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雨音と湯気と溜息

 閉店後のカフェに、雨の音と、コーヒーの湯気と、二人分の呼吸があった。

 それ以外は何もなかった。

 何もないのに——世界が全部、ここにあった。



         *



 七月第四週。木曜日。カフェ「雫」。


 午後から天気が崩れた。梅雨の戻りだ。予報では夜まで降り続く。


 十五時。ドアベル。篠宮蓮。カウンター席の端。鞄を隣の椅子に置く。シャツの肩口が少し濡れている。


 「今日はケニアの深煎りが入ってます。雨の日に合う、ビターチョコレートのような味わいで」


 頷き。


 お湯を沸かした。ケトルの温度計を見た。九十一度。深煎りは少し低めが合う。八十八度まで落とす。蒸らし。二十秒。粉が静かに膨らむ。一投目。


 カップを置いた。篠宮が両手で包んだ。一口飲んだ。


 目を閉じた。


 一口目で、目を閉じる。大事に飲んでいるのだと、店長が言っていた。舌じゃなくて心で飲みたいから、目を閉じる。


 その目を閉じた顔を、正面から見ている。カウンター越しに。閉じた睫毛。薄い唇。喉仏が小さく動く。飲み込む動作。


 背筋が熱い。


 目を開けた。


 「……うまい」


 三文字。何回聞いても、この三文字だけは声の温度が違う。選び抜かれた三文字だ。



         *



 十七時。閉店時刻。


 雨が強くなっていた。


 通常なら閉店と同時に最後の客が帰る。でも今日は雨が異常だった。横殴りの雨。傘があっても意味がないくらいの。


 店長がバックヤードから出てきた。窓の外を見て、眉を上げた。


 「こりゃすごいね。しばらく止まないかも」


 篠宮がカウンター席に座ったまま、窓の外を見ていた。動かない。


 「篠宮くん、もうちょっとゆっくりしてていいよ。この雨じゃ出られないでしょ」


 店長が言った。篠宮が微かに頷いた。


 店長が私を見た。左手が薬指をさすった。


 「あたし、先上がるね。戸締り、頼んでいい?」


 「え、あ、はい」


 「鍵はいつもの場所。お客さんが一人残ってるけど、まあ、大丈夫でしょ」


 店長は傘を差して出ていった。ドアベルが鳴った。閉店後の「CLOSED」の札をかけた。


 閉まった。


 カフェの中に、篠宮蓮と私だけが残った。


 閉店後の。二人きりの。雨の中の。


 状況を整理したい。深呼吸したい。でもどちらもできない。心臓がうるさすぎて整理ができない。


 閉店作業をしよう。それが正しい。カウンターを拭いて、カップを洗って、ドリッパーを片付けて、豆を密封容器に移して。仕事をしよう。仕事をしていれば平静でいられる。


 カウンターを拭き始めた。布巾を絞った。木目に沿って拭く。


 雨の音が大きい。屋根を叩く音。窓を打つ音。排水溝に流れ込む水の音。街の喧騒が全部消えて、雨だけの世界になっている。


 その中で、篠宮のカップから、微かな音がした。


 最後の一口。カップの底に残った液体を飲み干す音。セラミックの底に唇が触れるかすかな音。


 聞こえた。雨の中でも、あの音は聞こえた。


 空のカップが、カウンターの上に置かれた。


 「片付けます」


 篠宮のカップを取ろうとした。手を伸ばした。


 篠宮の手が同時にカップを押し出した。


 指が、触れた。


 カップの取っ手の上で。私の指と、篠宮の指が、重なった。


 絆創膏の三秒とは違う。あの時は篠宮が私の手を掴んだ。今は、偶然だ。カップを渡すタイミングが重なっただけの。


 でも指は知っている。この温度を知っている。三十六度台。絆創膏の時に記録された温度と、同じ温度。


 篠宮の手が引っ込んだ。速く。反射的に。


 私の手も引っ込んだ。カップを持ったまま。


 雨の音だけが流れている。


 「洗います」


 声が上擦った。洗い場に行った。背中を向けた。蛇口を開けた。水の音。カップをスポンジで洗った。丁寧に。いつもより丁寧に。時間を稼いでいた。背中を向けている間に心拍を下げたかった。


 洗い終わった。カップを伏せた。


 振り返った。


 篠宮がカウンターに腕を組んで、その上に顎を乗せていた。


 カウンターに伏せている。半分だけ。顔は横を向いていて、窓の外の雨を見ていた。


 見たことのない姿勢だった。


 篠宮蓮はいつも背筋が真っ直ぐだ。座っている時も、立っている時も、歩いている時も。姿勢がいい人だ。


 その篠宮が、カウンターに伏せている。リラックスしているのか。それとも、疲れているのか。


 横顔が見える。カウンターの木の上に置かれた腕。指が長い。手首の骨が生地の袖口から覗いている。


 雨の音。薄暗い店内。ペンダントライトのオレンジ色の光。


 この光景の名前がわからない。


 綺麗だとか、切ないだとか、そういう形容詞では足りない。この人がカウンターに伏せていて、雨が降っていて、私だけがこの光景を見ている。それが、なんだか、途方もなく大きなことのような気がした。


 コーヒーを淹れよう。


 もう一杯。閉店後だから売上にはならない。でも、淹れたい。この雨が止むまでの時間を、空のカップのせいにしたくない。


 豆を選んだ。エチオピア・イルガチェフェ。フルーティーで華やか。苦味が少ない。深煎りの後にはこの華やかさが口の中を切り替える。


 グラインダーを回した。コーヒー豆が砕ける音が、雨に混ざった。


 篠宮がカウンターから顔を上げた。音に反応した。


 挽き終わった粉をドリッパーに入れた。平らにならす。ケトルの温度を確認した。九十度。エチオピアには少し高め。八十九度まで待つ。


 蒸らし。お湯を少量注いだ。粉が呼吸するように膨らむ。二酸化炭素が抜ける。焙煎してから三日目の豆。ガスがちょうどいい。


 一投目。細い線のようにお湯を注ぐ。粉の中心から外側へ、渦を描くように。


 イルガチェフェの香りが立ち始めた。ジャスミン。ベルガモット。わずかにレモン。雨の匂いの中に、その香りが割り込んだ。


 篠宮が鼻を動かした。


 三投目。抽出完了。ドリッパーを外した。


 カップに注いだ。白い磁器のカップ。店長が選んだカップ。私の手にちょうど収まるサイズ。


 二杯分ある。


 もう一つのカップに注いだ。篠宮に出していたのと同じカップ。少し大きい。篠宮の手に合うサイズ。


 あ。


 無意識に二杯分淹れていた。


 篠宮用に一杯。自分用に。いや、私はコーヒーが飲めない。飲めないのに二杯分。


 一緒に飲みたかったのだ。飲めないのに。


 その気持ちの名前を、まだ知らない。


 篠宮のカップをカウンターに置いた。


 「どうぞ。サービスです」


 篠宮が顔を上げた。少し驚いた顔をした気がする。表情が読めない人の表情を読もうとするのは無駄だとわかっているけれど、目の角度が微かに変わった。


 カップに手を伸ばした。両手で包んだ。


 一口飲んだ。


 目を閉じた。


 さっきのケニアより、長い。目を閉じている時間が、長い。


 目を開けた。


 「……うまい」


 同じ三文字。でも、温度が違った。さっきの「うまい」より、低い。低いのに、温かい。矛盾だ。

 手の中のカップが、一度だけ揺れた。


 私はカウンターの中に立っていた。自分用のカップは手に持ったまま、持っているだけだった。飲まない。飲めない。でも、同じ温度を手のひらで感じていた。


 雨が少し弱くなった。屋根を叩く音が、さっきより静かだ。


 そのせいで、カフェの中の音が、際立った。


 篠宮がカップを置く音。


 私が息を吐く音。


 カウンターの木が、温度差でかすかに軋む音。


 全部がクリアに聞こえた。雨に洗われた空気が音を運んでくる。


 そして。


 コーヒーの香り。


 イルガチェフェの香りが、店内に充満していた。ジャスミンをベースにした、透明感のある香り。この香りは嫌いじゃない。飲めなくても、香りは好きだ。キッチンの奥まで届く、焙煎の香りが好きだ。


 好きだと思ったとき。


 「……いい匂い」


 出た。


 口から出た。


 独り言だ。独り言のはずだ。でも今は二人しかいない。閉店後のカフェに。雨の音と、湯気と、篠宮蓮と、私。


 二人しかいない空間での独り言は——もう独り言じゃない。


 篠宮の手が、止まった。


 カップを両手で包んだまま、動かない。指先が微かに白くなっている。力が入っている。


 顔がこちらを向いていた。


 目が合った。


 カウンター越し。距離、六十センチ。ペンダントライトのオレンジ色の光の中で。雨の音をBGMにして。コーヒーの湯気が二人のあいだに漂って。


 目が合って、離せなかった。


 篠宮の目。暗い茶色。鋭い。鋭いと思っていた目。でも今、この距離で、この光の中で見ると、鋭いのではなく、一生懸命見ようとしている目だった。


 見えづらい目で、私を見ようとしている。


 胸が痛い。


 痛いのに、目を逸らせない。


 雨の音。湯気。コーヒーの香り。オレンジの光。


 篠宮の唇が、微かに動いた。


 何かを言おうとしている。


 言えない。いつもの。言葉が出てこない。


 「……」


 沈黙。


 でもその沈黙の中に、何かがあった。声にならなかった何かが、空気を通して伝わってきた。


 コーヒーの湯気のように。温かくて、つかめなくて、でも確かにそこにある何か。


 篠宮が目を逸らした。カップに戻した。最後の一口を飲んだ。


 私も目を逸らした。手の中のカップを見た。冷めかけている。飲めないコーヒーが、冷めていく。


 窓の外で、雨が止みかけていた。


 「……止みましたね」


 窓の外。街灯に照らされたアスファルトが濡れて光っている。雨は小降りになって、もう傘がいらないくらいだ。


 篠宮が立ち上がった。鞄を肩にかけた。


 伝票を出そうとして、止めた。閉店後のサービスに伝票はない。


 代わりに。


 篠宮がカウンターの上に、二百円玉を一枚、置いた。


 「お代は結構です。サービスって言いましたから」


 篠宮は二百円玉を引っ込めなかった。指で軽くカウンターの上を滑らせて、私のほうに寄せた。


 頑固だ。


 「……じゃあ、お預かりします」


 二百円玉を受け取った。篠宮の指の温度は感じなかった。コインは冷たかった。


 篠宮がドアに向かった。


 「あ、傘」


 篠宮が振り返った。


 「小降りですけど、まだ降ってます。傘」


 傘貸しますか、と言いかけて止めた。以前、傘を差し出したのは篠宮のほうだった。あの時は自分が濡れて帰った。今度は私が差し出す側になるのか。


 「大丈夫です。小降りだから」


 「……いい」


 二文字。拒否の「いい」。傘の時と同じ。でも。


 でも今日の「いい」は、傘の時の「いい」とは少し違った。「いらない」じゃなくて。「これくらいの雨なら平気だ」に聞こえた。


 篠宮が出ていった。ドアベルが鳴った。


 カウンターの上に二百円玉が。いや、受け取ったのは私だ。手の中にある。


 二百円。声を出す代わりの二百円。


 閉店作業。カップを洗った。二つ。篠宮のカップと、私のカップ。私のカップは空じゃない。冷めたコーヒーがまだ入っている。


 流した。飲めないコーヒーを、排水口に流した。


 カップの底に、茶色の輪が残っていた。二つのカップの底に、同じ色の輪が。同じ豆から淹れた、同じ温度のコーヒーの跡。


 鍵をかけた。札を裏返した。店を出た。


 濡れた路地を歩いた。雨上がりの夜は、匂いが濃い。土と草とアスファルトの匂い。


 でも、それよりも。


 イルガチェフェの香りが、まだ髪に残っていた。


 「……いい匂い」


 もう一回、出た。


 でも今度は誰にも聞こえていない。本物の独り言。


 本物の独り言は、こんなに寂しいのか。


 二人きりの「いい匂い」と、一人きりの「いい匂い」は——同じ四文字なのに、温度が全然違った。


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