バリケード問答
菜月が唐揚げを箸で刺した。
「で、あの沈黙のプリンスとはどこまで進んでんの」
唐揚げに罪はない。
*
五月の半ば。学食の二階。
窓際のテーブルで昼ごはんを食べている。私は日替わり定食、菜月は唐揚げ定食。菜月はいつも唐揚げ定食だ。メニューの選択に揺るぎがない人間は、往々にして他のことにも迷いがない。
「進んでないし、そもそもどこに向かって進む話なの」
「だから聞いてんじゃん」
菜月はアイスコーヒーのストローを咥えながら、目だけで私を見ている。裁判官の顔だ。
「まず確認ね。あたしの理解だと、ひよりの隣に座ってる無口イケメン、」
「イケメンとは言ってない」
「三百人の大教室で毎日隣っていう時点でイケメンかどうかは論点じゃないんだけど、まあいいや。で、そのイケメンがバイト先にも来るようになって」
「客として」
「客としてね。で、ひよりのシフト日にしか来ないんでしょ」
「……偶然の可能性もある」
「何回来た」
指を折って数えた。木曜、土曜、火曜、木曜、土曜。
「……八回」
「八回連続であんたのシフト日に来る偶然の確率、計算してみて」
計算した。週六営業のうち私のシフトは三日。八回連続で当たる確率は(1/2)^8=1/256。0.39%。
統計的に有意だ。
「顔が答え言ってるよ」
「何も言ってない」
「数学が得意な人って便利だよね。自分で自分を論破できるから」
菜月は唐揚げを食べながら笑っている。この人は常に食べながら笑う。咀嚼と嘲笑の両立。器用な口だ。
「で、あだ名つけたんでしょ。あの人に」
「……なんで知ってるの」
「ひよりの顔に書いてある。『あの人のこと考えてます』って常時表示されてるから、そりゃあだ名くらいつけてるよねって」
「書いてない。表示もされてない」
「じゃあ何て呼んでんの。脳内で」
沈黙した。
言うべきかどうか迷っている時間は、菜月にとって「肯定」と同義らしい。
「言わないならあたしが当てる。えーと、喋らない壁」
「壁じゃない」
「あ、否定の仕方が具体的。じゃあ壁に近い何か。人型空気清浄機」
「空気は清浄にしてない。たぶん」
「じゃあ何。圧のある家具。座る彫刻」
どんどん出てくる。菜月のあだ名製造能力にはたぶん特許が取れる。
「……バリケード」
言ってしまった。
菜月が唐揚げを咥えたまま固まった。三秒後、咀嚼を再開して、飲み込んで、アイスコーヒーで流し込んで、こう言った。
「壁と同じだよ!!」
「違う。壁は受動的だけどバリケードには遮断機能がある」
「細かっ」
「細かくない。構造が違う」
「構造の話してないよ!! ひよりが隣のイケメンをバリケード呼ばわりしてる事実の話してんの!!」
学食の二階に菜月の声が響いた。三つ隣のテーブルの女子がこちらを見た。私は味噌汁で存在を薄めようとした。無理だった。
「あのね、ひより」
菜月が急に真顔になった。アイスコーヒーのストローから口を離して、テーブルに両肘をついて、私のほうに身を乗り出してきた。
「好きじゃん。普通に」
味噌汁が気管に入りそうになった。
「違う。目も合わせないよ」
「逆にそれが怪しいんだよ!!」
「怪しくない。単にあの人の目つきが鋭いから正面から見づらいだけ」
「正面から見づらいのに横顔はガン見するんだ」
「ガン見してない」
「先週は15回だったよ。あたし数えてるから」
菜月は本当に数えている。正の字で。ノートの端に。講義中に。正の字をつける暇があったら講義を聞いてほしい。
「ひより。あたし、別に冷やかしてるんじゃないよ」
菜月の声のトーンが少し下がった。唐揚げの手が止まっている。
「ただ、ひよりって篠宮くんの話する時、コーヒー豆の品種説明する時と同じ顔してるよ」
「……してない」
「してるって。目がきらきらしてるもん。エチオピア・イルガチェフェの時と同じ」
「……それは最高級の豆だから当然で」
「ほら! また同じ顔!」
違う。目はきらきらしていない。していないはず。確認する鏡がないから否定も肯定もできないけど。
「好きかどうかはともかく、気になってるのは認めなよ」
「気になるのと好きは違う」
「どう違うの」
「好きは感情で、気になるは認知の問題。未解決の情報があると脳がそれを処理しようとするのは正常な反応であって、」
「出た。ひよりのそれ」
「それって何」
「理屈で逃げるやつ。感情を数式に変換して処理した気になるやつ」
——刺さった。
菜月の言葉はたまに刃物になる。本人に悪気はない。悪気がないから余計に切れ味がいい。
「あのね」
菜月が唐揚げの最後の一個を箸で持ち上げた。
「好きの定義なんか考えたって意味ないよ。好きは定義する前に来るもんだから」
それを口に放り込んで、満足そうに咀嚼した。
「あたしが言いたいのはさ。あんたが篠宮くんのことを好きかどうかじゃなくて、もう手遅れなんじゃないの、ってこと」
「手遅れ」
「うん。もう気になっちゃってるじゃん。バリケードなんてあだ名つけちゃってるじゃん。名前がつくのは受け入れた証拠でしょ」
——それは。
サークル勧誘の件で「バリケード」と名付けた日。あの時、確かに思った。名前をつけたら受け入れたことになる、と。
菜月は知らないはずだ。でも同じ結論に辿り着いている。
「……菜月」
「ん」
「定義できないものを、どうやって処理すればいいの」
菜月はトレーを重ねながら、あっさりと答えた。
「処理しなくていいんじゃない。そのまま持ってれば」
返却口にトレーを置いて、私のほうを振り返った。
「ていうか、ひよりのそれ、処理じゃなくて熟成だから。コーヒー豆みたいにさ。寝かせてるうちに味が出るタイプ」
なぜコーヒー豆を比喩に使った。菜月は私のバイト先を知っている。知っていて使った。この人の言葉選びは八割が無自覚で、二割が計算だ。今のがどちらかは、わからない。
「……菜月って、なんでそんなに人のこと見えるの」
聞いてから、しまった、と思った。菜月の目が一瞬だけ遠くなった。学食の天井を見て、それからアイスコーヒーの氷をストローでかき混ぜた。
「そりゃあたしも昔、見てもらえなかったからでしょ」
空気が変わった。菜月は笑っていた。笑っていたけど、声のトーンが半音だけ低かった。
「中学ん時ね。好きな人がいたの。で、毎日見てたの。あんたみたいに。でもその人はあたしのこと一回も見なかった。一年間」
ストローの先で氷を沈めた。
「見てもらえない側にいるとさ、見ることだけ上手くなるんだよね。だからひよりのこと、よく見える」
菜月はトレーを重ねた。
「ま、今はもう平気。あたしの話はいいの。ひよりの話してんだから」
菜月は平気と言った。平気と言う人は、大抵まだ全部は平気じゃない。でもそこを掘る権利は私にはない。
ただ、菜月が私の気持ちを見抜けるのは、センスじゃなくて経験だとわかった。見てもらえなかった人は、見る目を持っている。
*
学食を出て、キャンパスの中庭を横切った。五月の風は四月より重い。湿度が上がっている。
菜月の声が、頭の中で反芻されている。
「好きじゃん。普通に」
違う。
違う、はず。
隣にいて楽だから意識している。静かだから安心する。バリケードとして機能しているから都合がいい。消去法で残った「便利な隣人」であって、「好き」ではない。
「好き」は変数であって確定値じゃない。私はまだ代入していない。代入する気もない。
——代入する気がないのに、変数を消去できないのは、なぜだ。
中庭のベンチの横を通り過ぎた。猫が一匹、ベンチの下で丸くなっている。
「猫」
独り言。
猫に関する独り言は安全だ。誰に聞かれても、何の意味もない。「猫がいた」。それだけの事実。感情は入っていない。
でも最近、独り言の安全圏が狭くなっている気がする。
いつ「猫」が「篠宮」に差し替わるか、自分でもわからない。




