第四章 最初の基準点
森は深かった。
カルトグラフ城から西へ半日ほど行ったところに、その森はあった。「エルフの森」と呼ばれているが、実際にエルフが住んでいるかどうかは、地元の人間でも確かめた者は少ないという。
「ここから先は一人で行った方がいいわ」
森の入り口で、リーネが立ち止まった。
「なぜだ」
「ミーシャは人間を嫌っているの。特に集団で来られると、姿を見せないと思う」
「わかった。待っていてくれ」
測は一人で森に足を踏み入れた。
木々の間を歩きながら、視界に浮かぶ座標格子を観察する。興味深いことに、森の中では歪みが小さくなっていた。村や城の周辺よりも、座標系が安定している。
植生の影響だろうか。あるいは、別の要因があるのか。
「止まれ」
頭上から声が降ってきた。
見上げると、木の枝に少女が座っていた。銀色の長い髪。尖った耳。緑色の瞳が、警戒の色を浮かべて測を見つめている。
見た目は十四、五歳——だが、エルフは長命だという。実年齢はいくつなのか、見当もつかない。
「あなたがミーシャか」
「そう呼ばれている。お前は何者だ」
「境井測。人は俺をハカルと呼ぶ」
「ハカル? 変な名前だな。何をしに来た」
「協力を求めに」
「断る」
即答だった。
ミーシャは興味を失ったように視線を逸らした。
「人間の都合に付き合うほど暇じゃない。帰れ」
「待ってくれ。俺の話を聞いてほしい」
「聞く必要がない」
「古代の記憶について、訊きたいことがある」
その言葉に、ミーシャの動きが止まった。
「……古代の記憶?」
「お前は千年前の記憶を持っていると聞いた。断片的だとしても——測位術について、何か知っていることはないか」
ミーシャはゆっくりと測を見下ろした。その目に、今までとは違う光が宿っている。
「お前、測位術を知っているのか」
「知っている。俺は測量士だ」
「測量士……」
ミーシャは木から飛び降りた。音もなく着地し、測に近づいてくる。
「嘘をつくな。測位師は千年前に滅びた」
「俺は別の世界から来た。そこでは、測量技術は今も生きている」
ミーシャの目が、わずかに見開かれた。
「別の世界……転生者、か」
「知っているのか」
「伝説は知っている。千年前にもいた。別世界から来て、測位術を世界に広めた者が」
測は息を呑んだ。リーネも似たことを言っていた。やはり、この世界には転生者の前例があるのか。
「俺は、この世界の歪みを正したいと思っている。そのために、『竜骨山脈の石』を探して復活させたい」
「復活させる? どうやって」
「正しい座標を与えれば、石は目覚める——そう記録されている」
ミーシャは数秒間、測を見つめた。
「私の記憶は曖昧だ。断片しか残っていない」
「それでもいい。何か一つでも手がかりになれば」
「……竜骨山脈」
ミーシャは目を閉じ、何かを思い出すように眉を寄せた。
「……山の奥に、『響きの谷』がある。そこに……石がある」
「響きの谷?」
「名前はそう。私が……子供の頃に……行ったことがある。千年前に」
千年前に子供だった——ということは、今は千歳を超えているのか。
「その谷に、大基準点があったのか」
「わからない。ただ、大きな石があった。魔力を……放っていた」
「場所は覚えているか」
「……覚えている。ただし——」
ミーシャは目を開けた。
「私を連れて行くなら、道案内はできる。ただし、条件がある」
「条件?」
「復活に成功したら——この森の歪みも、直してもらう」
測は周囲を見回した。確かに、森の中は比較的座標が安定しているが、それでも完全に正常ではない。木々の成長がわずかに偏っている。地面の凹凸が、自然のものとは微妙に違う。
「約束する」
「……本当に?」
「ああ。俺の目的は、この世界全体の歪みを正すことだ。お前の森も、当然その中に含まれる」
ミーシャは測を見つめ続けた。嘘を見抜こうとしているように。
やがて、小さく頷いた。
「いいだろう。協力してやる」
チームが完成した。
リーネ——地図師、古代語の読み手。
ガルド——元傭兵、ポールマン兼護衛。
クロード——金属職人、測量機器の製作者。
ミーシャ——エルフ、古代の記憶を持つ案内人。
そして、測。
五人のチームで、竜骨山脈を目指す。
────
出発は二週間後に決まった。
その間に、クロードが測量機器を製作する。三脚、水準器、簡易経緯儀、測量ポール——最低限の道具を揃える必要があった。
測はスラント村に戻り、クロードの作業を監督しながら、同時にもう一つの実験を行っていた。
塔の石碑の座標を、修正する実験だ。
「これを、石碑に刻めと」
クロードは、測が渡した羊皮紙を見つめていた。そこには、座標値が数列で書かれている。
「ああ。塔の中の石碑に刻まれている座標は間違っている。これが、俺が計算した正しい値だ」
「正しい、と言われてもな……」
「俺のスキル——『絶対座標認識』で測定した値を、周囲の測量データと照合して補正した。まだ精度は低いが、元の数値よりは正確なはずだ」
クロードは渋い顔をした。
「問題は、どうやって刻むかだ。あの石碑は見たが、硬い。鉄のタガネでも歯が立たん」
「魔法は使えないのか」
「わしは使えん。だが——」
クロードはミーシャを見た。エルフの少女は、村の外れで木の幹に寄りかかり、退屈そうに空を見上げている。
「彼女なら、何かできるかもしれん」
測はミーシャのもとへ歩いていった。
「ミーシャ、一つ頼みがある」
「何だ」
「塔の石碑に、新しい座標を刻みたい。だが、石が硬すぎて道具では削れない。魔法で何とかならないか」
ミーシャは興味なさそうに目を細めた。
「『刻印』の術なら知っている。だが、なぜそんなことをする」
「実験だ。大基準点を復活させる前に、小さな基準点で試してみたい。俺の計算が正しいかどうか——」
「正しいかどうか、やってみなければわからないのか」
「ああ。理論は立てた。だが、この世界の法則が俺の知っている世界と同じかどうか、確証がない」
ミーシャは少し考え込むような顔をした。
「……いいだろう。やってやる」
────
塔の最上階。
測とミーシャは、黒い石碑の前に立っていた。
「刻む座標を教えろ」
「この数列だ」
測は羊皮紙を渡した。ミーシャはそれを一瞥し、指先に淡い光を灯した。
「私が刻む。お前は離れていろ」
測は数歩下がった。
ミーシャの指先が石碑に触れた。光が広がり、石の表面を覆う。古い文字が——千年前に刻まれた座標が——溶けるように消えていく。
そして、新しい文字が刻まれ始めた。
測の目には、座標の変化がリアルタイムで見えていた。石碑から放たれる歪みの波紋が、揺らぎ始めている。古い座標と新しい座標がせめぎ合い、周囲の座標系が不安定になる。
だが——
新しい座標が完全に刻まれた瞬間、変化が起きた。
歪みが収束していく。
石碑を中心に渦巻いていた座標の乱れが、急速に整っていく。視界の格子線が——測が設置した仮の原点から見て——より均一に、より直線的になっていく。
「成功、か……?」
測は呟いた。
スキルで周囲の座標を確認する。閉合差を計算する。
数値は——
「減っている」
昨日の測定では、閉合差は水平で約二メートルだった。今、同じ計算をすると——
約五十センチ。
完璧ではないが、大幅に改善している。
「これは……」
「うまくいったのか」
ミーシャが訊ねた。
「ああ。まだ完全じゃないが、歪みが小さくなった。俺の計算は——大筋で正しかったということだ」
測は石碑を見つめた。黒い石の表面に、新しい座標が青白く光っている。
「これで、大基準点を復活させる方法がわかった」
「方法?」
「正しい座標を刻めばいい。問題は、『正しい』座標をどうやって知るかだ。この石碑は、俺のスキルで測定した座標を使った。大基準点でも同じことができる——はずだ」
理論は証明された。
あとは、実行するだけだ。
────
その夜、村長の家で祝宴が開かれた。
塔の石碑を修正したことで、村の歪みが改善した。住民たちは、傾いていた家々の柱がわずかに正されたのを実感した。井戸の水位も、以前より安定した。
「本当に直ったのか」
村長は信じられない様子で、繰り返し測に確認した。
「完全ではないが、改善した。大基準点を復活させれば、もっと良くなる」
「大基準点……竜骨山脈にあるという」
「ああ。これから探しに行く」
村長は深々と頭を下げた。
「ありがとう。お前さんには、村を代表して礼を言う」
「まだ始まったばかりだ。礼は、全てが終わってからにしてくれ」
測はそう言って、杯を傾けた。
翌日から、最後の準備が始まった。
クロードが完成させた測量機器を点検する。三脚は安定性良好。水準器の気泡の動きも滑らか。簡易経緯儀は——精度は低いが、目測より遥かにましだ。
食料と水は、一ヶ月分。リーネが辺境伯家から調達してきた。
護衛として、ボルガの他にも数名の兵士が同行することになった。辺境伯が派遣を決めたという。
「父が、あなたを見込んでいるのよ」
リーネは言った。
「この旅が成功すれば、カルトグラフ領だけでなく、周辺の全ての国に恩恵がある。だから、全面的に支援すると」
「ありがたい話だ」
「でも——」
リーネは言葉を切った。
「成功しなければ、責任を問われるかもしれない。覚悟しておいて」
「わかっている」
測は頷いた。
成功の保証はない。だが、やらなければ何も変わらない。
この世界に来て、測量士として生きていくと決めた。その決意に、偽りはなかった。
────
出発の朝、スラント村には多くの住民が集まっていた。
「行ってきます」
測は村人たちに頭を下げた。
「待っているぞ」
村長が言った。
「この村を——いや、この世界を、頼んだぞ」
測は頷き、馬に跨った。
チームは六人——測、リーネ、ボルガ、クロード、ミーシャ、そして辺境伯から派遣された護衛兵長。加えて、荷物を運ぶ馬が三頭。
「出発だ」
測の声と共に、一行は動き始めた。
草原を北へ。竜骨山脈を目指して。
世界の歪みを正す旅が、始まった。




