夏の輪郭
気づいたら、私は篠宮蓮の輪郭を目で追っていた。
いつからそうなったのか。いつ始まったのか。
始まりがわからないものは、終わらせ方もわからない。
*
七月最終週。火曜日。
朝、実家からLINEが来ていた。
『お姉ちゃん、またコンクールで表彰されたわよ。ひよりは相変わらず、目立たないようにしてるの?』
母からのメッセージ。悪気はない。ただの報告。でも、その一文が私を透明な箱に押し込める。
三つ上の姉は、母の期待を一身に背負う完璧な優等生だ。私はその眩しすぎる光の横で、波風を立てないように、期待されないように、息を潜めて生きてきた。透明でいることが、家での私の生存戦略だった。
だから、誰の目にも留まらないように、いつも教室の端の席を選んでいるのに。
101教室。
一限が始まる五分前。窓から入る光が白い。夏の陽射し。教室のエアコンが唸っている。設定温度は二十五度のはずだけど、体感はもっと高い。
蓮が隣に座った。いつもの所作。鞄を足元に置く。ノートを出す。ペンを持つ。
今日のシャツは白い。半袖の、薄い白。エアコンの風に布が揺れると、腕のラインが透ける。肘から手首にかけて。腱のすじ。前腕の骨。
暑いのだろうか。蓮は暑いという言葉を一度も発したことがない。寒いも。暑くても寒くても黙っている。
でも、首筋が、少しだけ赤い。
暑さの赤なのか、それとも。いや、暑さの赤だ。八月が近いのだから。首筋が赤くなるのは自然現象だ。心拍とか血圧とか自意識とか、そういう複雑な変数は関係ない。
関係ないと思いたい。
目を逸らした。ノートを開いた。罫線を見る。今日の講義は文化人類学の後半。テーマは「贈与と返礼」。レポート提出が来週だ。
蓮のシャーペンが回り始めた。カチ、カチ、カチ。三拍子。いつもの。
この音が聞こえると、落ち着く。
いつから落ち着くようになったのか。入学当初はこの無機質な規則音が気味悪かった。今は逆だ。心臓のリズムが、この三拍子に同期する。
同期するな。私の心臓は私のものだ。篠宮蓮のシャーペンのメトロノームに合わせて動く臓器じゃない。
講義が終わった。
蓮がノートを閉じた。鞄にしまう。立ち上がる。
立ち上がった時の背中。
白いシャツの背中。肩甲骨が動く。左右対称に、なめらかに。鞄を肩にかける時、右の肩甲骨が少し浮く。布がぴんと張って、筋肉の形が浮き出る。
五秒。数えた。自分で数えた。
篠宮蓮の背中を五秒見つめている。学習しない人間だ。
蓮が振り返った。
正面。目が合いかける。私は視線を下に落とした。ノートの罫線。焦点が合わない。
「……」
蓮の足音が遠ざかる。廊下に出ていく。
息を吐いた。
何を見ているんだ、私は。手を見て、耳を見て、髪を見て、肩を見て、今度は背中。ほぼ全身を制覇しかけている。人体観察図のスタンプラリーか。
学食。菜月。
「あのさ」
「なに」
菜月がストローでアイスティーを吸いながら、私を見ている。
「あんた最近、篠宮くんの話する時の顔が変わったよ」
「変わってない」
「変わった。前はさ、科学者が試料を見る目だったの。今はなんつーか」
ストローを噛んだ。考えている。菜月は考える時にストローを噛む。
「画家が絵を見る目。いや違うな。画家が、描きたいものを見つけた時の目」
「何それ」
「知らない。あたしが美術の授業で唯一覚えてること」
菜月が身を乗り出した。
「で、雨の日どうだったの」
心臓が跳ねた。
「何の話」
「この前の木曜。雨すごかったじゃん。あんたシフトだったでしょ。で、あの人来たでしょ」
「……来たけど」
「だけど?」
「普通に。コーヒー飲んで帰った」
「へえ」
菜月がアイスティーを飲み干した。氷がからからと鳴った。
「あんたの『普通に』って、年々信用できなくなってるよ」
「普通のことを普通に言ってるだけなんだけど」
「じゃあなんで耳赤いの」
手が耳に触れた。反射的に。熱いかどうかは、自分ではわからない。
「学食、暑いから」
「冷房効いてるよ。二十四度だよ」
二十四度で耳は赤くなるか。ならない。この前、蓮の耳で検証済みだ。
自分の耳で再現実験するとは思わなかった。
*
七月三十日。水曜日。
カフェ「雫」。十五時。
蓮が来た。ドアベル。いつもの窓際B席。
今日は暑い。外気温三十三度。カフェの室温は二十三度。十度の差。蓮が入ってきた瞬間、ドアから熱気が流れ込んだ。
蓮の額に、汗の跡があった。前髪が少しだけ額に貼りついている。
初めて見る。蓮の汗。
この人も暑い時は汗をかくのだと、当たり前のことで動揺する自分が意味不明だ。
でも前髪が額に貼りついている蓮は、いつもの蓮と少し違った。少しだけ隙がある。完璧な所作に一箇所だけ入った、乱れ。
「本日のブレンドでよろしいですか」
頷き。
淹れた。今日のブレンドはケニアとグアテマラの半々。苦味と酸味のバランスが良い。暑い日にはアイスで出したいところだけれど、蓮はいつもホットだ。三十三度の真夏でも。
カップを出した。蓮が両手で包んだ。目を閉じた。
その、目を閉じた瞬間の、睫毛の影。
頬に落ちる影。夏の午後の光の中で、睫毛が頬に影を落としている。
蒸らし時間みたいに、時間が引き延ばされた。二十秒のはずがもっと長く感じた。
目を開けた。
「……うまい」
三文字。
何回聞いても、慣れない。慣れないことだけが日常になった。
閉店後。
蓮が帰ったあとのカフェ。
窓際B席。蓮がいた場所。カップは回収した。テーブルを拭いた。椅子を戻した。
でも、残っている。
何が。匂いか。温度か。空気の形か。
わからない。五感のどれにも引っかからない。でも「さっきまで誰かがいた」痕跡が、空気の中に漂っている。
コーヒーの香りじゃない。柔軟剤の匂いでもない。もっと曖昧な、名前のつかない何か。
——蓮の輪郭だ。
店長がバックヤードから出てきた。
「ぼーっとしてるねえ」
「してません。閉店作業してました」
「作業は手だけで、頭はどこか行ってるよ」
店長の口角が上がった。左手が布巾を絞る。薬指の跡。
「あの子、最近よく来るね」
「……週三くらいです」
「週三。あんたのシフトは週四。打率七割五分。なかなかの成績だねえ」
打率で表現しないでほしい。
「コーヒーが好きなだけですよ」
「そうかい」
店長がカウンターを拭きながら、窓際B席のほうを見た。
「コーヒーが好きな人はね、どの店員が淹れても飲むんだよ。あの子は——あんたの日しか来ない」
返す言葉がなかった。
「実はさ、この前の月曜、あんたが休みの日。あの子、店に入ってきたんだよ」
店長が布巾を畳みながら言った。
「カウンターにあんたがいないのを見て、そのまま何も頼まずに帰っていった。あたしが『いらっしゃいませ』って言う前にね」
心臓が、大きく跳ねた。
店長は問い詰めない。答えを要求しない。ただ事実を置いて、あとは私に考えさせる。
考えたくない。でも考えてしまう。
蓮は私のコーヒーを飲みに来ているのか。私を見に来ているのか。
「いい匂い」。あの雨の夜の独り言が、まだ骨の奥で震えている。
店を出た。夜の空気が湿っている。八月が、もうすぐだ。




