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温度が2度下がる

 蓮が来なかった。

 それだけだった。それだけのことだった。

 なのに教室から、温度が消えた。



         *



 八月一日。金曜日。101教室。


 一限。文化人類学。


 いつもの席に座った。端から三番目。壁際。


 開始五分前。四分前。三分前。


 衣擦れの音がしない。


 二分前。ドアが開くたびに振り向く。振り向きかけて、止める。振り向く理由がない。誰が来ようと関係ない。


 一分前。


 来ない。


 チャイムが鳴った。教授がマイクをオンにした。スライドが映った。


 隣の席は、空いたままだった。


 空席。何もない椅子。誰も座っていない机。ノートも、シャーペンも、鞄も、柔軟剤の匂いも。何もない。


 空席だ。四月の最初の頃と同じ。隣に誰も来ない、いつもの端の席。そのはずだった。ずっとそうだった。蓮が来る前は。


 なのに——この空白は四月の空白と全然違う。


 四月の空席には「何もない」しかなかった。今の空席には「あるはずのものがない」がある。ないのにある。矛盾だ。


 衣擦れの音がしない。シャーペンが回らない。柔軟剤の匂いがしない。ページをめくる指がない。息遣いが聞こえない。


 全部ない。


 エアコンが唸っている。二十五度設定。なのに、寒い。体感温度は二十三度。いや、もっと低い。


 温度が、二度下がった気がする。


 蓮が隣にいると二度上がった気がしていたのだから、いなければ二度下がる。物理学的には人体の放射熱では教室全体の温度は変わらない。でも、私の体感温度は、蓮の有無で変わる。蓮が隣にいると温かくて、いないと寒い。


 これは空調の問題じゃない。


 ノートを開いた。罫線を見る。文字を書く。教授の声を聞く。全部できる。機能として問題はない。


 機能として問題がないのに、色がない。


 講義のスライドが映っている。文字が並んでいる。目が文字を追っている。意味を処理している。ノートに書き写している。


 機械的だ。


 蓮がいると、蓮のシャーペンの音と私の筆記のリズムが微妙にずれて、そのずれが心地よくて、教授の声がBGMになって、講義が「時間」になっていた。流れている時間だった。


 今はただの情報処理だ。スライドの内容が左目から入って右脳を通過してノートに出力される。感覚を通らない。味がしない。


 九十分。


 長かった。いつもの倍に感じた。


 チャイムが鳴って、立ち上がって、隣の空席を見た。


 見なければよかった。見たら、そこに蓮の不在が形を持って座っている気がした。


 学食。菜月。


 菜月がトレイを持って向かいに座った。今日はきつねうどん。


 「顔、死んでるよ」


 開口一番。


 「死んでない」


 「いや死んでる。ゾンビ。歩くゾンビ。しかもゾンビって言われてキレないタイプの末期のゾンビ」


 ゾンビ三連打はさすがにしつこい。


 「……ちょっと寝不足なだけ」


 「嘘。寝不足の時と今の顔は違う。寝不足の時は目の下にクマ。今は顔全体がなんつーか、色ない」


 色がない。


 「篠宮くん、今日来てないでしょ」


 「……なんでわかるの」


 「わかるよ。あんたの情緒が篠宮くんの出欠表だから」


 情緒で出欠を取らないでほしい。


 「別に、一日くらい来ない日もあるでしょ。用事とか、体調とか」


 「そうだね」


 菜月がうどんを啜った。静かに。珍しく。


 「でもあんたは一日で死んでるね」


 「死んでない」


 死んでないけど、生きてもいない。棺桶に入ったまま、意識だけある状態。


 うどんを食べた。味がした。ちゃんと味がした。出汁と醤油と油揚げの甘み。わかる。味覚は正常だ。


 正常なのに、おいしくない。


 味はある。でも「おいしい」という感情が起動しない。蓮の「うまい」を聞いた後だと、私のコーヒーも「おいしい」になる。蓮がいないと、それが止まる。


 色はあるのに、色がない。


 「菜月」


 「なに」


 「……なんでもない」


 言いかけて、止めた。何を言おうとしたのか自分でもわからない。


 菜月が箸を止めた。私を見た。


 何も言わなかった。うどんに戻った。


 菜月が何も言わない時は、言いたいことが多すぎる時だ。



         *



 午後。カフェ「雫」。シフト。


 十五時。ドアベルが鳴った。


 心臓が跳ねた。反射的に。音で反応した。


 違った。


 知らない中年の女性。常連じゃない。ブレンドを一杯注文して、テーブル席に座った。


 窓際B席は空いている。


 十五時三十分。ドアベル。


 跳ねた。


 学生のカップル。アイスラテを二つ。窓際A席。


 十六時。ドアベル。


 跳ねた。


 常連の会社員。エスプレッソ。カウンター。


 ドアベルが鳴るたびに、心臓が反応する。パブロフの犬だ。ドアベル=蓮の可能性、という条件反射がいつの間にか刻まれている。


 何回空振りしても学習しない。ドアベルの音を聞くたびに、一瞬だけ、蓮かもしれない、と思う。思って、違って、失望する。失望して、次のドアベルでまた期待する。


 十七時。閉店。


 蓮は来なかった。


 大学にも、カフェにも。


 一日中。


 閉店作業をした。カウンターを拭いた。カップを洗った。ドリッパーを片付けた。豆を密封容器に移した。全部いつもと同じ作業だ。


 いつもと同じなのに、手が遅い。いつもより丁寧なのではなく、ただ遅い。動きに力がない。


 コーヒーを淹れてない。


 一日中、カフェにいたのに。蓮のためのコーヒーを、淹れてない。他の客のコーヒーは淹れた。同じ豆で。同じ温度で。同じ工程で。


 でも蓮のための一杯がない。


 蓮のために淹れるコーヒーと、他の客のために淹れるコーヒーは、何が違うのか。同じ豆で同じ温度で同じ工程なら、同じコーヒーだ。


 違う。


 蓮のために淹れる時だけ、私の指先が微かに震える。蒸らしの二十秒で息を止める。注湯の時に指先に神経を集中させる。抽出が終わった瞬間に、祈る。祈りなんかしたことがないのに。


 蓮のために淹れるコーヒーは——祈りだ。


 味じゃない。温度じゃない。「おいしくあってほしい」という祈り。その祈りが指先を変えて、工程を変えて、たぶん、味も変える。


 今日、その祈りの行き先がなかった。


 帰り道。蝉が鳴いている。八月の夜は蒸し暑い。


 蓮の柔軟剤の匂いがしない。隣に気配がない。


 距離を測る必要がない。半歩がどうとか、七十センチがどうとか、考える必要がない。


 必要がないのに、足が、半歩分だけ余計にスペースを空けている。蓮がいない隣の空間を、体が覚えている。


 独り言が——出なかった。


 蓮に聞こえていないと思うと、独り言が口から出てこない。


 独り言は「誰にも聞こえていない」前提で出てくるものだったはずなのに。


 あの人に聞こえているかもしれない。そのかもしれないが、呼び水だったのかもしれない。


 聞いてくれる人がいない世界は、声が出ない世界だった。


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