発表と肩の話
篠宮蓮の肩幅を、私は正確に知らない。
隣に座ると見えるのは横顔だけで、肩は視界の端にしか映らない。
正面に立たれたのは——今日が初めてだった。
*
七月第三週。月曜日。三限。グループワーク発表。
教壇に香川と田辺が立って、スライドを映している。私と中西と篠宮は、二列目の端に横並びで座って待機していた。
篠宮が隣にいる。横並び。いつもの端の席より近い。椅子ひとつ分の隙間しかない。
発表が始まった。香川の声が教室に響いている。スライドが変わる。データが映る。
聞けていない。
聞こえてはいる。でも処理が追いつかない。篠宮の膝の上に置かれた手が視界の端にあるからだ。指が長い。ノートに文字を書く時の指と同じ指が、今は何もせずに膝の上にある。
質疑応答になった。
教授が質問を投げた。考察パート、篠宮の担当だ。
香川が振り返った。「篠宮くん、いける?」
篠宮が立ち上がった。
二列目の端から、教壇の横に歩いていく。私の前を通り過ぎた。すれ違う瞬間、衣擦れの音がした。
教壇の横に立った篠宮は予想より大きかった。
座っている時の篠宮しか知らなかった。隣に座る篠宮。カウンター越しの篠宮。グループワークの机越しの篠宮。全部、上半身しか見えない状況だった。
立っている篠宮の全身を、正面から見るのはこれが初めてだった。
百七十五センチくらい。白いTシャツの上にグレーのシャツを羽織っている。七月の軽装。生地が薄い。肩のラインがわかる。
肩幅が——広い。
広いとは思っていた。でもそれは「線」としての肩だった。
立った篠宮の肩は「面」だった。
鎖骨から三角筋のラインが生地の下でなだらかに曲線を描いて、肩先で角度を変えて、腕に繋がっている。薄い生地がその輪郭に沿っている。
篠宮が間を取った。一秒。二秒。会場が息を詰める間に、唇が微かに動いた。言葉を送り出す準備。喉の振動。
喋った。
声が低い。教室の空気を縦に割るような、静かだけれど芯のある声。
何を言ったか、正直半分しか頭に入らなかった。「表二の」と「対応しています」だけ拾えた。完全な文を、人前で。六文字や四文字ではなく。
教授が頷いた。篠宮の回答は的確だったらしい。教授の反応で内容を知る。自分の耳は役に立たなかった。
篠宮が席に戻ってきた。教壇の横から二列目の端へ。私の前を通り過ぎる。二回目の衣擦れ。
座った。
何事もなかったかのように。
私の心臓は何事もあったかのように暴れていた。肩を見て動揺し、喋る声を聞いて動揺し、衣擦れが二回重なって処理が追いつかなかった。
香川が小声で「篠宮くんナイス」と言った。篠宮は微かに頷いた。
田辺が二問目の質問に答え始めた。
私は自分のノートを見つめていた。見つめているふりをしていた。視界の端で、篠宮の肩が上下している。呼吸。人前で発言した後の、わずかに乱れた呼吸。
緊張していたのだ。あの完璧な回答をしながら。
緊張していた人の肩の動きを観察している自分は、もう手遅れだと思う。
*
(篠宮)
言葉を選ぶのに時間がかかる。
短い返事ひとつでも、喉まで来た語尾が硬すぎないかを確かめる。
急いで出した言葉で、人を泣かせたことがある。だから遅い。
瀬川に「回答、すごくよかったです」と言われた時、返したかったのは別の文だった。
——瀬川の導入のほうが、ずっとよかった。
でも長い文は刃になる。刺したくない。
結局、頷くだけになる。
三歩で振り返るのは癖じゃない。確認だ。そこにいるかどうかを、毎回確認している。
発表が終わった。
「お疲れー! 打ち上げ行かね?」
香川が教室の前で声を上げた。田辺が「行く行く。どこ?」と乗った。中西がイヤホンを外して「まあ、いいすよ」と答えた。
「篠宮くんと瀬川さんも来る?」
篠宮がこちらを、ちらりと見た。
見た、のだと思う。目の端が動いた気がした。私の反応を待っているように見えた。
「あ、すみません。今日バイトのシフトが」
嘘だ。今日はシフトがない。でも五人の打ち上げに行く勇気がなかった。
篠宮も首を横に振った。
「そっかー。じゃあまた」
香川たちが去った。教室に残ったのは、また二人だけだった。
立ち上がった。鞄を肩にかけた。篠宮も立ち上がった。
並んで教室を出た。廊下。階段。一階のロビー。外に出ると、七月の陽射しが容赦なく降り注いでいた。アスファルトの照り返しで顔が熱い。
「……暑い」
独り言。本当に暑い。
篠宮が微かに頷いた。同意。二度目の。
駅までの道を歩き始めた。
距離は、もう測らなくていい。
測らなくても、八十センチより近くなっていることはわかる。七十センチくらい。腕を伸ばさなくても、手を広げたら届くかもしれない距離。
届かせる気はない。ないけど、届く距離にいることが嫌じゃない。
七月の空が青い。入道雲が遠くで立ち上がっている。蝉がまだ鳴き始めていない街路樹の木陰を二人で歩いている。
篠宮のシャツの肩口に、汗が微かに滲んでいた。グレーの生地が少しだけ濃くなっている。
見えてしまった。見ないふりをした。でも見えた。
暑いのだ。この人も。当たり前のことを確認して安心している自分が、おかしい。
「……かき氷、食べたいな」
独り言。安全圏。七月のかき氷は季節の話題だ。
篠宮が横を向いた。私のほうを。
一秒。
すぐに前を向き直した。
今の一秒は何だったのだろう。「かき氷」に反応したのか。私の独り言に反応したのか。
分析してはいけない。独り言への反応を分析するのは、もう三回目だ。分析するたびに仮説が増えて、仮説が増えるたびに胸の奥が騒ぐ。
駅に着いた。今日も改札の手前で立ち止まった。定期を出した。
「発表、お疲れさまでした。篠宮くんの回答、すごくよかったです」
準備していた言葉。歩いている間にリハーサルした言葉。完璧に出せた。
篠宮が少しだけ、目を伏せた。
初めて見る表情だった。目を伏せる。目を逸らすのではなく、伏せる。睫毛が頬に影を落として、口元が微かに動いた。
「……」
声にならなかった。何かを言いかけて、やめた。前髪の隙間から、耳が見えた。
赤い。
褒められて、耳が赤い。私に褒められて。
暑さなら耳だけ赤くならない。緊張の余韻なら教壇の横で赤くなるはず。消去法で消せなかった。
篠宮が改札を通った。
三歩。振り返った。頷いた。前を向いた。
三回目だ。
振り返りの回数が増えている。最初は振り返らなかった。次に一回。次に二回。今日で三回目。定着した。
「……帰ろ」
独り言。
右手が自分の肩を触っていた。無意識に。篠宮の肩のラインを見た後から、自分の肩を確認するように。
百五十八センチの肩は、百七十五センチの肩より十七センチ低い。
十七センチの差を、別に縮めたいとは思っていない。
思っていないのに、首が少し上を向いた。篠宮が消えたホームの方角を見ている。
七月の夕空は、高い。




