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5列目の理由

 六月中旬、冷房が入った。

 教室が、変わった。

 席が——変わった。



         *



 月曜日。三限。


 三列目の左から七番目に座った。いつもの席。いつもの距離。いつもの沈黙。何も変わらないはずだった。


 冷房が、頭上にあった。


 正確には、三列目の真上に業務用エアコンの吹き出し口がある。去年の夏もそうだったはずだ。でも去年は気にならなかった。去年は隣に誰もいなくて、私は寒かったら上着を着て、暑かったら脱いで、それで終わりだった。


 今年は違う。


 冷風が首筋に当たっている。設定温度が低すぎる。


 腕を組んだ。寒い。今度は本当に寒い。嘘じゃない独り言を言いそうになるくらい寒い。


 母なら「カーディガン持っていきなさい」と言うだろう。毎週の電話で、天気と上着の話しかしない人だ。人の話を最後まで聞く癖は母から受け継いだと思う。待つのが得意なのは、たぶん母のせいだ。


 隣を見た。篠宮は何事もないように、ノートをとっている。長袖のシャツ。寒くないのだろうか。代謝が高いのかもしれない。


 寒いのに肩幅の分析をしている場合じゃない。


 九十分の講義が終わった。首筋が冷えていた。右腕にうっすら鳥肌が立っている。鞄を取る手が少しかじかんでいた。六月なのに。


 篠宮が立ち上がる時、私のほうを一瞬見た。


 一瞬だった。〇・三秒もなかった。でも、その〇・三秒の視線は私の腕に向いていた気がする。鳥肌の立った、右腕に。


 気のせいかもしれない。気のせいだと思いたい。でも、「気のせいかもしれないこと」をいちいち記録している脳がある。




 水曜日。三限。


 教室に入った。三列目に向かった。


 三列目の左から八番目は空いていた。


 篠宮がいない。心臓が跳ねた。跳ねたことに腹が立った。一日来なかっただけで動揺する心臓を、胸の内側から叱りたい。


 でも胸の奥で叱る前に、視線が教室を探していた。三百人の階段教室を、上から下へ、左から右へ。自動的に。


 五列目の、左から六番目にいた。


 篠宮蓮。


 いつもと違う席に座っている。ノートを開いている。付箋が三色。いつものように背筋が真っ直ぐで、いつものように黙っている。


 ただ、場所が違う。


 五列目は冷房の吹き出し口から外れている。三列目の頭上を通過した冷風は、四列目あたりで拡散して、五列目には届かない。


 そして、五列目の左から七番目。篠宮の隣の席。そこに鞄が置いてあった。


 篠宮の鞄が、隣の席に、置いてあった。


 普段、篠宮は鞄を足元に置く。足元に置くのが彼のルーティンだ。それを崩して、隣の席に置いている。


 つまり、隣に座る人のために、席を確保している。


 推測でしかない。百通りの理由がある。


 でも、五列目に移動した理由と、隣の席に鞄を置いた理由を掛け合わせると、答えは一つしか出てこない。


 月曜日の、私の鳥肌を見た。


 冷房が寒いと判断した。


 席を移動した。


 三つ目で止めておけばよかった。


 隣を、確保した。


 並べてしまった。


 四つの行動が直列に並んでいる。論理的だ。美しいほどに。そして——声を、一言も使っていない。


 足が動いた。三列目を通り過ぎて、四列目を通り過ぎて、五列目の左から七番目の前に立った。


 篠宮が鞄をどかした。一言も発さずに。鞄を足元に移して、また正面を向いた。


 座った。

 隣で、篠宮の肩がわずかに下がった。力を抜いたように。


 五列目は暖かかった。冷風が来ない。窓からの日差しが斜めに差し込んでいて、空気がやわらかい。


 そして、光の角度が変わったことで、今まで見えなかったものが見えた。


 篠宮の耳。


 三列目では影になっていた右耳が、五列目の窓際の光で照らされている。耳の縁が薄くて、日差しを透かしている。赤みのある透明。陶器のような肌の色の中で、耳だけがほんの少し温度を持っている。


 耳を見ている。耳を見ている自分に気づいている。自覚の入れ子。終わりがない。


 講義が始まった。ノートをとった。五列目の空気は三列目より暖かくて、ペンを持つ手がかじかまなかった。


 集中できるはずだった。


 耳が、視界の端にあった。



 講義後。スマホが震えた。


 菜月からのLINE。


 『席替えした????????』


 見ていたのか。菜月は別の講義を取っていたはずだ。いや、菜月もこの講義を取っているのか。三百人の教室で、菜月はどこに座っているのだ。


 『してない。冷房が寒かっただけ』


 送信。


 三十秒後。


 『冷房から逃げた先が篠宮くんの隣なのウケる』


 ウケない。


 『偶然。たまたまあの席が空いてただけ』


 『空いてたんじゃなくて空けてたんでしょ。鞄で。あの人が。』


 菜月はどこから見ていた。


 『ひより聞いて。あの人が鞄で席確保してたの、あたし後ろから見てたんだけど、あんたが教室入る二分前に鞄置いたよ。つまり最初は足元に置いてた。あんたが入ってくるのが見えてから移した。計算ずくだよ。あれは。』


 スマホを裏返しにした。


 篠宮蓮は——計算する人だったのか。あの無表情の裏で、二分前から。


 心臓がうるさい。六月の廊下は暑い。さっきまで寒かったのに、今は暑い。体温調節が壊れている。


 『菜月。お願いだから見てないで。』


 『見てないよ〜。見えちゃうだけ〜。』


 会話を閉じた。


 五列目の暖かさが、まだ背中に残っていた。冷房の死角に案内された温もりが、服を通して肌に染みている。


 「……暑い」


 独り言。嘘。暑いんじゃない。


 暖かいのだ。


 暖かいことが、こんなに怖い。



         *



 スマホの画面が暗くなる。


 桃井菜月は、階段教室の最後列から、五列目に並んで座る二人を見下ろしていた。


 「……ほんと、わかりやすい」


 ため息をついて、頬杖をつく。


 中学の時、菜月にも好きな人がいた。目で追って、正の字をつけて、でも結局何も言えずに終わった片想い。


 あの時の自分と、今のヒヨリが重なる。でも、ヒヨリの隣にいるあの無口な男は、菜月の好きだった人とは違う。


 言葉はないくせに、行動が全部「好き」だと言っている。


 「……いいなぁ、ひよりは」


 誰にも聞こえない小さな声で呟いた。


 ヒヨリの独り言と違って、菜月の独り言を拾ってくれる人は、ここにはいない。


 それでも、不器用な二人の背中を見ていると、少しだけ胸の奥が温かくなった。


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