半歩の仮説
一メートルだった距離が、今日は八十センチになった。
半歩分。
——半歩には、仮説がある。
*
七月第二週。水曜日。グループワーク最終回。
発表資料の最終確認。図書館の三階。同じグループ学習室。同じ蛍光灯。同じ六人がけのテーブル。
でも、空気が違った。
その直後、天井の蛍光灯が一斉に落ちた。
視界が黒くなって、一拍遅れて雷鳴が来た。窓の外で白い稲光が走る。停電。
「うわ、映画かよ」
香川の声が暗がりで跳ねた。田辺がすぐにスマホを点ける。
「非常灯ついてるから大丈夫。いったん廊下に出ましょう」
中西がポケットを探って、小さなオレンジ色のライトを点けた。イヤホンケースにぶら下がっていた、親指サイズのクジラのキーホルダー。
「これ、夜道こわくて買ったやつ。役立つ日あるんすね」
初めて聞く長い文だった。低くて、意外に落ち着いた声。
ライトを床に向けたまま、中西が先に立った。
「段差、ここ一段。右寄りで」
全員で廊下に出た。図書館の館内放送が流れて、落雷による瞬停だから、復旧まで少し待ってほしいと繰り返した。
七分。廊下の窓際で立ったまま待った。
香川は「発表当日じゃなくてよかったな」と笑い、田辺は共有フォルダの最終版が保存済みかを二回確認し、中西はクジラのライトを指先でくるくる回していた。
七分後、蛍光灯が戻った。
学習室に戻ると、同じ机なのに、空気の輪郭だけが少し柔らかくなっていた。
三回目の集まりになると、人は慣れる。香川は椅子の背にもたれて足を組んでいた。田辺はペットボトルのお茶を持ち込んでいた。中西はイヤホンを片耳だけ外していた。
篠宮はやはり黙っていた。でも、香川が話す時、篠宮の目が話者を追っていた。田辺が意見を言う時、頷きが入った。中西が資料のミスを指摘した時、ノートにメモを加えた。声は出さない。でも、参加している。
「篠宮くんの考察パート、読んだけどさ。めっちゃいいね。データの解釈が的確っていうか」
香川が篠宮のパートを褒めた。篠宮は何も言わなかった。が、ペンを持つ手が一瞬止まった。褒められ慣れていない人の反応だ。
タブレットの画面が共有された。全員のパートを繋げた完成版。
私の導入部が冒頭にあって、香川の背景分析があって、田辺のデータがあって、中西の事例があって、最後に篠宮の考察がある。
篠宮の考察を読んだ。
文章が静かだった。
データを淡々と解釈して、結論を一文で述べている。修辞がない。比喩がない。感情がない。事実を積み上げて、最後に一段だけ階段を上る。それだけの文章。
でも、その一段が高い。
最後の一文。「情報格差の本質は、情報が足りないことではなく、足りないことに気づけない構造にある」。
読んだ瞬間、息が止まった。
足りないことに気づけない構造。
息を、吐けなかった。しばらく。
偶然かもしれない。課題の考察として書いただけかもしれない。でも、文章には書いた人が出る。出したくなくても、出る。
「瀬川さん、ここの繋ぎどう思う」
田辺に声をかけられて、思考が中断された。繋ぎ。導入部とデータの繋ぎ。
「……あ、ここは接続詞を変えたほうがいいかもしれない。『しかし』じゃなくて、『一方で』のほうが対比が明確になると思います」
「あー確かに。篠宮くん、どう思う」
篠宮がタブレットの画面を確認した。唇が動いた。黙読の癖。私の文章を、また唇でなぞっている。
顔を上げた。
「……そっちがいい」
六文字。前回より四文字多い。
「そっちがいい」は私の提案を支持した。「いい」だけでなく、「そっちが」をつけた。比較して、選んで、私のほうを選んだ。
選ばれた。
いや、選ばれたのは接続詞だ。「一方で」が選ばれた。私じゃない。接続詞だ。
接続詞に感情移入するな。
「お疲れさまでしたー」
香川が伸びをした。発表資料が完成した。来週の月曜に発表。担当は香川と田辺。篠宮と私と中西は質疑応答のバックアップ。
田辺が時計を見て「ぎりぎり。じゃあお先に」と走っていった。中西がイヤホンを両耳に戻して消えた。香川が「じゃ、また来週」と手を振って出ていった。
グループ学習室に、篠宮と私が残った。
また、二人。
篠宮がノートを鞄にしまっていた。三色の付箋を確認して、ペンを胸ポケットに戻して、タブレットの電源を切って。
私も鞄を整理していた。手が少し遅い。わざとではない。わざとではないと思いたい。でも、いつもなら三十秒で終わる作業が一分かかっている。
二人とも立ち上がった。ドアに向かった。
篠宮がドアを開けた。先に出て、ドアを持っていた。
ドアを、持っていた。後ろから来る人のために、開けたドアを押さえている。
私のために。
「あ、ありがとうございます」
通り過ぎる時、柔軟剤の匂いがした。傘に残っていた、あの匂い。近くで嗅ぐのは二回目だ。
図書館を出た。七月の夕方。十七時半。西日が強い。キャンパスのコンクリートがオレンジ色に染まっている。
篠宮が歩き始めた。駅の方向。
私も歩き始めた。同じ方向。
前回は一メートルの間隔だった。足音が二つ、少しずつ合っていった。
今日は最初から近かった。
一メートルではない。もっと近い。腕を伸ばしたら届く距離。八十センチ。七十センチかもしれない。
半歩分、近い。
どちらが寄ったのか。私なのか、篠宮なのか。わからない。歩き始めた時にはもうこの距離だった。
キャンパスの正門を出た。商店街に入った。夕方の商店街は賑やかだ。惣菜屋のコロッケの匂い。パン屋の焼きたての匂い。花屋のバケツから水が溢れている。
人混みを避ける時、距離が縮まった。
六十センチ。
篠宮の手が、彼の体側で揺れている。歩くたびに前後に振れる。左手。長い指。手首の骨。
あの手に触れたことがある。一回だけ。三秒だけ。
その記憶が距離を縮めている。触れた記憶が、もう一度触れたいという信号に変わって、足を半歩分、近づけている。
信号を出しているのは私だ。無意識の。止められない。
信号灯が赤になった。交差点で立ち止まった。二人並んで。
横を見た。いや、見ようとして止めた。横を見たら目が合うかもしれない。今の距離で目が合ったら、何かを言わないといけない気がする。何かを言える言葉を持っていない。
信号が青になった。歩き始めた。
篠宮の歩幅が、少し小さくなっていた。
前回は三十歩かけて合わせたリズムが、今日は最初から合っている。合わせてきている。身長差十五センチ。歩幅は自然に篠宮のほうが大きいはず。それを縮めているということは、合わせているということだ。
私に。
駅が見えてきた。
あと百メートルで、改札で、今日も篠宮は定期をかざして、通って、振り返るだろうか。前回のように。
足が遅くなった。
無意識に。駅に着くのを、遅らせている。もう少し歩いていたい。もう少し、この八十センチ、いや、七十センチの中にいたい。
篠宮も遅くなった。
歩幅をさらに小さくした。合わせている。私が遅くなったから、篠宮も遅くなった。
二人で、歩く速度を落としている。
駅に着きたくないとは、思っていない。思っていないことにする。
駅に着いた。
改札の前で立ち止まった。定期を出した。篠宮も定期を出した。
「今日は、ありがとうございました。グループワーク」
声が出た。出すつもりだった。準備していた。歩いている間に、何度もリハーサルした。
篠宮がこちらを見た。正面。七十センチ。夕日がオレンジ色に反射して、暗い茶色の目が少しだけ明るく見えた。
頷いた。
いつもの頷き。
でも、頷きの前に〇・五秒の間があった。何かを言いかけて、やめて、代わりに頷いた。そういう〇・五秒だった。
篠宮が改札を通った。
三歩歩いて、振り返った。
二回目。
振り返りの持続時間は、前回より長かった。一秒くらい。一秒の中で、目が合って、頷きが入って、それから前を向いて、ホームのほうに歩いていった。
改札の前に残された。
定期を握ったまま。七月の夕風がプラットフォームから吹き上げてきて、前髪を揺らした。
半歩。
一メートルが、八十センチになった。半歩分。
半歩の仮説。
それは——篠宮蓮が、私のほうに寄ったのではなく、お互いが半歩ずつ近づいた結果ではないか。
一方通行ではない。双方向だ。
双方向であるなら、相手も、何かを感じている。
何かを。
名前はまだつけない。つけられない。でも、「何か」があることは、もう否定できない。
四月から七月。三ヶ月と少し。三十センチの隣から始まって、傘を受け取って、絆創膏を貼られて、「いい」と言われて、歩幅を合わせて、振り返りが二回になって。
全部を消去法で説明しようとした。「合理的だから」「偶然だから」「便利だから」。
でも消去法で消し続けた結果、最後に残ったものがある。
消せなかったもの。消したくなかったもの。名前は、たぶんある。でも今はつけない。つけたら、半歩では止まれなくなるから。
知らないけど——知りたくないわけでは、もうない。
*
帰りの電車。
窓の外を景色が流れている。夕焼けがビルの隙間に沈んでいく。
スマホが震えた。菜月。
『今日グループワークだったよね。どうだった????』
『どうって何が』
『篠宮くんと同じ班でしょ。何かなかった???』
何か。何かはあった。たくさん。ありすぎて、LINEの文字数では収まらない。
『別に。普通にグループワークしただけ』
『ひよりの「別に」は「別に」じゃないことくらいわかってるよ〜〜〜』
スマホをポケットにしまった。
電車が揺れた。つり革に掴まった。右手。人差し指の傷はもう消えている。絆創膏の跡も消えた。
でも、指は覚えている。
三十六度の温度を。「いい」の声を。歩幅の一致を。振り返りの一秒を。
理由を、まだ知らない。
無口な彼が隣に座る理由を。傘をくれた理由を。バリケードを越えた理由を。歩幅を合わせた理由を。
でも、知らないまま、ここまで来た。
知らないまま、もう少しだけ、歩いてみてもいいと、思い始めている。
「……帰ろ」
独り言。
帰る。今日は、帰る。
でも明日も、あの五列目の、隣の席に座る。三十センチの距離で。声のない言葉を聞きながら。
それが日常になったことを、もう毒とは呼ばない。




