言葉をなくした人間
あの人は——言葉を失くした人間だった。
失くしたんじゃない。捨てたんだ。
誰かを傷つけないために。
*
八月下旬。カフェ「雫」。私のシフト。平日の午後。
蓮は今日も来ていない。夏休みの後半に入ってから、来店頻度が下がった。週三が週一になり、先週は一回も来なかった。
理由は知らない。聞けない。LINEも知らない。連絡手段がない。講義もない。蓮がカフェに来なければ、会う方法がない。
カウンターを拭いていた。十四時。客は少ない。
ドアベルが鳴った。
心臓が跳ねた。条件反射。
違った。
蓮じゃない。でも、知っている人だった。
暗めの茶髪。短髪。ワックスで整えている。温和な目元。チェックのシャツ。
あの人だ。茶髪でチェックのシャツ。キャンパスの中庭で蓮の横にいた人。図書館の前で蓮と肩を並べて歩いていた人。名前は菜月が教えてくれた。「篠宮くんと仲いい人、文学部の氷室って人らしいよ」と。
氷室拓真。
「すいません、本日のコーヒーください」
普通の声量。蓮の三倍は声が出ている。声に遠慮がない。人前で喋ることに慣れた人の声。
「はい、すぐお出しします」
準備した。今日のコーヒーはコロンビアの中煎り。まろやかでバランスがいい。万人受けする味。蓮は深煎りが好きだけど、蓮じゃない人に蓮の好みを基準に考えるのはおかしい。
カップを出した。氷室がカウンター席に座って、一口飲んだ。
「あ、うまい」
三文字。蓮と同じ三文字。でも、全然違った。
声量が違う。間が違う。温度が違う。氷室の「うまい」はカジュアルで日常的な感想だ。蓮の「うまい」は、選び抜かれた三文字だ。二十秒の沈黙の後に、唯一出てくる三文字。
蓮の「うまい」がどれだけ特殊かを、他の人の「うまい」を聞いて知った。
「瀬川さん、だよね」
名前を知っている。蓮から聞いたのか。蓮が私の名前を誰かに言ったのか。
「はい」
「蓮と、篠宮と同じ講義の」
「はい」
氷室がカップを見つめた。取っ手を持っている。蓮と違う。蓮は両手で包む。取っ手を使わない。蓮だけだ、あの持ち方をするのは。
「あいつのこと、ちょっと聞いていい。最近あいつ様子おかしくてさ。お前なら何か知ってるかと思って」
心臓が跳ねた。
「……すみません、様子がおかしいって、具体的に、どういう」
自分でも驚いた。聞き返していた。蓮のことになると、声が出る。
氷室が天井を見た。言葉を選んでいる。蓮みたいに長くはない。数秒で。
「カフェに来なくなった。俺の連絡も既読だけで返事がない。前は短くても返してたのに」
「いつからですか」
「盆明けくらいかな」
氷室の指がカップの取っ手を叩いた。軽い音。苛立ちのリズム。
「前は返事遅くてもスタンプくらいは返してきたんだよ。今は既読だけ。読んでるのに返さない。あいつなりのSOSなのか、俺を切ろうとしてるのか、わかんなくてさ」
氷室の声は軽かった。軽いのに、目が笑っていなかった。
蓮が来なくなった時期と重なる。
「……私も、篠宮くんのこと、聞きたいことがあります」
氷室が私を見た。
「篠宮くんって、ご家族はいるんですか?」
氷室の手がカップの上でピタッと止まった。
「さあな。あいつ、自分の話は全然しねえから」
あからさまに目を逸らされた。これ以上踏み込んではいけない領域だと、直感でわかった。
「……じゃあ、もう一つだけ。篠宮くんは、昔から、あんなに無口だったんですか」
氷室の手がカップの上で止まった。いや、さっき止まったまま、動いていない。
「……いや」
短い沈黙。
「昔は普通に喋る奴だったよ」
手が止まった。布巾を持ったまま。固まった。
「え?」
「高校入った頃まではさ。うるさいとは言わないけど、思ったこと普通に言う奴だった。正直っつーか、まっすぐっつーか」
蓮が普通に喋っていた。
あの蓮が。ノートの文字と溜息としか会話しない、あの蓮が。「うまい」の三文字を絞り出すだけの、あの蓮が。
普通に、喋る人だった。
「どうして、喋らなくなったんですか」
氷室がコーヒーを一口飲んだ。飲む動作で間を取っている。蓮と違って、間の取り方が意図的だ。
もう一口。沈黙が長い。
氷室が店長のほうをちらっと見て、声を落とした。
「これ、あいつには内緒な。俺が勝手にやってることだから」
勝手に。そう言った氷室の顔に、覚悟のようなものが見えた。蓮に怒られるかもしれない。信頼を裏切るかもしれない。それでも言おうとしている。
「高校ん時からずっと見てきたんだよ。あいつが変わっていくの。喋れなくなっていくの。親父さんが出て行ったあの日も、俺はあいつのそばにいたのに、何も言えなかった。ただ見てるしかできなかった」
氷室がカウンターの木目を指でなぞった。
「四年だぞ。四年見てて何もできなくて、やっとあいつが変わり始めて。それが今また壊れかけてる。俺じゃあいつの時間は動かせない。でも、あんたなら……見てるだけは、もう無理なんだ」
この人は「放っておけない人」なのだ。蓮が壁を作っても、返事がなくても、ずっと隣にいた人。蓮の沈黙の時間を、私よりずっと長く知っている人。
「全部は知らない。でも断片的には聞いてる」
氷室の口調が変わった。「つーか」「なんつーか」の軽い繋ぎが消えた。声が低くなった。真剣な声。
「——あいつ、昔は普通に喋ってたんだけどな。ある日を境に、ピタッと喋らなくなった」
息が止まった。
「自分の言葉が、親父さんを追い詰めて……死なせちまったって、そう思い込んでるんだよ」
氷室がもう一口飲んだ。
「あいつの親父さん、家を出て、その半年後に事故で死んだんだ。あいつが『あんたの人生は失敗だ』って言ったのが、家を出る決定打になった。だからあいつは、自分が親父さんを殺したと思ってる」
自分の言葉が、誰かを壊した。
蓮の沈黙の意味が反転した。
ぐるぐると。頭の中で。蓮の四ヶ月分の所作が、全部巻き戻されていく。
傘を差し出して、自分は濡れて帰ったこと。
「傘、持っていけ」と言えなかったから。差し出すしかなかった。
ノートに板書を写してくれたこと。
「ノート写しておいたよ」と言えなかったから。黙って書いた。
絆創膏を貼ってくれたこと。
「大丈夫か」と言えなかったから。カウンターを越えてきた。
全部、全部、言葉にできなかったから。
行動で。声の代わりに。身体で。
蓮の沈黙は——無口なんかじゃなかった。
喋らないんじゃない。
喋れなかったんだ。
言葉が怖いんだ。正しい言葉で人を傷つけた人間が。もう二度と人を傷つけたくなくて。言葉を止めたんだ。
目の奥が、熱くなった。
「あの」
声が震えた。自分でも分かるくらい。
氷室が私を見た。
「泣くとこじゃないんだけど」
「泣いてません」
泣いていた。睫毛の先に涙が溜まって、カウンターの上に一粒落ちた。木の表面に、小さな染みが広がった。
すぐに布巾で拭いた。お客様の前でカウンターに涙を落とすバリスタ。失格だ。
「ごめんなさい、すみません」
「いや、謝んなくていい」
氷室が困ったようにぽりぽりと頭を掻いた。
「俺が言えるのはここまで。具体的に何があったかは、あいつが自分で言うべきだから」
氷室がカップを置いた。空になっていた。蓮がいつも大事に飲む白い磁器と同じカップを、氷室は一気に空にしていた。
「正直さ、ちょっと妬ましいよ。俺が四年かけて届かなかった場所に、お前はたった半年でいるんだから」
笑っていた。唇は笑っていた。目は笑っていなかった。
「……はい」
何と返せばいいかわからなかった。
「ただ一個だけ」
氷室が私を見た。まっすぐに。蓮の目とは違う。蓮の目は鋭くて、いや、鋭いのではなく一生懸命見ようとしている目だった。氷室の目はまっすぐで、澄んでいて、迷いがない。
「あいつ、変わったよ。大学入ってから。特に、今年の春から」
春。四月。蓮が隣に座り始めた月。
「講義に遅刻しなくなった。むしろ早く来るようになった」
氷室がカウンターに代金を置いて、立ち上がった。
「あいつが朝に強くなる理由なんか、俺には一個しか思いつかないけどな」
ドアベルが鳴った。氷室が出て行った。
カウンターの中に、一人で立っていた。
蓮が朝に強くなった理由。
蓮が早く来るようになった理由。
私が、理由なのか。
膝から力が抜けた。カウンターに手をついて、やっと立っていた。
わからない。
でも氷室の目は、嘘をついていなかった。
*
閉店後。
カウンターを拭きながら、もう一度泣いた。
声を出さずに。蓮みたいに。声を出さずに。
蓮の全ての沈黙が「傷つけたくない」から来ていたと分かった今。
あの人の声が聞きたい。
三文字でも。二文字でも。
あの低くて、静かで、選び抜かれた言葉が聞きたい。
でもそれを望むことは、蓮にとって残酷なのかもしれないとも思った。
言葉が怖い人に「喋ってほしい」と望むのは、蓮が必死に守っている沈黙を壊すことだ。
蓮の沈黙は、蓮なりの優しさだ。
もう傷つけたくない。だから黙る。黙って、行動で伝える。不器用に。ぎこちなく。
その不器用さを、私は、好きになったのだ。
カウンターに頬をつけた。冷たい。木の温度。蓮がカップを置いていた場所。
「……あの人は冷たいんじゃなくて、不器用なだけだと思うけどな」
いつか言った言葉。いつ言ったかも覚えていない言葉。自分でも忘れている独り言。
でもそれが、正しかった。
不器用なだけだった。ずっと、最初から。




