返せない傘
「いい」と言われた。
何がいいのか。何をいいと判断したのか。
二文字に意味を詰め込みすぎだ。
*
金曜日。
鞄の中に傘がある。黒い折りたたみ傘。篠宮蓮の傘。二日間、私の鞄の中で不法滞在している。
今日こそ返す。
講義が始まる前。三列目の左から七番目に座って、鞄から傘を出した。黒い生地。ワンタッチ式のボタン。持ち手に名前は書いていない。当然だ。大学生の折りたたみ傘に記名する人間はいない。
篠宮が来た。八番目に座った。ノートを出した。付箋を並べた。いつもの手順。
今だ。
「あの」
声が出た。声は出た。が、出た瞬間に空気が変わった。篠宮がこちらを向いた。鋭い目が私を見た。三十センチの距離で目が合うのは、近い。近すぎる。目の色が、こんなに暗い茶色だったことを、今知った。
傘を差し出した。両手で。
「水曜日の、傘。ありがとうございました。これ」
篠宮は傘を見た。私の手を見た。私の顔を見た。
「……いい」
それだけ言って、正面に向き直った。
いい。
いい、とは。
傘を持った両手が宙に残された。差し出された傘を受け取らない人間が目の前にいる。在宅で受け取り拒否。
「あの、でも」
篠宮はノートに目を落としていた。もうこの話は終わったという姿勢だった。
傘を、鞄にしまった。
講義が始まった。九十分。ノートをとった。教授の声を聞いた。でもずっと、鞄の中の傘の重さが気になっていた。
*
講義が終わった。
篠宮が立ち上がるのを見て、もう一度傘を出した。
「あの、これ」
篠宮は立ったまま私を見下ろした。百七十五センチから見下ろされている。肩幅が、思ったより広い。薄いグレーのシャツが肩の線に沿っている。肩を見ている場合じゃない。傘を返しているのだ。
「水曜日の雨で」
「いい」
二回目。今度は「……」がなかった。即答。迷いなく「いい」。
そして歩いていった。
傘を持ったまま取り残された。二回戦、敗北。
何がいいのだ。
「いい」には最低四つの解釈がある。
一、「受け取らなくて大丈夫」。自分には別の傘がある、または傘がなくても困らない、という意味。
二、「あげた」。返却を想定していない。贈与。しかし贈与するほどの関係性がこちらにない。
三、「今は面倒」。荷物を増やしたくない瞬間的な判断。次のタイミングなら受け取る可能性がある。
四、「話しかけないでくれ」。拒絶。関わりたくない。傘ではなく接触自体を拒否している。
——四は、ないと思いたい。
思いたい、という欲求がすでに中立じゃない。
でも、四なら傘を受け取って終わりにするはずだ。「いい」と言って傘を拒否することで、この問題は未解決のまま次に持ち越される。拒絶が目的なら、さっさと受け取って接点を消すほうが合理的だ。
つまり、四ではない。
つまり、少なくとも拒絶ではない。
……少なくとも、拒絶ではないという結論に安堵している自分がいる。
中立だったことは、もうない。
土曜日。カフェ「雫」。午後のシフト。
十五時。ドアベル。
篠宮蓮がカウンター席の端に座った。
カウンターの下に傘がある。今日、鞄と別に持ってきた。返すために。カフェならカウンター越しだ。物理的に差し出せる。逃げられない。
グアテマラを淹れた。蒸らし三十秒。二投目。今日の豆はいつもより甘いかもしれない。湿度が高い日は甘みが出やすい。
カップを置く。篠宮が「……」と頷いた。一口飲んだ。両手でカップを包んだ。
今だ。
「あの、篠宮さん」
カップから目を上げた。
カウンターの下から傘を出して、カウンターの上に置いた。黒い折りたたみ傘。
「これ、お返しします」
篠宮は傘を見た。カウンターの上の黒い傘を、三秒くらい見た。
右手の指先が、カップの取っ手の上で一瞬止まった。
それからカップを持ち上げて、コーヒーをもう一口飲んで、カップを置いて、立ち上がった。
伝票を出した。会計をした。四百五十円。
カウンターの上の傘を見もせずに、店を出ていった。
残されたのは、カウンターの上の黒い折りたたみ傘と、空になったコーヒーカップと、私。
三回戦。敗北。完敗。
「……返ってこなかったね」
店長が、カウンターの奥から言った。
「見てたんですか」
「見てたっていうか、見えてたっていうか」
店長は左手で薬指をさすりながら、口角を一ミリだけ上げた。
「あの子、返してほしくないんじゃないの」
「なんでですか」
「さあ。でも三回断るってのは、結構な意志だよ。面倒で断ってるなら一回で受け取る。二回断るなら迷ってる。三回断るのは、決めてるね」
店長の分析が、妙に的確で怖い。
「傘をあげたかったんだと思うよ。返されたら台無しでしょ。あげたっていう事実が」
「……事実」
「うん。あの子なりの、言葉の代わり」
傘が言葉の代わり。
喋らない人間が、喋る代わりに差し出したもの。それを返すということは、その言葉をなかったことにするということ。
——だから「いい」なのか。
「返さなくていい」じゃなくて、「返されたくない」。
「いい」の五番目の解釈を、店長が教えてくれた。
傘を鞄にしまった。三回目。もう返さない。返さないことにした。返さないという判断が、「受け取る」という行為を完了させることを——知っている。
帰り道。
黒い折りたたみ傘が、鞄の中にある。
もう「不法滞在」ではない。受理された。
六月の風が湿っている。梅雨入りが近い。天気予報は来週から雨が続くと言っている。
傘を使うことになるだろう。篠宮蓮の傘を、私が差して歩くことになるだろう。
大丈夫かどうかを考えている時点で大丈夫じゃない気もする。でも、認めるのは、まだ早い。
「……雨、降りそう」
独り言。天気の話。安全圏。
でも、空を見上げた時に思い浮かんだのは天気図じゃなくて、雨の中を歩いていく背中と、七ミリ右にずれた分け目だった。
肩が、広かったな。
思考がこぼれた。声にはならなかった。ならなかったから、セーフ。ぎりぎり、セーフ。
鞄の中の傘の重さが、少しだけ、暖かい気がした。




