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見えない目

 彼の目が悪いことを、私は二ヶ月も気づかなかった。

 目の前の人の目を見ていたのに。

 ——見ていたのに、見えていなかった。



         *



 木曜日。カフェ「雫」。


 今日のおすすめはルワンダ・ニャルシザ。フルーティーな酸味と、後味のキャラメル感。私の好きな豆のひとつだ。


 閉店前の仕込みの合間に、カウンター横の黒板を書き替えた。チョークで、豆の名前と産地と風味の特徴を書く。これは私の担当になっている。店長の字は読めないからだ。本人も認めている。


 書き終わって、カウンターに戻った。


 窓の外に目をやった。十四時五十五分。通り沿いの歩道を、見覚えのあるシルエットが歩いてくる。篠宮だ。


 一人じゃなかった。少し後ろに、背の高い男が並んでいた。髪が明るい。何か話しかけているようだったけれど、篠宮は特に反応していなかった。交差点の手前で篠宮が曲がった時、その男が片手を上げた。篠宮が微かに頹いた。


 彼に知り合いがいるのだ。黙って並んで歩ける距離の人が。


 十五時。ドアベル。篠宮蓮。カウンター席の端。いつもの光景。


 「ルワンダのシングルオリジン、入りました。お出ししますか」


 頷き。


 いつもそうだ。私がおすすめを伝えて、篠宮が頷いて、淹れる。このルーティンは九回、いや、もう十二回になった。十二回のうち、篠宮が自分から豆を指定したことは一度もない。


 私は「好みを読み取っている」と思っていた。酸味系を出した時の反応、苦味系の時の反応、中庸な時の反応。全部記録して、最適なものを選んでいると。


 でも今日、あることに気づいた。


 篠宮がカウンターに座った時、視線が黒板のほうに動いた。動いたけど、そこで止まった。止まって、微かに目を細めた。


 黒板まで、カウンター席から約二メートル。


 チョークの文字は、私の字で、一文字あたり約三センチ。二メートル離れれば十分読める大きさのはずだ。


 でも篠宮は、読んでいなかった。


 目が細まって、すぐに正面、カウンターの木目に戻った。読もうとして、読めなくて、やめた。そういう目の動きだった。


 読めていない。


 最初から、この店のメニュー板を、読めていなかったのではないか。


 コーヒーを淹れる手が、一瞬止まった。蒸らしが二秒長くなった。苦味が少し出る。その二秒で、記憶をさかのぼった。


 一回目の来店。私が「本日はグアテマラです」と言って、篠宮が頷いた。

 二回目。「コロンビアと、エチオピア、どちらになさいますか」。篠宮は三秒間沈黙して、私のほうを見て、頷いた。

 三回目以降、私は聞くのをやめた。篠宮の好みがわかった気がしたから。


 でも、あの三秒の沈黙は、「選んでいた」のではなく、「メニューが見えないから私の判断に委ねた」のだとしたら。


 頷きの意味が、全部変わる。


 カップを置いた。篠宮が手を伸ばした。一口飲んだ。


 「……」


 両手でカップを包んだ。


 この動作も美味しいという反応だと思っていた。でも、美味しいのではなく、「何を飲んでいるかは正確にはわからないけど、受け入れている」だとしたら。


 いや。味覚と視力は別だ。味はわかっている。問題は、十二回分の「好みの分析」が、「読めないから任せていた」だった可能性だ。前提から間違っていた。



 閉店作業。篠宮はもう帰っている。


 カウンターを拭きながら、店長に聞いた。


 「あの、篠宮さん、メニュー板、読めてると思いますか」


 店長の手が止まった。グラスを拭く手が、二秒止まって、再開した。


 「読めてないと思うよ。最初からね」


 「……気づいてたんですか」


 「うちは手書きメニューだから、字が小さいと遠くからは見えないよ。あの子、一度もメニュー見て注文したことないでしょ。いつもあんたが勧めたものを頷いてたじゃない」


 左手が薬指をさすった。


 「目が悪いのに眼鏡かけてない子、たまにいるよ。慣れちゃってるか、面倒なのか、見えないことに自分で気づいてないか」


 「見えないことに気づかないなんて、ありえますか」


 「ありえるよ。ずっとそうだったら、比較対象がないからね。見える世界を知らなかったら、自分の見えてる世界が全部だと思うでしょ」


 店長はグラスを棚に戻しながら、静かに言った。


 「あの子の字が綺麗なの、見たことある」


 ノート。あの几帳面な文字。一画一画が正確で、消しゴムを使わない、修正の跡がない。


 「目の悪い人って、書く時にすごく集中するの。見えづらいから、感覚で覚えて、一発で書く。消しゴムで消して書き直すと、前の文字と後の文字の整合性がわからなくなるから」


 消しゴムを使わない理由。


 消す必要がないのではなく、消せないのだ。


 一度消したら、元の文字を確認できないから。


 眼鏡を、誰も勧めなかったのだろうか。親とか、学校の先生とか。


 「あの綺麗なノートは」


 「うん。見えない代わりに、全力で書いてるんだよ。あの子なりのやり方で」


 胸の奥が、きゅっと締まった。物理的に。肋骨の裏側が。



         *



 翌日。金曜日。五列目。


 篠宮の隣に座った。ノートを開いた。講義が始まった。


 プロジェクターに映されたスライドを見ながら、考えた。五列目なら三列目よりスクリーンが遠い。見えづらいはずだ。


 篠宮のノートをちらりと見た。いつもの文字。いつもの正確さ。でも、よく見ると、スライドの図表は書いていない。文字情報だけを、教授の声から拾って書いている。


 見えていないのだ。スライドの細かい図が。


 教授が「資料の三ページ目を参照してください」と言った。篠宮の手が止まった。〇・五秒。その間に目が細くなって、すぐに戻った。そしてノートには、教授が口頭で説明した内容だけが書き足されていった。


 五列目に移動したのは、私の寒さのためだったのか。いや、篠宮にとって三列目でも五列目でも、スライドはどのみち見えないのかもしれない。合理的だ。


 ——合理的なのに、胸が痛い。


 講義が終わった。


 言うべきかどうか迷った。迷って、迷って、声が出た。


 「……スライドの図、写しますか」


 篠宮が私を見た。


 「見えづらいなら、私のノート、図だけ貼れるように書いてあるので」


 何を言っているのだ。今思いついたことを、そのまま口に出している。


 篠宮は三秒くらい私を見ていた。鋭い目。でも、その目がほんの少しだけ、やわらいだ気がした。


 「……慣れた」


 言い終えたあと、篠宮の指がノートの角を一瞬つまんだ。すぐ離した。


 三文字。


 慣れた。見えないことに。見えないまま生きることに。


 声は低くて、静かで、角がなかった。「いい」よりも温度があった。「慣れた」は——拒絶じゃない。説明だ。この人は初めて、自分のことを三文字で説明した。


 「……そうですか」


 それしか言えなかった。もっと何か言いたかった。でも「そうですか」しか、持ち合わせがなかった。


 篠宮が鞄を持って立ち上がった。いつものように。


 その背中を見送りながら、あの字を思い出した。


 五月の月曜日。ノートに代筆された七行。あの几帳面で、温度のある文字。


 あれを書いた人は、目が悪かったのだ。


 見えづらい目で、集中して、一画ずつ丁寧に書いた。人の講義ノートを。頼まれてもいないのに。


 「……字、きれいだったな」


 独り言。


 今度は安全圏じゃなかった。



 学食で、菜月と向かい合っていた。


 金曜日のランチ。菜月のトレイにはチキン南蛮定食。私のトレイにはあんかけうどん。普段は味がわかるのに、今日は出汁の塩分濃度すら感じない。


 「で、何があったの」


 菜月の箸がチキンを刺したまま止まっている。


 「何も」


 「嘘。さっきから三回うどん掬って全部戻してる」


 見られている。菜月の観察力が、今日に限って困る。


 篠宮のことが、喉まで来ていた。


 菜月に言えたら楽になる。事実として。でも。篠宮は私に向けて「慣れた」と言った。それを菜月に渡すことは、篠宮の言葉を勝手に翻訳することだ。


 「……考え事してただけ」


 「ふうん。その『考え事』って篠宮くん関連?」


 「なんでそうなるの」


 「だって他にそんな顔する原因ないでしょ、日和」


 うどんを啜った。味がしなかった。出汁が通り過ぎていく。


 菜月が箸を置いた。


 「言いたくないなら聞かない。でもさ、一人で抱えて沈んでいくタイプでしょ、日和。それだけは知ってるから」


 言いたくないんじゃない。言えない。篠宮のことだから。彼自身の話だから。


 「……うん。ありがと」


 菜月は笑った。いつもの、少し呆れたような笑い方で。


 「ま、いつでも聞くよ。腐る前に出してね、話」


 コーヒー豆みたいに言うな、と思った。でも、菜月の声が今日は少しだけ温かかった。


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