した。
蓮が両手で包んだ。
目を閉じた。
長い。いつもより長い。五秒。六秒。
目を開けた。
「……うまい」
その声が、前と違って聞こえた。
知ってしまった後の「うまい」は、重い。三文字なのに、質量がある。
指先が震えた。エプロンの裾を掴んで、止めた。
私はカウンターの中に立ったまま、微かに頷いた。
「ありがとうございます」
ありがとう。
コーヒーの感想への礼。
でも本当は全部へのありがとうだ。傘も、ノートも、絆創膏も、沈黙も、全部。声にできなかったあなたの全部を、ありがとう。
蓮には伝わっていない。この「ありがとうございます」が何に対してなのか。
それでいい。今は。
今は蓮の行動の意味を知っている私が、蓮のためにコーヒーを淹れる。それで十分だ。
十分なはずだ。
十分だと思おうとしている自分の中の何かが——もう、十分じゃないと叫んでいる。
*
その日の帰り道。
大学の最寄り駅に向かって歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「ひより」
菜月だった。ゼミの飲み会帰りらしい。少しだけアルコールの匂いがする。
「あ、菜月。お疲れ」
「お疲れ。……てかさ」
菜月が私の顔を、じっと覗き込んだ。駅前の街灯の下で、その目がいつもより鋭く光っている。
「あんた、なんか変わったね」
「え? 何が?」
「顔つきっていうか、空気っていうか。……篠宮くんのこと、何か知った?」
心臓が跳ねた。氷室から蓮の過去を聞いたことは、まだ誰にも言っていない。
「……なんでそう思うの?」
「わかるよ、それくらい。あんた、前は篠宮くんのこと『観察』してるだけだったじゃん。でも今は違う。なんか……重い。背負い込んでるっていうか、全部わかった上で受け止めようとしてる顔してる」
菜月の観察眼は、相変わらず恐ろしいほど正確だった。
「……うん。少しだけ、彼のことがわかった気がする」
「ふーん」
菜月は腕を組み、少しだけ首を傾げた。
「わかったから、どうするの?」
「どうするって……今まで通り、隣にいるよ。彼がそれを望んでくれるなら」
私がそう答えると、菜月の眉間に微かに皺が寄った。
「今まで通り、ねえ……」
菜月は何かを言いかけて、口をつぐんだ。そして、ため息を一つ吐いた。
「まあいいや。明日、お昼一緒に食べよ。ちょっと話したいことがあるから」
「うん、わかった」
菜月はひらひらと手を振って、改札の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感を覚えた。
菜月のあの目。何かを見透かしたような、そして何かを危惧しているような目。
その違和感の正体を、私は翌日、思い知ることになる。




