表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/39

半歩の仮説

 一メートルだった距離が、今日は八十センチになった。

 半歩分。

 ——半歩には、仮説がある。



         *



 七月第二週。水曜日。グループワーク最終回。


 発表資料の最終確認。図書館の三階。同じグループ学習室。同じ蛍光灯。同じ六人がけのテーブル。


 でも、空気が違った。


 その直後、天井の蛍光灯が一斉に落ちた。


 視界が黒くなって、一拍遅れて雷鳴が来た。窓の外で白い稲光が走る。停電。


 「うわ、映画かよ」


 香川の声が暗がりで跳ねた。田辺がすぐにスマホを点ける。


 「非常灯ついてるから大丈夫。いったん廊下に出ましょう」


 中西がポケットを探って、小さなオレンジ色のライトを点けた。イヤホンケースにぶら下がっていた、親指サイズのクジラのキーホルダー。


 「これ、夜道こわくて買ったやつ。役立つ日あるんすね」


 初めて聞く長い文だった。低くて、意外に落ち着いた声。


 ライトを床に向けたまま、中西が先に立った。


 「段差、ここ一段。右寄りで」


 全員で廊下に出た。図書館の館内放送が流れて、落雷による瞬停だから、復旧まで少し待ってほしいと繰り返した。


 七分。廊下の窓際で立ったまま待った。


 香川は「発表当日じゃなくてよかったな」と笑い、田辺は共有フォルダの最終版が保存済みかを二回確認し、中西はクジラのライトを指先でくるくる回していた。


 七分後、蛍光灯が戻った。


 学習室に戻ると、同じ机なのに、空気の輪郭だけが少し柔らかくなっていた。


 三回目の集まりになると、人は慣れる。香川は椅子の背にもたれて足を組んでいた。田辺はペットボトルのお茶を持ち込んでいた。中西はイヤホンを片耳だけ外していた。


 篠宮はやはり黙っていた。でも、香川が話す時、篠宮の目が話者を追っていた。田辺が意見を言う時、頷きが入った。中西が資料のミスを指摘した時、ノートにメモを加えた。声は出さない。でも、参加している。


 「篠宮くんの考察パート、読んだけどさ。めっちゃいいね。データの解釈が的確っていうか」


 香川が篠宮のパートを褒めた。篠宮は何も言わなかった。が、ペンを持つ手が一瞬止まった。褒められ慣れていない人の反応だ。


 タブレットの画面が共有された。全員のパートを繋げた完成版。


 私の導入部が冒頭にあって、香川の背景分析があって、田辺のデータがあって、中西の事例があって、最後に篠宮の考察がある。


 篠宮の考察を読んだ。


 文章が静かだった。


 データを淡々と解釈して、結論を一文で述べている。修辞がない。比喩がない。感情がない。事実を積み上げて、最後に一段だけ階段を上る。それだけの文章。


 でも、その一段が高い。


 最後の一文。「情報格差の本質は、情報が足りないことではなく、足りないことに気づけない構造にある」。


 読んだ瞬間、息が止まった。


 足りないことに気づけない構造。


 息を、吐けなかった。しばらく。


 偶然かもしれない。課題の考察として書いただけかもしれない。でも、文章には書いた人が出る。出したくなくても、出る。


 「瀬川さん、ここの繋ぎどう思う」


 田辺に声をかけられて、思考が中断された。繋ぎ。導入部とデータの繋ぎ。


 「……あ、ここは接続詞を変えたほうがいいかもしれない。『しかし』じゃなくて、『一方で』のほうが対比が明確になると思います」


 「あー確かに。篠宮くん、どう思う」


 篠宮がタブレットの画面を確認した。唇が動いた。黙読の癖。私の文章を、また唇でなぞっている。


 顔を上げた。


 「……そっちがいい」


 六文字。前回より四文字多い。


 「そっちがいい」は私の提案を支持した。「いい」だけでなく、「そっちが」をつけた。比較して、選んで、私のほうを選んだ。


 選ばれた。


 いや、選ばれたのは接続詞だ。「一方で」が選ばれた。私じゃない。接続詞だ。


 接続詞に感情移入するな。



 「お疲れさまでしたー」


 香川が伸びをした。発表資料が完成した。来週の月曜に発表。担当は香川と田辺。篠宮と私と中西は質疑応答のバックアップ。


 田辺が時計を見て「ぎりぎり。じゃあお先に」と走っていった。中西がイヤホンを両耳に戻して消えた。香川が「じゃ、また来週」と手を振って出ていった。


 グループ学習室に、篠宮と私が残った。


 また、二人。


 篠宮がノートを鞄にしまっていた。三色の付箋を確認して、ペンを胸ポケットに戻して、タブレットの電源を切って。


 私も鞄を整理していた。手が少し遅い。わざとではない。わざとではないと思いたい。でも、いつもなら三十秒で終わる作業が一分かかっている。


 二人とも立ち上がった。ドアに向かった。


 篠宮がドアを開けた。先に出て、ドアを持っていた。


 ドアを、持っていた。後ろから来る人のために、開けたドアを押さえている。


 私のために。


 「あ、ありがとうございます」


 通り過ぎる時、柔軟剤の匂いがした。傘に残っていた、あの匂い。近くで嗅ぐのは二回目だ。


 図書館を出た。七月の夕方。十七時半。西日が強い。キャンパスのコンクリートがオレンジ色に染まっている。


 篠宮が歩き始めた。駅の方向。


 私も歩き始めた。同じ方向。


 前回は一メートルの間隔だった。足音が二つ、少しずつ合っていった。


 今日は最初から近かった。


 一メートルではない。もっと近い。腕を伸ばしたら届く距離。八十センチ。七十センチかもしれない。


 半歩分、近い。


 どちらが寄ったのか。私なのか、篠宮なのか。わからない。歩き始めた時にはもうこの距離だった。


 キャンパスの正門を出た。商店街に入った。夕方の商店街は賑やかだ。惣菜屋のコロッケの匂い。パン屋の焼きたての匂い。花屋のバケツから水が溢れている。


 人混みを避ける時、距離が縮まった。


 六十センチ。


 篠宮の手が、彼の体側で揺れている。歩くたびに前後に振れる。左手。長い指。手首の骨。


 あの手に触れたことがある。一回だけ。三秒だけ。


 その記憶が距離を縮めている。触れた記憶が、もう一度触れたいという信号に変わって、足を半歩分、近づけている。


 信号を出しているのは私だ。無意識の。止められない。


 信号灯が赤になった。交差点で立ち止まった。二人並んで。


 横を見た。いや、見ようとして止めた。横を見たら目が合うかもしれない。今の距離で目が合ったら、何かを言わないといけない気がする。何かを言える言葉を持っていない。


 信号が青になった。歩き始めた。


 篠宮の歩幅が、少し小さくなっていた。


 前回は三十歩かけて合わせたリズムが、今日は最初から合っている。合わせてきている。身長差十五センチ。歩幅は自然に篠宮のほうが大きいはず。それを縮めているということは、合わせているということだ。


 私に。


 駅が見えてきた。


 あと百メートルで、改札で、今日も篠宮は定期をかざして、通って、振り返るだろうか。前回のように。


 足が遅くなった。


 無意識に。駅に着くのを、遅らせている。もう少し歩いていたい。もう少し、この八十センチ、いや、七十センチの中にいたい。


 篠宮も遅くなった。


 歩幅をさらに小さくした。合わせている。私が遅くなったから、篠宮も遅くなった。


 二人で、歩く速度を落としている。


 駅に着きたくないとは、思っていない。思っていないことにする。


 駅に着いた。


 改札の前で立ち止まった。定期を出した。篠宮も定期を出した。


 「今日は、ありがとうございました。グループワーク」


 声が出た。出すつもりだった。準備していた。歩いている間に、何度もリハーサルした。


 篠宮がこちらを見た。正面。七十センチ。夕日がオレンジ色に反射して、暗い茶色の目が少しだけ明るく見えた。


 頷いた。


 いつもの頷き。


 でも、頷きの前に〇・五秒の間があった。何かを言いかけて、やめて、代わりに頷いた。そういう〇・五秒だった。


 篠宮が改札を通った。


 三歩歩いて、振り返った。


 二回目。


 振り返りの持続時間は、前回より長かった。一秒くらい。一秒の中で、目が合って、頷きが入って、それから前を向いて、ホームのほうに歩いていった。


 改札の前に残された。


 定期を握ったまま。七月の夕風がプラットフォームから吹き上げてきて、前髪を揺らした。


 半歩。


 一メートルが、八十センチになった。半歩分。


 半歩の仮説。


 それは——篠宮蓮が、私のほうに寄ったのではなく、お互いが半歩ずつ近づいた結果ではないか。


 一方通行ではない。双方向だ。


 双方向であるなら、相手も、何かを感じている。


 何かを。


 名前はまだつけない。つけられない。でも、「何か」があることは、もう否定できない。


 四月から七月。三ヶ月と少し。三十センチの隣から始まって、傘を受け取って、絆創膏を貼られて、「いい」と言われて、歩幅を合わせて、振り返りが二回になって。


 全部を消去法で説明しようとした。「合理的だから」「偶然だから」「便利だから」。


 でも消去法で消し続けた結果、最後に残ったものがある。


 消せなかったもの。消したくなかったもの。名前は、たぶんある。でも今はつけない。つけたら、半歩では止まれなくなるから。


 知らないけど——知りたくないわけでは、もうない。



         *



 帰りの電車。


 窓の外を景色が流れている。夕焼けがビルの隙間に沈んでいく。


 スマホが震えた。菜月。


 『今日グループワークだったよね。どうだった????』


 『どうって何が』


 『篠宮くんと同じ班でしょ。何かなかった???』


 何か。何かはあった。たくさん。ありすぎて、LINEの文字数では収まらない。


 『別に。普通にグループワークしただけ』


 『ひよりの「別に」は「別に」じゃないことくらいわかってるよ〜〜〜』


 スマホをポケットにしまった。


 電車が揺れた。つり革に掴まった。右手。人差し指の傷はもう消えている。絆創膏の跡も消えた。


 でも、指は覚えている。


 三十六度の温度を。「いい」の声を。歩幅の一致を。振り返りの一秒を。


 理由を、まだ知らない。


 無口な彼が隣に座る理由を。傘をくれた理由を。バリケードを越えた理由を。歩幅を合わせた理由を。


 でも、知らないまま、ここまで来た。


 知らないまま、もう少しだけ、歩いてみてもいいと、思い始めている。


 「……帰ろ」


 独り言。


 帰る。今日は、帰る。


 でも明日も、あの五列目の、隣の席に座る。三十センチの距離で。声のない言葉を聞きながら。


 それが日常になったことを、もう毒とは呼ばない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ