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36度の残像

 絆創膏を剥がせない。

 傷は治っている。剥がす理由しかない。

 なのに指が動かない。



         *



 金曜日の朝。


 洗面台の前に立って、右手を見ている。


 人差し指の横に貼られた絆創膏。昨日、篠宮蓮が貼った絆創膏。肌色のパッドの端が少しめくれていて、粘着力が落ちている。一晩経った。シャワーも浴びた。本来なら剥がして新しいのに替える。いや、傷が浅いから替える必要すらない。空気に触れさせたほうが治りが早い。


 わかっている。


 わかっていて、剥がせない。


 昨日の三秒間が、この絆創膏の下に閉じ込められている気がする。剥がしたら、三十六度の残像が蒸発する。指の記憶が消える。それは嫌だ。


 嫌だと思っている自分が、嫌だ。


 コーヒーを淹れた。自宅用の安いドリッパーで、スーパーの粉で。雫の豆と比べたら落差が激しい。でも今日はカフェインが必要だ。昨夜、二時間しか眠れなかった。三秒間の記憶が無限にループ再生されて、止め方がわからなかった。


 篠宮の人差し指の圧力。爪の硬さ。親指の腹のやわらかさ。皮膚の温度。全部が鮮明すぎる。感覚の記憶は視覚の記憶より正確だと、心理学の講義で聞いた。正確であることが、今は困る。


 コーヒーを飲んだ。苦い。苦さは適切だ。甘いものを口に入れたら、思考が緩んで、止めているものが溢れ出しそうだから。



 三限。五列目の左から七番目。


 篠宮が、いる。隣に。三十センチの距離に。


 いつもと同じ。何も変わらないと思いたい。でも三十センチが、昨日までの三十センチと別物になっている。昨日まで「体温が届かない距離」だったはずの三十センチの向こうに、あの指がある。あの温度がある。


 ノートを取ろうとした。ペンを持つ右手が震えていた。微かに。どれくらいの揺れかは、自分でもわからなかった。ペン先が紙の上で不安定に揺れている。


 字が、汚い。


 篠宮のノートは、横目で確認したが、いつもどおり綺麗だ。何も変わっていない。あの三秒間が嘘みたいに、いつもどおりの几帳面な文字を書いている。


 変わったのは。


 そこで止まった。分析すれば三秒間に触れる。触れたら温度が蒼る。でも止まれなかった。


 ノートをとる手が震えるのは私だけで、三秒間をループ再生しているのも私だけ。篠宮蓮は何も変わっていない。昨日と同じ姿勢で、同じノートを開いて、耳は赤くない。


 私だけが、変わってしまった。


 教授がスライドを切り替えた。画面に図表が映った。横目で見ると、篠宮はやはり図表を書いていない。音声情報だけを拾って書いている。見えない目で。


 見えないのに——傷は見えたのだ。


 私の人差し指の傷を、カウンター越しに見つけて、手を伸ばした。近視なのか遠視なのか、それとも別の視力障害なのか、わからない。でも、あの距離で傷が見えたということは、私の手を見ていたということだ。


 「カップじゃなくてあんたの手見てるよ」


 店長の声が蘇った。見ていたのだ。ずっと。


 メニュー板は読めなくて、スライドの図表も読めなくて、でも私の人差し指の浅い切り傷は読めた。


 ペンを止めた。ノートにぐしゃぐしゃの線が一本走っていた。消しゴムで消した。この消しゴムを、篠宮は使わない。


 講義の残り三十分。何も頭に入らなかった。


 篠宮の手が動くたび、右手がノートの上を走るたび、三秒間の感触が指に蘇った。


 別の感覚で上書きしたい。冷たいものを触るとか、ペンを強く握るとか。でもどんな上書きも、三十六度の残像には勝てなかった。



 講義が終わった。


 篠宮が立ち上がった。鞄を肩にかけた。


 そのとき、篠宮の右手が、机の角に触れた。


 ただそれだけの動作だった。立ち上がる時に机に手をつく。誰でもやる。何の意味もない。


 でも私の目は、その右手を追っていた。昨日私の手を掴んだ右手を。


 篠宮がこちらを見た。


 目が合った。


 五列目の窓際の光。暗い茶色の目。鋭い。でも、何かを言いたそうな気配が、一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。


 篠宮は何も言わなかった。


 歩いていった。いつものように。振り返らなかった。いつものように。


 でも、歩く速度が、いつもより速かった。二割くらい速かった。


 逃げている。


 昨日の背中と同じだ。硬くて、少し前傾した、逃げている背中。


 変わったのは私だけじゃなかった。


 篠宮蓮も何か、変わっている。同じ三秒間を、同じ温度を、たぶん、覚えている。耳の赤さと歩く速度が、その証拠だ。


 証拠を集めて、何を証明したいのだ。


 「……お腹すいた」


 独り言。嘘。お腹は空いていない。でも安全な独り言のストックが枯渇しかけていて、使い回すしかなかった。



         *



 夜。自室。


 シャワーを浴びた。右手の絆創膏が、湿気で完全に端が剥がれている。粘着力はもうない。


 鏡の前で、絆創膏の端を指でつまんだ。


 剥がした。


 傷は薄い線になっていた。浅い切り傷。明日には目立たなくなる。三日後には消える。


 絆創膏をゴミ箱に入れた。


 肌色のパッド。粘着テープ。工業製品。コンビニで百円で売っている量産品。そこに何の特別もない。ないはずなのに、ゴミ箱に落ちた絆創膏を三秒くらい見つめていた。


 三秒。篠宮蓮の指が私の指に重なっていた時間と同じ。全部が三秒に収束する。


 人差し指を見た。絆創膏の跡が微かに白い。その下に傷の線。その下には何もない。三十六度の残像は、絆創膏と一緒にゴミ箱に入った。


 ——嘘だ。


 残像は、消えない。絆創膏を剥がしても、温度は指に染みている。三日後に傷が消えても、たぶんまだ残っている。


 菜月の言葉。コーヒー豆の熟成。寝かせるうちに味が出る。


 味が出ている。出すぎている。


 「……寝よ」


 独り言。本当。眠い。二日連続で寝不足だ。明日は土曜のシフト。篠宮が来るかもしれない。来ないかもしれない。来るかどうかで体温が変わる自分が——もう、止められない。


 布団に入った。右手の人差し指を、左手で包んだ。


 温度が足りなかった。


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