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バリケードのこっち側

 指先の体温は、三秒あれば測れる。

 三十六度。あるいは三十七度。正確な数値は、もう思い出せない。

 三秒間の記憶が、それ以外の全部を上書きした。



         *



 六月の終わり。木曜日。カフェ「雫」。


 午後のシフト。今日は湿度が高くて、豆の状態が微妙に変わっている。挽き目を半段階細かくした。抽出時間で調整する。こういう日は神経を使う。


 篠宮蓮はカウンター席の端にいる。グアテマラを出した。頷きがあった。一口飲んだ。


 十五時半。閑散時間帯。他に客はいない。店長はカウンターの奥で在庫の確認をしている。


 私は新しい豆の缶を開けようとしていた。エチオピア・シダモ。缶詰タイプの密封容器。蓋が硬い。指をかけて、てこの原理で、


 滑った。


 蓋の縁が、右手の人差し指を横に切った。


 「っ」


 声が出た。痛みは一瞬だった。浅い切り傷。血が、指の腹側に一筋、滲んだ。


 大したことない。缶の蓋で切っただけだ。消毒して、絆創膏を貼れば終わる。救急箱はカウンターの下に、


 手が。


 左側から、手が伸びてきた。


 カウンター越しに。


 篠宮蓮の右手が、カウンターの上を通過して、私の右手を掴んだ。


 掴んだ、は正確じゃない。包んだ。私の右手首のあたりを、五本の指で包むように支えた。


 脳が止まった。今度は音が消えたとか、そういう比喩じゃない。本当に止まった。入力が処理能力を超えた。


 篠宮の指が、私の手に触れている。


 手首。皮膚。体温。指の圧力。全部が同時に流れ込んできて、どの情報を先に処理すればいいかわからない。


 篠宮はカウンター越しに身を乗り出して、私の右手を自分のほうに引き寄せた。傷を見ている。人差し指の横の、浅い切り傷を。


 「あ、あの」


 声が裏返った。裏返ったことに気づいて、さらに狼狽して、さらに声が出なくなった。


 カウンターの奥で、何かが滑る音がした。


 救急箱。


 店長が、カウンターの端に救急箱をスライドさせていた。無言で。視線だけがこちらを見て、すぐにそらされた。薬指をさする動作はなかった。代わりに、口角の端が〇・五ミリだけ動いた。


 篠宮の左手が救急箱を開けた。右手は私の手首を支えたまま。片手で蓋を開けて、中から消毒綿と絆創膏を取り出した。慣れている。慣れた手つきだった。「慣れた」という単語が、昨日とは違う文脈で浮かんだ。


 消毒綿が傷口に当たった。ひやりとした。アルコールの匂い。でも匂いより先に、篠宮の左手の親指が私の人差し指を固定している感触のほうが、大きかった。


 親指の腹。爪の横。触れている面積なんて、たぶん指先のほんの一部だ。どれくらいかなんて測っている余裕はなかった。でも、そのわずかな面積から流れてくる情報量が、コーヒーの香り成分より多い。


 絆創膏のフィルムを剥がす音がした。篠宮の左手が、傷口に絆創膏を貼った。丁寧に。パッド部分を傷に合わせて、粘着面を皮膚に沿わせて、指で端を押さえた。


 その指で端を押さえた瞬間。


 篠宮の人差し指が、私の人差し指の上に重なった。


 三秒。


 三秒間、指が重なっていた。


 体温がわかった。三十六度後半。私の指先より温かい。数値としてわかることと、皮膚で感じることは全然違う。今この三秒でわかった。


 篠宮の手が離れた。


 右手がカウンターの向こうに戻った。左手が椅子の背に戻った。何事もなかったかのように、グアテマラのカップに手を伸ばして、一口飲んだ。


 ——嘘だ。


 篠宮の耳が、赤かった。


 右耳。五列目の窓際の光で薄く透けていた、あの耳。今は光のせいじゃなく、赤い。縁から耳たぶにかけて、肌の色が二トーンくらい変わっている。


 赤い耳でコーヒーを飲んでいる。平静を装って。何も言わずに。でも耳だけが裏切っている。


 何事もなかったわけがない。


 私の心臓が、肋骨の裏で暴れている。鼓動が速い。呼吸も浅い。深く吸えない。


 三秒。たった三秒だった。


 でも、三秒の中に全部があった。温度。圧力。指紋の溝。篠宮蓮の右手が、三秒で私の人差し指に刻まれた。



 篠宮がコーヒーを飲み終えた。伝票を出した。四百五十円。


 受け取る時、指が触れなかった。


 触れないように、篠宮が伝票から先に手を離した。さっきの三秒の後だから。意図的に触れないようにしている。


 それは気遣いなのか。照れなのか。後悔なのか。


 分析してはいけない。今始めたら、三秒間のデータから感情を逆算しようとして、壊れる。


 篠宮が立ち上がった。鞄を肩にかけた。振り返らなかった。いつもと同じ。


 でも、背中が少し、硬かった気がする。肩の位置がほんの少し高くて、首の角度が微かに前傾していた。


 背中は逃げている背中だった。


 ドアベルが鳴った。閉まった。


 カウンターの上に、空のカップが残った。


 右手の人差し指には、絆創膏が貼ってあった。丁寧に。正確に。


 「……」


 店長が、カウンターの奥から出てきた。


 「傷、大丈夫」


 「大丈夫です。浅いので」


 「そっちじゃなくて」


 店長は救急箱を元の場所に戻しながら、こっちを見ずに言った。


 「心臓のほうの傷の話」


 返す言葉がなかった。


 左手が、右手の絆創膏に触れた。篠宮の指があった場所。三秒前じゃない、もう五分は経っている。でも温度がまだ残っている気がする。三十六度後半の残像が、絆創膏の下に。


 バリケードの——こっち側に、来た。


 カウンターを越えて、私の手に触れた。遮断するはずの人が、遮断を解いた。


 三秒だけ。


 三秒で、戻っていった。


 でもその三秒は——もう、消えない。



         *



 帰り道。


 右手の人差し指に絆創膏がある。


 傷はもう痛くない。切った瞬間の痛みは忘れた。代わりに、三秒間の温度が指に染みている。


 「……あったかかったな」


 独り言。


 安全圏はとっくに崩壊していた。


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