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蓮フィルター

 あの金曜日、蓮が一日休んだ理由を聞いて、自分の気持ちを自覚した翌日から。

 世界は同じ世界のはずなのに、全部違った。

 厄介な眼鏡をかけてしまった。外し方がわからない。

 外したくもない。



         *



 八月第一週。


 夏休みに入る前の最後の講義週。


 101教室。一限。蓮が隣にいる。いつも通り。


 いつも通りなのに、いつも通りじゃない。


 蓮がシャーペンを持った。


 指が長い。知ってる。ずっと前から知ってる。


 でも「好き」のフィルターを通した蓮の指は、ただ長いんじゃなくて、綺麗だ。美しい。人間の手ってこんなに美しいのか。いや、好きな人の手が綺麗に見えるだけだ。認知バイアスだ。


 認知バイアスでいい。この認知バイアスは手放したくない。


 蓮が髪をかき上げた。


 耳が見えた。赤くない。通常の耳。ただの耳。でもこの耳が赤くなる瞬間を私は何回も見ている。あの赤がまたこの距離で見れるなら。見れるだけで。


 好きすぎて苦しい。


 苦しいのに楽しい。楽しいのに怖い。怖いのに、やめたくない。矛盾の矛盾の矛盾。私の脳内は三重否定で破綻している。


 蓮が小さく咳をした。


 咳。風邪なのか。アレルギーなのか。教室の埃なのか。それとも。いや、咳に恋愛的意味はない。咳は咳だ。生理現象に好きを見出すな。


 見出してる。すでに。


 咳をする蓮の横顔を三秒見つめた自分に気づいて、ノートに視線を戻した。罫線の上に意味のない直線を引いた。直線が少し震えている。


 自覚した翌日からの私の脳内はこんな調子だった。


 蓮の全てが「好き」を経由して知覚される。コーヒーの蒸らし時間みたいに、蓮のあらゆる所作が私のフィルターを通過して、抽出される。結果は全部同じだ。「好き」。一投目も二投目も三投目も、出力はぜんぶ同じ。バリエーションがない。でも濃さは毎回違う。


 この状態を、どうすればいい。


 好きだとわかった。それはいい。認めた。消去法の最後の一つを受け入れた。


 でも、どうするのか。


 告白。しない。できない。篠宮蓮に「好きです」と言う自分が想像できない。想像しようとすると脳が拒否する。ブルースクリーンだ。


 じゃあこのままなのか。隣にいるだけなのか。好きだと知りながら、何も言わずに。


 何も言わずに、隣にいる。


 それは蓮がずっとやっていたことじゃないか。


 蓮は何ヶ月も何も言わずに、隣にいた。


 今度は私の番なのかもしれない。何も言わずに。何も求めずに。ただ隣で、コーヒーを淹れて、シャーペンの三拍子を聞いて、衣擦れの音に安心して。


 でもそう思った瞬間に、胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 このままでいい、と思えない。


 好きだと知ってしまったら——「このまま」がすでに「このまま」じゃない。



         *



 カフェ「雫」。


 蓮がカウンター席の端に座っている。本を読んでいる。コーヒーのカップが半分残っている。


 好きな人が自分の淹れたコーヒーを飲んでいる。


 それだけの事実が重い。今まではプロとしての満足感だった。「うまい」と言われて嬉しいのは技術への評価だと思っていた。


 違った。


 嬉しいのは、蓮が「うまい」と言ってくれるからだ。他の誰が言っても同じ嬉しさにはならない。この嬉しさは技術じゃなくて、人に紐づいている。蓮という個人に。


 蓮がカップを持ち上げた。両手で包む。口元に運ぶ。一口飲む。


 目を閉じなかった。


 いつもは一口目で目を閉じるのに。今日は目を開けたまま飲んだ。


 カウンターの中の私を、見ていた。


 飲みながら。


 目が合った。


 カップ越し。距離はカウンターの幅、六十センチくらい。蓮の暗い茶色の目が、カップの縁の上から私を見ている。


 心臓が止まった。止まってから、倍速で動き始めた。


 蓮がカップを下ろした。視線を本に戻した。


 何もなかったように。


 何もなかったのか。わからない。蓮の目が私を見ていたのは事実だ。でもそれが「私を見ていた」なのか「カウンターの方向に目を向けていた」なのかは、蓮にしかわからない。


 わからないのに、見られていた、と思いたい自分がいる。


 鉈っていい。今だけ。



 八月第二週。夏休み。


 講義がない。大学に行く理由がない。蓮に会う理由がない。


 カフェのシフトは続いている。蓮が来るかもしれない。


 来た。


 火曜日。水曜日。金曜日。週三。いつも通り。


 夏休みの蓮は少し違った。リュックじゃなくてトートバッグ。ノートがない代わりに文庫本が二冊。注文は変わらないけれど、滞在時間が少し長い。


 金曜日。閉店三十分前。


 蓮がカップを返しに来た。いつも通りカウンターに置く。いつも通りのはずだった。


 カップの下に、紙ナプキンが一枚敷いてあった。


 蓮はそんなことをしない人だ。カップを直接カウンターに置く。いつもそうだった。


 ナプキンを裏返した。


 文字。蓮の文字。あの整った筆跡で、一行。


 『エチオピアが一番うまい』


 レビューだ。


 蓮がコーヒーの感想を文字で書いた。声では「うまい」の三文字しか出せないから。書いた。ノートに板書を写すのと同じ要領で。声の代わりに。


 紙ナプキンをエプロンのポケットに入れた。


 捨てられない。絶対に。


 長い。嬉しい。嬉しいことを嬉しいと思える。


 「好き」を自覚してから——感情の解像度が上がった。


 嬉しい時に嬉しいとわかる。寂しい時に寂しいとわかる。怖い時に怖いとわかる。今まで全部「なんかよくわからない身体反応」で処理していたものに、名前がついた。


 名前がつくと、痛い。嬉しさも寂しさも怖さも、名前がある分だけ鋭くなる。


 好きだと知る前に戻れるなら——戻らない。鈍かった頃より、痛い今のほうがいい。


 蓮がカウンターにカップを返しに来た。


 「ごちそうさま」


 六文字。低くて、静かで、丁寧な声。


 「ありがとうございます。また」


 また。


 言ってしまった。「また」。「また来てください」の省略形。店員としては普通の言葉だ。「またのお越しを」と同じだ。


 でも今の「また」は、また来てほしい、という祈りだった。


 蓮が微かに頷いた。


 ドアベルが鳴った。出ていった。


 「また」が、まだ唇に残っていた。


 夏が終わる。


 蓮と二人の夏が、もう少しだけ続いてほしいと、思った。


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