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痛いくらいに綺麗

 月曜日。蓮が、いた。


 いた。


 それだけで——世界がぜんぶ、戻った。



         *



 八月四日。月曜日。101教室。


 一限。


 いつもの席に座った。開始八分前。早く来すぎた。理由はない。理由があるとしたら、不安だ。金曜にいなかった人が月曜にいるかどうかは、確率五割だ。来るかもしれない。来ないかもしれない。来なかった時の自分のダメージを知っている分、早く来て覚悟を決めておきたかった。


 何を覚悟するのか。空席を見る覚悟だ。前回の空席で世界から色が消えたのだから、今回はせめて心構えを。


 ドアが開いた。


 衣擦れの音。


 振り返る前に分かった。足音の間隔。歩幅の大きさ。靴底が床を擦る微かな音。全部、記憶と一致した。


 蓮が通路を歩いてくる。


 いつもの席に向かっている。いつもの鞄を肩にかけて。いつものシャツを着て。いつもの。


 顔が見えた。


 無表情。いつもの。少しだけ眠そうな目。前髪が少し伸びた。週末を挟んで。


 その瞬間。


 世界に、色が戻った。


 文字通りだ。教室の蛍光灯の光が白いことに気づいた。壁のクリーム色。窓の外の空の青。木の緑。前の席の女子の赤いヘアゴム。全部、色がある。


 金曜日は色がなかった。同じ教室で同じ光でも、色が知覚できなかった。目は機能していたのに。


 色を戻したのは、蓮だ。


 蓮が隣に座った。鞄を足元に置く。ノートを出す。ペンを持つ。いつもの順番。いつもの角度。


 柔軟剤の匂いがした。


 涙が出そうになった。匂いで泣きそうになる人間がいるのか。いる。ここにいる。


 堪えた。堪えた理由は、泣いたら蓮に気づかれるからだ。蓮に、というか、隣の人間に泣かれたら迷惑だ。金曜休んだだけで泣かれる人間の立場を考えろ。考えてる場合か。


 蓮のシャーペンが回り始めた。カチ、カチ、カチ。三拍子。正常動作。


 心臓のリズムが同期した。


 嫌だ。嫌なのに、安心する。同期する自分に嫌悪して、安心する自分にさらに嫌悪する。感情の二重否定。結局、安心している。


 蓮がこちらを見た。


 一瞬。横目で。


 目は合わなかった。蓮が先に前を向いた。でもその一瞬、蓮の目が、確認するように私を見た。


 確認。隣にいることの、確認。


 蓮も確認したかったのだろうか。隣の席が空いていないことを。


 考えすぎだ。蓮は視力が悪い。ただ視界の端の影を確認しただけだ。私がいるかどうかではなく、何かが隣にあるかどうかを見ただけだ。


 でも。


 でも、を許してしまう自分がいた。



         *



 講義が始まった。


 教授の声が聞こえる。スライドの文字が読める。ノートに書き写せる。


 全部、おいしい。


 おいしい、は表現としておかしい。味じゃないのだから。でも、金曜日に欠落していた「評価関数」が動いている。情報が入力されて、処理されて、ちゃんと「面白い」「なるほど」「ここ重要」と感じる。感覚が戻っている。


 隣で蓮がノートを書いている。あの整った文字。印刷みたいな均一さ。ペン先が紙に触れるかすかな音。


 金曜日に消えていた音が、全部ある。


 衣擦れ。シャーペンの三拍子。ページをめくる紙の音。蓮の呼吸。教室の空調。窓の外の蝉。


 音がある世界は温かい。


 温度も戻った。エアコンは二十五度設定。金曜は体感二十三度だった。今日は二十六度くらいに感じる。蓮の体温が加算されている。物理的にはありえない。心理的にはありえる。


 ありえている。今。この瞬間。隣に蓮がいて、教室が温かくて、色があって、音があって。


 ああ。


 この人が隣にいるだけで、世界が全然違う。


 蓮がいない金曜日と、蓮がいる月曜日で、同じ教室が別の場所になる。温度が変わる。色が変わる。音が変わる。


 蓮が。


 ページをめくった。右手の指。長い指。爪が短い。手首の骨。腕。肘。白いシャツの袖。肩。横顔。顎のライン。唇。睫毛。額。前髪。


 目が、勝手に追っている。観察とかそういうレベルじゃない。追っている。指先から頭の先まで。蓮の輪郭の全部を、目が辿っている。


 そしてその輪郭が——


 痛いくらいに、綺麗だった。


 綺麗。


 使ったことがない言葉だ。人に対して。蓮のノートの文字を「きれい」と言ったことはある。でもそれは技術への評価だ。


 今のは違う。


 蓮の、存在が、綺麗だった。所作でも、文字でも、顔のパーツの配置でもなく。この人がここにいること自体が、綺麗だった。教室の空気を清浄にするのではなく、空気そのものを変える。蓮がいると世界が静かに光る。フローラルでも花でもなく冬の朝の空気みたいだ。冷たいのに清潔で、吸い込むと肺が痛いくらいに、きれい。


 いや違う。冬の朝の空気の比喩は私のカテゴリにない。コーヒーか温度か音か消去法か欠損しか。


 ああ。


 もう、比喩のカテゴリなんか、どうでもよかった。


 この人が綺麗だという事実を前にして、比喩の文法を気にしている場合じゃなかった。


 ああ。


 ああ。


 これ、好きだ。


 好きだ。蓮が。篠宮蓮が。好きだ。


 好き以外の言葉が——消えた。


 もう消去しない。


 好きだ。


 シャーペンの三拍子が聞こえている。蓮は前を向いている。ノートを書いている。何も気づいていない。


 その横顔が好きだ。

 その衣擦れの音が好きだ。

 その「うまい」が好きだ。

 その三拍子が好きだ。

 その綺麗な文字が好きだ。

 その耳が赤くなるのが好きだ。

 その全部が、好きだ。


 心臓がうるさい。うるさすぎて講義が聞こえない。いや聞こえてるけど意味が入ってこない。蓮フィルターが邪魔をしている。文化人類学の贈与論を蓮に当てはめ始めている自分がいる。蓮のノートは贈与なのか返礼なのか。コーヒーは贈与なのか祈りなのか。バカだ。バカすぎる。


 でも、バカでいい。


 好きだ。


 今日の教室が温かいのは、エアコンのせいじゃない。

 今日の世界に色があるのは、蛍光灯のせいじゃない。


 全部、蓮がいるからだ。


 蓮が隣にいる。


 たったそれだけのことで、こんなにも、世界が変わる。


 講義が終わった。


 蓮がノートを閉じる。鞄にしまう。


 私は、どうしても聞きたかった。金曜日の空白の理由を。


 「あの」


 声が出た。独り言じゃない。明確に蓮に向けた声。


 蓮の手が止まった。私を見た。


 「金曜日、休みだったから。……どうかしたのかなって」


 踏み込みすぎだ。ただの隣の席の人間が聞くことじゃない。でも、聞かずにはいられなかった。


 蓮の目が、少しだけ細められた。いつもの、見えにくい時の目じゃない。明確な拒絶の目。


 「……関係ない」


 冷たい声だった。氷点下。今まで聞いたどの声よりも低くて、硬い。


 「お前には、関係ない」


 息が止まった。


 突き放された。明確な線引き。ここから先は入るなという、見えないバリケード。


 いつもなら、ここで引き下がる。ごめんなさいと言って、線を越えない。


 でも。


 「関係なくない」


 口が勝手に動いていた。


 「隣の席が空いてたら、気になる。……心配する」


 蓮の目が少しだけ見開かれた。


 「だから、関係なくない」


 沈黙。教室の喧騒が遠のく。


 蓮は何も言わなかった。ただ、私を数秒間見つめて、それから目を逸らした。


 鞄を持って、立ち上がる。


 「……親父のことで、少し」


 背中を向けたまま、それだけ言って、蓮は教室を出ていった。


 残された私は、その言葉の重さに動けなかった。


 独り言が、唇に浮かんだ。


 飲み込んだ。今これを口にしたら、何が起こるかわからない。


 独り言を飲み込んだのは、初めてだった。


 いつもは止められない。制御できない。口から勝手に零れる。


 今のだけは言えない。言ったら、もう戻れない。


 蓮のシャーペンが回っている。カチ、カチ、カチ。


 世界で一番きれいな三拍子が、好きな人の隣で鳴っている。


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