傘と翌日の髪
雨は予測できる。天気予報を見ればいい。
人の行動は予測できない。
特に——傘を差し出して、何も言わずに雨の中を歩いていく人の行動は。
*
六月一日。水曜日。天気予報は「曇りのち晴れ」。
嘘だった。
三限の途中から窓の外が暗くなって、講義が終わる頃には本格的に降り始めていた。梅雨入り宣言はまだ出ていないのに、空は勝手に梅雨を始めている。気象庁と空の合意形成がうまくいっていない。
折りたたみ傘は持っていない。天気予報を信じた私が悪い。
階段教室の出口で立ち止まった。ひさしの下には同じように傘を持たない学生が五、六人溜まっている。スマホで天気予報を見ている人、走って行く人、友達の傘に入れてもらう人。
私は走るのが嫌いだ。正確には、濡れるのが嫌いだ。コーヒーの香りが雨で流されるのが嫌だ。今日はシフトじゃないけど、昨日の豆の匂いがまだ服に残っている気がする。湿気が匂いを溶かす。
「……困った」
独り言。事実の報告。
走れば五分で駅に着く。六月の雨だから冷たくはない。合理的に考えれば、走ればいい。
足が動かない。
横から、何かが差し出された。
黒い。細長い。折りたたみ傘。
持っている手を見た。
指が長い。爪が短い。手首の骨が少し浮いている。
握った指の関節が、わずかに白かった。
篠宮蓮の右手だった。
私の右横に立っている。見上げた。百七十五センチの位置に、いつもの無表情がある。目が合った。鋭い目。でも、圧がない。先月まで感じていた「正面から見づらい」感覚がない。替わりに、雨の音だけがある。
「……え」
独り言じゃない。反射だ。脳を通っていない音だ。
篠宮は何も言わなかった。傘を持った右手を、一センチだけ私のほうに押し出した。
「あの、これ」
何を言いたいのか、自分でもわからなかった。「ありがとう」なのか「大丈夫です」なのか「あなたはどうするんですか」なのか。三つの選択肢が同時に喉に詰まって、どれも出てこなかった。
篠宮は待っていた。
雨はどんどん強くなっている。ひさしの端から水が糸のように落ちている。周囲の学生は減っていた。走った人、迎えが来た人、諦めた人。
篠宮と私だけが、ひさしの下に残っていた。
傘が、まだ差し出されている。
右手が微動だにしない。筋肉の震えがない。この人は、答えが出るまで待つつもりだ。何分でも。何も言わずに。
——バリケードが、傘を差し出している。
遮断する人が、雨を遮ってくれようとしている。
矛盾。
受け取った。
折りたたみ傘は軽かった。安物ではない。骨がしっかりしている。生地が厚い。でも、その重さより、手渡される瞬間に指先がかすった感覚のほうが――重かった。温度はわからなかった。〇・五秒に満たない接触では温度は測定できない。
篠宮の喉が、小さく鳴った。雨音にほとんど消えた。
篠宮は私が傘を受け取ったのを確認すると、鞄を頭の上にかざして、雨の中に出て行った。
走らなかった。
歩いていた。早足ですらなかった。百七十五センチの背中が、雨を真っ直ぐに浴びながら、駐輪場のほうに向かって歩いていた。
「……」
何か言おうとした。「傘」「あの」「待って」。どれもが喉でぶつかって、一語も外に出なかった。
背中が雨に滲んでいく。肩が濡れている。鞄が濡れている。あの中にはノートが入っている。三色の付箋が貼られたノートが。あの几帳面な文字が水に滲んだら。
追いかけなかった。
追いかけるという行動が何を意味するか、わかっていたから。
代わりに、黒い折りたたみ傘を開いた。ワンタッチ式。ぱさ、と音がして広がった。
雨の匂いがした。そして、もうひとつ。
柔軟剤の。
あの柔軟剤の匂いが、傘の生地に、うっすらと残っていた。
*
翌日。木曜日。晴れ。
三列目の左から七番目に座った。八番目に篠宮がいる。来た。
いる。来た。来なかったらどうしようと思っていなかった、は嘘だ。思っていた。昨日の雨で体調を崩したかもしれない。あの歩き方では確実にずぶ濡れだったはずだ。
でも篠宮は来ている。ノートを開いている。付箋を並べている。
息を吐いた。
安心していた。来たことに。数値を拾うより先に、胸が緩んでいた。先に安堵が来て、それから目が追いついた。
追いついた目が、引っかかった。
……髪が、違う。
いつもの篠宮の髪は、右から左に流れている。前髪が目にかからないぎりぎりの長さで、きちんと整えられている。今日もそうだ。同じように見える。
でも、七ミリくらい右寄りだ。
普段とは微妙に分け目がずれている。たぶん、昨日の雨で濡れた髪を乾かした時に、いつもと違う方向から風が当たったのだと思う。ドライヤーの角度が三度ずれたら、分け目は変わる。
三百人の教室で、七ミリのずれに気づいているのは、たぶん私だけだ。
七ミリのずれは、昨日の雨の証拠だ。傘を私にくれて、自分は濡れて帰った証拠。髪は嘘をつかない。本人が何も言わなくても、髪が「昨日、雨に濡れました」と報告している。
報告を受理してしまった。脳が、もう分類を始めている。「篠宮蓮の行動記録」のフォルダが重くなっていく。ノートの字。付箋の色。消しゴムを使わない癖。衣擦れの音。柔軟剤の匂い。今日のシャツの襟の折り方。十五時のドアベル。「うまい」。「ごちそうさま」。カップの持ち方。
そして、七ミリ右にずれた分け目。
「……暑い」
独り言。安全圏。嘘。
暑くない。六月の朝は涼しい。嘘の独り言の在庫が積み上がる。
講義が始まった。ノートをとった。教授の話を聞いた。九十分。
でも九十分のあいだ、ずっと、視界の端に、七ミリ分のずれが映っていた。
放課後。
鞄の中に、黒い折りたたみ傘がある。
返さないといけない。
でも「返す」ためには、篠宮に声をかけないといけない。声をかけるためには、近づかないといけない。近づくためには、理由を説明しないといけない。「昨日の傘を返しに来ました」。それだけの台詞。短い。簡単なはずだ。
できない。
声をかけたことがない。こちらからは一度もない。「ありがとうございました」と言った。「グアテマラでよろしいですか」と聞いた。でもそれはカフェの中の、店員としての発話だ。
「瀬川日和」として「篠宮蓮」に声をかけたことは、ない。
傘が、鞄の中で存在を主張している。重さじゃない。あの柔軟剤の匂いが、微かに、鞄全体に移り始めている。
返さないと。
でも返したら、この匂いも返すことになる。
何を考えている。傘を返すだけの話なのに、匂いの残留期間を計算している。
昨日の指先の〇・五秒。七ミリの分け目。傘の柔軟剤。全部がひとつのフォルダに収束しようとしていて、そのフォルダに名前をつけることを、私はまだ拒否している。
「……帰ろ」
独り言。三回目。これは本当。帰るのは事実だから安全だ。
傘は明日、返す。
明日返すために、明日また準備して、明日また30センチの隣に座る。
それがもう、理由を作っていることに——気づいている。気づいていて、止められない。
六月の風は、湿度を含んでいた。




