同じ欄の名前
プロジェクターに映し出された名簿の中に、二つの名前が並んでいた。
瀬川日和。篠宮蓮。
同じ括弧の中に。
*
七月第一週。月曜日。三限。
「グループワークの班分けを発表します」
教授の声が階段教室に響いた。スクリーンに名簿が映った。五十音順で振り分けられた五人一組のリスト。
B班と書かれた欄に、目が止まった。
香川拓海。篠宮蓮。瀬川日和。田辺美咲。中西裕太。
五十音順。偶然。機械的なのに、心臓が跳ねた。
篠宮蓮と同じ班。
つまり、三十センチの距離ではなく、向かい合って、話し合って、同じ課題に取り組む。声を出して。顔を合わせて。
隣に座る沈黙と、向かい合うグループワークは全然違う。隣は並行だ。グループワークは正面衝突だ。声が必要になる。
五列目の隣の席で、篠宮は何の反応もしていなかった。スクリーンを見ている。見えているかどうかは、わからないけど。
水曜日。グループワーク初回。
図書館に向かう途中、一号館の前で篠宮を見かけた。あの茶髪のチェックの人と一緒だった。肩を並べて歩いていて、チェックの人が篠宮のほうを向いて何か言って笑った。篠宮は笑わなかったけど、歩幅が合っていた。
あの人とも歩幅、合わせるんだ。
——嫉妬、ではない。ないはず。確認しただけ。確認する必要は、なかったけど。
場所は図書館の三階、グループ学習室。六人がけのテーブルが一つ。蛍光灯が白い。窓から中庭の緑が見える。
香川拓海は最初に来た。背が高くて、声が大きくて、よく笑う。対角線上にいるタイプだ。篠宮蓮の対角線。
「よろしくー。えーと、俺香川ね。たっくんって呼んでいいよ」
誰もたっくんとは呼ばなかった。
田辺美咲は二番目に来た。キャンパスバッグにノートと資料を整理して入れていて、腕時計をちらちら見る。時間管理の人だ。
「田辺です。次の予定が十六時半なので、十六時までに終わらせたいです」
効率の人だった。
中西裕太は三番目。イヤホンを外しながら入ってきて、「中西っす」と言って座った。必要最低限の自己紹介。
四番目に、篠宮蓮が入ってきた。
ドアを開けて、室内を一瞥して、空いている椅子に座った。
私の正面に。
テーブルの長辺に私が座っていて、向かいの長辺に篠宮が座った。距離は机の幅分、約七十センチ。教室の三十センチより遠い。でも、正面だ。
正面に篠宮蓮がいる。
二ヶ月半、横顔しか見ていなかった人が、正面にいる。
顔が違う。
横顔で構築した篠宮蓮の顔のモデルと、正面の篠宮蓮が一致しない。鼻筋の角度。眉間の間隔。目の奥行き。全部知っていたはずなのに、正面から見ると情報量が倍になる。
そして、唇。
横顔だと見えなかった唇の正面の形が見える。薄い。上唇が下唇よりわずかに薄い。唇の色は肌より少しだけ暗い。
唇を見ている。
唇を見ている自分に、もう驚かない。驚く段階はとうに過ぎた。
「じゃあテーマ決めよっか。先生の指定だと、『現代社会における情報格差の分析』。
香川が話し始めた。田辺がノートを広げた。中西が頷いた。
篠宮は黙っていた。
グループワークの中の篠宮蓮は、教室の篠宮蓮とは少し違った。
違うと言っても、喋るわけではない。香川が話題を振っても、頷くか、首を横に振るか。田辺が意見を求めても、「……」と少し間があって、結局何も言わない。
でも、ノートには書いていた。
議論の要点を、あの几帳面な字で、まとめていた。誰に頼まれたわけでもない。自発的に。書記の役割を引き受けたのではなく、ただ、書いていた。
香川が気づいた。「え、篠宮くん議事録取ってくれてんの。助かるわー」
篠宮は何も答えなかった。書き続けていた。
田辺が覗き込んだ。「すごい字綺麗ですね」
篠宮の手が〇・五秒止まった。「……」。再開。
私だけが知っている。あの字が綺麗な理由を。見えない目で、一画ずつ集中して書いているということを。見えないから消しゴムを使えず、一発で正確に書くしかないということを。
知っているのに、言えない。言う権利がない。篠宮が自分で話したことを、他人に開示する権利は私にない。
テーマが決まった。分担が決まった。情報格差の定義と背景を香川。統計データの収集を田辺。事例分析を中西。考察と結論を篠宮。
そして、全体の構成と導入部を私が担当することになった。
「瀬川さん、文章うまそうだからさ。導入任せていい」
香川にそう言われた。うまそうとは。何を根拠に。でも断る理由もなかった。
「わかりました」
「篠宮くんと瀬川さんで最後まとめる感じだね。考察と導入って連動するし、二人で擦り合わせてくれると助かる」
田辺が言った。
擦り合わせ。篠宮と。二人で。
「……はい」
小さい声で答えた。篠宮は何も言わなかった。ノートに何か書いていた。
翌週の月曜日。二回目のグループワーク。
先に原稿を共有フォルダにアップしておいた。導入部の草案。二千字。情報格差の問題提起から、分析の枠組みの提示まで。週末に三回書き直した。
三回書き直した理由は、篠宮蓮が読むからだ。
他の三人も読む。でも、篠宮が読む。あの目で。見えづらい目で。だからこそ、わかりやすく、丁寧に。結論を先に、論理を明確に、一文を短く。
……篠宮のために文章を書いた、とは思いたくない。全員のために書いた。全員への配慮だ。全員。
グループ学習室。同じ席順。
香川が「おおー、瀬川さんの導入読んだよ。いい感じじゃん」と言った。田辺が「構成がわかりやすいです」と言った。中西が「読みました」と言った。
篠宮はスマホを見ていた。
いや、スマホではない。タブレットだ。画面を顔に近づけて読んでいる。共有フォルダのファイルを、画面を拡大して読んでいる。
読んでいる。私の文章を。
唇が微かに動いた。
声は出ていない。でも唇が文章をなぞっている。唇の動きが、文章のリズムに合わせて開いて、閉じて、また開く。私の文章を読む唇を、追っている。
背筋が熱い。
篠宮がタブレットから顔を上げた。こちらを見た。正面から。七十センチの距離で。
「……いい」
二文字。
同じ二文字。傘の時と同じ「いい」。でも、温度が違った。
傘の「いい」は拒否だった。「返さなくていい」。防御の意味を含んだ二文字。
今の「いい」は——評価だった。読んだ。良かった。それだけの、まっすぐな二文字。
私の文章を読んで、「いい」と言った。
喉が詰まった。返事ができなかった。
「ありがとうございます」が出てくるまで、四秒かかった。四秒の沈黙を、香川が「おー、篠宮くんが褒めた。珍しー」と埋めてくれた。田辺が笑った。中西がイヤホンを触った。
篠宮はもうタブレットに目を戻していた。
でも、唇がほんの少し。
〇・五ミリくらい。
上唇の端が、上がった気がした。
気がしただけかもしれない。七十センチの距離では確定できない。
でも、あれが篠宮蓮の、笑顔の予兆だとしたら。
分析暴走。完全に。でも、止められなかった。
議論は続いた。
「じゃあ次、全体の流れ行こっか」
香川が話を進めた。田辺が統計表を広げた。
「この部分なんですけど、導入の問題提起と統計データの範囲がズレてるんですよ。瀬川さん、どう修正します?」
私のほうを見た。導入担当だから、私に聞いている。
答えは浮かんでいた。問題提起の定義範囲を広げれば統計データと一致する。口を開こうとした。
その前に、ノートが滑ってきた。
テーブルの上を、篠宮のノートが私の手元まで来た。あの几帳面な字で書いてあった。
『導入の定義を広げれば統計と一致する』
正解だった。今まさに、私が口にしようとしていた答え。
篠宮は私を見ていなかった。ノートだけを差し出して、もうタブレットに視線を戻していた。声の代わりに、書いて渡した。善意だろう。助けようとしたのだろう。
——私が言うはずだった答えを、先に。
指先が冷えた。
助けられたのではない。先に答えを出されたのだ。私が口を開く前に。
私には声がある。
ノートを、押し返した。指二本で、静かに。
「同じことを考えてました。自分で説明します」
声が硬かった。
篠宮の指がノートの端に触れた。戻ってきたことに、少し遅れて気づいたように。
引いた。ゆっくりと。
何か間違えた、という手の動き。でも、何を間違えたのかわからない手の動き。
「定義の範囲を広げれば統計データと一致するので、第三段落を修正します」
自分の言葉で、田辺に説明した。
「なるほど、それでいけますね」
田辺が頷いた。香川が「おっけー」と言った。
篠宮は下を向いていた。議事録のペンが、止まっていた。
*
帰り道。
グループワークが終わった。香川は友達と合流して去った。田辺は次の予定に走っていった。中西はイヤホンをつけて消えた。
図書館の前で、私と篠宮が残った。
残った、というか、同時に出て、同時に同じ方向に歩き始めた。駅が同じ方角にある。
三十センチでもなく、七十センチでもない距離。約一メートル。並んで歩いている。
並んで歩くのは、初めてだった。今までは全部、止まっていた。一緒に、動いている。
足音が二つ。私のスニーカーと、篠宮のスニーカー。コンクリートの上で、微妙にリズムが違う。歩幅が違うから。でも、三十歩くらい歩いたら合ってきた。
歩幅が合っている。
篠宮が速度を落としたのか、私が速くなったのか。どちらかはわからない。でも、足音のリズムが揃っている。
七月の夕方は暑い。蝉はまだ鳴いていない。でもアスファルトからの照り返しが顔に当たって、首筋に汗が滲む。
「……暑い」
独り言。本当に暑い。
篠宮が横で、微かに頷いた。
私の独り言に、同意が返ってきた。
……なっていいのだろうか。
駅に着いた。改札の手前で、篠宮が立ち止まった。定期を出している。
「あの。今日のグループワーク、ありがとうございました。議事録」
篠宮はこちらを見なかった。定期をかざして改札を通った。
通ってから、振り返った。
初めてだった。
振り返って、〇・五秒だけこちらを見て、微かに頷いて、ホームのほうに歩いていった。
振り返った。
振り返らない人が、振り返った。
改札の前で、足が止まった。自分の定期を握りしめていた。汗で定期が湿っている。
「……いこ」
独り言。小さい。でも、一文字目が「い」だったことに、後から気づいた。
「いい」と同じ、一文字目。




