第七章 測量学校
大基準点の復活から一ヶ月後。
カルトグラフ辺境伯領には、以前とは違う活気が満ちていた。
「先生、ここの計算、合っていますか?」
「見せてみろ——ああ、ここの三角関数の値が違う。やり直し」
「はい!」
測量学校「座標院」は、予想以上の成功を収めていた。
当初十二人だった生徒は、今では三十人を超えている。辺境伯領だけでなく、隣国のアクアダクト王国からも入学希望者が来ている。
「座標院」という名前は、リーネが提案したものだ。千年前の測位師たちが所属していた「始原測位院」へのオマージュだという。
測は校長として、そして唯一の正規教師として、多忙な日々を送っていた。カリキュラムの策定、教材の作成、実技指導——やるべきことは山のようにある。
だが、その忙しさは苦痛ではなかった。
「先生、質問があります」
「何だ」
「なぜ、測量では三角形を使うんですか? 四角形でもいいような気がするんですが」
測は少し考えてから答えた。
「三角形は、最も安定した図形だからだ。三点を結べば、必ず一意の三角形が決まる。四角形だと、歪む可能性がある」
「歪む?」
「例えば——」
測は地面に棒で図を描いた。
「四角形ABCDがあるとする。ABとCDの長さ、BCとDAの長さがわかっていても、この四角形の形は一つに決まらない。平行四辺形になるか、台形になるか、複数の可能性がある」
「なるほど……」
「でも三角形なら、三辺の長さが決まれば、形は一つに決まる。だから測量では、まず三角形の網を作り、それを基準にして測定を行う」
「三角測量、ですね」
「そうだ。よく覚えていたな」
生徒は嬉しそうに頷いた。
教えることは、学ぶことでもある。生徒の質問に答えるたびに、測自身も測量の原理を再確認し、理解を深めていった。
────
しかし、座標院の運営は順調ではなかった。
「先生、また妨害がありました」
授業の後、副校長を務めるリーネが報告に来た。
「今度は何だ」
「生徒の一人が、夜間に何者かに襲われました。怪我は軽傷ですが……」
「また歪曲公の配下か」
「おそらく。警告の意味でしょう」
大基準点の復活以来、歪曲公の攻撃は激しさを増していた。直接的な戦闘だけでなく、こうした嫌がらせも頻繁に行われている。
「生徒たちの安全を確保しないと」
「ガルドに護衛を頼みました。でも、人数が限られています」
「辺境伯に兵士の増派を頼めないか」
「すでに頼んでいます。ただ、辺境伯も——」
リーネは言いにくそうに口ごもった。
「何だ」
「政治的な圧力を受けているの。他の国から、座標院を『監視下に置け』という要求が」
測は眉をひそめた。
「監視?」
「座標の技術を独占しようとしている国がある。座標院がカルトグラフ領にあるのが気に入らないのよ」
技術者の責任——以前、測が考えたテーマだった。
測量は中立的な技術だが、それを巡って政治的な争いが起きる。技術そのものには罪はないが、それを使う人間には——
「座標院は、特定の国のものじゃない」
測は言った。
「世界全体のものだ。そのことを、各国に理解させる必要がある」
「どうやって?」
「……わからない。でも、このままでは駄目だ」
測は考え込んだ。
技術を広めれば広めるほど、政治的な利害が絡んでくる。それは避けられないことだ。だが、だからといって技術を秘匿するわけにもいかない。
「一つ、提案がある」
測は言った。
「各国から代表を招いて、『国際測量会議』を開く。座標院の運営を、一国ではなく複数の国で共同管理する形にする」
「共同管理……」
「そうすれば、どの国も座標院を独占できない。技術は全ての国に平等に提供される」
「でも、それを各国が受け入れるかしら」
「受け入れさせる。必要なら——」
測は窓の外を見た。座標院の中庭では、生徒たちが実習を行っている。三脚を据え、視認の杖を覗き込み、データを記録する——
「必要なら、大基準点を人質にする」
「人質?」
「大基準点の正確な座標は、俺しか知らない。もし俺が協力を拒めば、座標系は再び狂い始める」
「それは——」
リーネは絶句した。
「脅迫、ね」
「そうだ。脅迫だ。でも、それしか方法がないなら、俺はやる」
測は自分の言葉に、覚悟を込めた。
技術者として、中立でありたい。政治に関わりたくない。だが、技術を守るためには、時に政治的な行動も必要になる。
それが、この世界で生きていくということだ。
────
国際測量会議は、一ヶ月後に開催された。
辺境伯領の城に、周辺六カ国の代表が集まった。アクアダクト王国、ノースゲートを含む北方連合、東の商業都市連盟、南の王国——そして、名前だけ出席した歪曲公の支配地域からの使者。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます」
測は会議の冒頭で挨拶した。
「本日は、座標院の今後の運営について、皆様のご意見を伺いたいと思います」
会議は、予想通り紛糾した。
「座標院はカルトグラフ領のものだ。なぜ我々が口を出せる」
「いや、これほど重要な技術を一国が独占するのは危険だ」
「そもそも、座標とやらは本当に役に立つのか? 眉唾ではないか」
「ノースゲートの城壁が直ったのは事実だぞ」
「それは——」
測は黙って議論を聞いていた。各国の思惑が、露骨に表れている。
やがて、アクアダクト王国の宰相が発言した。
「私からひとつ、提案があります」
「何でしょう」
「座標院を、独立した国際機関とする。各国から理事を出し、共同で運営する。技術は全ての国に平等に提供し、特定の国が独占しない」
それは——測が考えていたのと、ほぼ同じ案だった。
「宰相殿、それに賛成する根拠は?」
北方連合の代表が訊ねた。
「大運河です」
宰相は答えた。
「我が国の大運河は、ハカル殿の技術によって修復されました。三百年間、機能しなかった運河が、今は正常に流れている。この技術は、一国が独占するには——いいえ、独占してはならないものです」
「しかし——」
「考えてみてください。座標の技術が広まれば、国境紛争は減る。建物は崩れなくなる。インフラは正常に機能する。それは、全ての国にとって利益になることです」
会議場が静まった。
測は口を開いた。
「宰相殿の提案を支持します。そして、一つ付け加えさせてください」
「何でしょう」
「座標院の校長——つまり私は、いかなる国の利益のためにも働きません。座標の技術は、世界全体の公共財です。私は、それを守るために、全力を尽くします」
「具体的には?」
「もし特定の国が座標の技術を独占しようとするなら——」
測は視線を巡らせた。全ての代表を、順番に見つめる。
「——私は、その国への技術提供を停止します。そして、大基準点の管理を放棄します」
会議場がざわついた。
「放棄? それはどういう意味か」
「大基準点の正確な座標は、私しか知りません。私が管理を放棄すれば、座標系は再び狂い始める。建物は傾き、運河は逆流し、魔法陣は不安定になる——千年前と同じ状態に戻ります」
「それは——脅迫か」
「警告です。座標の技術は、諸刃の剣です。正しく使えば世界を救う。誤って使えば世界を滅ぼす。私は、その責任を負う覚悟があります。皆様にも、同じ覚悟を求めます」
長い沈黙が流れた。
やがて、辺境伯が立ち上がった。
「私は、ハカル殿の提案を支持する。座標院を国際機関とし、各国の共同管理下に置く。異議のある方は?」
誰も、異議を唱えなかった。
────
会議は、座標院の国際化という結論で終わった。
各国から理事が選出され、座標院の運営を監督することになった。技術は全ての国に平等に提供され、軍事利用は禁止された。
「うまくいったわね」
会議後、リーネが言った。
「まだ始まりに過ぎない。実際に運営が軌道に乗るまでは、問題が山積みだ」
「でも、第一歩は踏み出せた」
「ああ」
測は窓の外を見た。日が暮れ始めている。空は赤と紫のグラデーション——この世界の夕焼けは、地球のそれよりも色彩が豊かだ。
「ハカル」
「何だ」
「ありがとう」
「何がだ」
「この世界に来てくれて。測量の技術を持ってきてくれて。座標院を作ってくれて——」
リーネは言葉を切り、少し照れたように微笑んだ。
「私の家——カルトグラフ家は、千年間、『地図師』として生きてきた。でも、正確な地図なんて作れなかった。ずっと、無力感を抱えていた。それが、あなたのおかげで——」
「俺のおかげじゃない」
測は首を振った。
「皆の力だ。クロードが機材を作り、ボルガが現場を支え、ミーシャが古代の知識を提供し、君が古文書を読み解いた。俺一人では、何もできなかった」
「でも、あなたが中心にいた」
「……」
測は何も言えなかった。
褒められることに慣れていない。現代日本では、測量士は地味な仕事だった。誰にも注目されず、黙々と座標を刻み続ける——それが測量士の日常だった。
だが、この世界では違う。
自分の技術が、人々の役に立っている。世界を変えている。その実感が——
「……ありがとう」
測は小さく呟いた。
「この世界に来て——良かったと、今は思っている」
リーネは微笑んだ。
二人は並んで、夕焼けを見つめた。




