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6文字の残響

 閉店後のカフェは、昼間と違う匂いがする。

 コーヒー豆と洗剤と、少しだけ疲れた空気。

 その空気の中で、たったひとことが響いた。

 今でも耳に残っている。



         *



 火曜日の夜。閉店三十分前。


 店には篠宮だけが残っていた。


 常連の佐藤さんは七時に帰った。学生の二人組は七時半に帰った。新規のカップルは八時に帰った。


 八時半閉店の「雫」に、八時の時点で残っているのは、窓際の席の篠宮だけだった。


 文庫本を読んでいる。今日の本は表紙が青い。遠くからだとタイトルは見えない。


 カップはもう空だ。三十分以上前に飲み終えているのに、席を立たない。残っているのは、本が佳境だからだろう。そう思うことにした。他の理由を考えると、思考が変な方向に行くから。


 私は閉店準備を始めた。


 食器を洗う。カウンターを拭く。明日の豆を棚から確認する。この一連の作業が好きだ。客がいなくなった店は、昼間と違う顔になる。照明が少し落ちて、エスプレッソマシンの余熱がカウンターをほんのり温めていて、さっきまで人がいた名残が空気に溶けている。


 静かだった。BGMはない。ドリッパーを洗う水の音と、時計の秒針と、遠くの車の音。そして、篠宮がページをめくる音。


 紙と紙が擦れる、小さな音。それが一定のリズムで聞こえる。


 読むの速いな、と思った。ページをめくる間隔が短い。集中している。


 閉店十分前。


 私はカウンターの中で、明日の焙煎スケジュールを確認していた。店長は奥の焙煎室でロースターの掃除をしている。つまりフロアには私と篠宮だけ。


 この空間が、妙に心地よかった。誰もいない店で、篠宮だけがいる。本を読んでいる。私は仕事をしている。言葉はない。視線も交わさない。同じ空間にいるだけ。


 101教室と同じだ。あの最後列の、隣同士。お互いに自分のことをしていて、干渉しない。でもいないわけじゃない。気配がある。呼吸がある。ページをめくる音がある。


 八時二十五分。


 篠宮が文庫本を閉じた。しおりを挟んで、鞄に入れて、席を立った。


 カウンターにカップを持ってくる。


 前もそうだった。他の客はテーブルにカップを置いたまま帰る人が多い。でも篠宮は必ず、自分でカウンターに返しに来る。


 長い脚が近づいてくる。足音は柔らかい。スニーカー。教室と同じ音。


 カウンターの前に立った。


 カップをソーサーごと、カウンターに置いた。静かに。音を立てないように。


 私は「ありがとうございます」と言おうとした。いつもの、会計前の挨拶。


 でも、彼のほうが先だった。


 「ごちそうさま」


 時間が止まった。


 いや、止まっていない。時計の秒針は動いているし、遠くの車の音も聞こえている。止まったのは私だけだ。


 篠宮の声が、空っぽのカフェに響いた。


 低い声。


 それは知っていた。「本日の珈琲で」で聞いた。「うまい」で聞いた。


 でも今のは違った。


 注文の言葉じゃない。独り言でもない。私に向かって——私が淹れたコーヒーに対して、言った。


 ——声に、温度があった。


 低くて、静かで、素っ気なくて。でもその素っ気なさの下に、何かがあった。ほんの少しだけ語尾が柔らかかった。「ごちそうさま」の「ま」が丸かった。


 私はカップを受け取った。指が触れなかった。触れなかったのに手が震えた。


 「あ、ありがとうございます」


 声が裏返った。


 たぶん裏返った。自分では判断できない。でも明らかにいつもの声じゃなかった。


 篠宮は変わらない顔だった。切れ長の目。薄い口元。何も読み取れない。


 でも。


 耳が少しだけ赤くなっているように見えたのは、閉店前の暖色の照明のせいだろうか。


 会計を済ませた。いつもの金額。いつもの頷き。


 ドアのベルが鳴って、篠宮が出ていった。


 ドアが閉まった。


 店内が静かになった。


 さっきまでページをめくる音があった。足音があった。そして「ごちそうさま」があった。


 今は何もない。


 洗剤の匂いと、コーヒー豆の残り香と、閉店後の疲れた空気の中に、声の残響だけが漂っている。


 ごちそうさま。


 頭の中で再生した。


 低い。静かだ。短い。素っ気ない。


 なのに温かかった。


 「ねえ、ひよりちゃん」


 店長が焙煎室から出てきた。


 「今日のレジ締めお願いね」


 「はい」


 「あと、顔にやけてるよ」


 「にやけてないです」


 店長はエプロンを外しながら、篠宮がいた窓際の席を見た。空になったその席を、何秒か、静かに見つめていた。


 左手が薬指に触れている。指輪の跡をなぞるように。


 「……いい声だったね」


 独り言みたいな声だった。私に言ったのか、自分に言ったのか、わからない。


 店長はそのまま裏口から出ていった。「おつかれ」と、いつも通りに。



         *



 帰り道。


 夜の坂道を歩いている。五月の夜風は四月より少しだけ温かい。


 頭の中で「ごちそうさま」が止まらない。


 正確にはもう何十回と再生している。再生するたびに少しずつ輪郭が曖昧になっていくのが怖くて、何度も繰り返す。音程。長さ。息の混ざり方。「ご」から「ま」までの時間。


 教室では声を聞いたことがなかった。


 一ヶ月以上、隣に座っていたのに。


 カフェで初めて聞いた「本日の珈琲で」。注文の声。あれは事務的だった。「うまい」。あれは独り言だった。私に向けた言葉じゃなかった。


 でも「ごちそうさま」は違う。


 私が淹れた珈琲を飲んで、私に向かって言った言葉。


 それだけのことだ。客が店員に「ごちそうさま」と言う。日本中のあらゆる飲食店で、毎日何万回と繰り返されている挨拶だ。


 なのに。


 こんなにも、残る。


 「ごちそうさま」。


 声に出して反芻してみた。自分の声だと全然違う。高くて、軽くて、別の言葉みたいだ。


 あの低さ。あの静けさ。あの……ほんの少しだけ柔らかい語尾。


 駅の改札を通る。電車を待つ。ホームのベンチに座る。


 スマホを見る気が起きなかった。何を見ても、頭の中の音声が止まらない。


 電車が来た。乗った。座った。


 窓の外に夜景が流れている。光が点になって、線になって、後ろに消えていく。


 篠宮蓮。名前を心の中で呼んだ。


 呼んでみて、気づいた。


 いつの間にか、この名前を呼ぶことに抵抗がなくなっている。最初は「隣の席の男」だった。それが「沈黙のバリケード」になり、「篠宮」になり、今は。


 蓮。


 名前だけが、ぽとりと落ちた。


 心の中で。声には出していない。出していないのに、頬が熱い。


 「……来た」


 何が。


 何が「来た」のか、自分でもわからない。ただ、何かが確実に変わった。昨日までと今日とで、何かの境界線を越えた。


 越えてしまった。


 電車が駅に着いた。降りる。改札を出る。家までの道を歩く。


 ——ごちそうさま。


 まだ、耳に残っている。


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