第二章 歪んだ世界
村長の家は、集落の中でひときわ大きな石造りの建物だった。
だが、その壁もまた傾いていた。正面から見ると左に三度ほど。測の目には、その数値が自動的に浮かんでくる。玄関の木製ドアは、敷居との間に不自然な隙間があり、開閉のたびに床をこする音が響いた。
「待っていろ」
案内してきた男——名をボルガと言った——は、そう言い残して奥へ消えた。測は玄関先の長椅子に腰を下ろし、周囲を観察した。
室内は薄暗かった。窓はあるが小さく、午後の陽光もわずかしか入らない。壁には獣の毛皮や農具が掛けられ、床には藁が敷かれている。暖炉には火が入っておらず、灰だけが積もっていた。
空気の匂いは、土と煙と、何か発酵したもの——チーズか、あるいは酒か——が混じり合っている。トンネル現場の空気とは全く異なる、生活の匂いだった。
測は視界に浮かぶ座標格子を見つめた。
室内でも歪みは顕著だった。床は水平であるべきなのに、奥に向かって二センチほど下がっている。壁と天井の接合部は直角ではなく、八十七度か八十八度ほどの角度を成している。
この家に住む人々は、この歪みの中で生活しているのだ。傾いた床の上で食事をし、歪んだ壁に囲まれて眠る。それが、彼らにとっての「普通」なのだろう。
だが、測量士の目には、それが異常としか映らなかった。
奥から足音が聞こえた。ボルガが戻ってきた。その後ろに、小柄な老人がついてきている。白髪を後ろに撫でつけ、皺だらけの顔に鋭い目を光らせた男だった。
「こやつが、噂の『測り師』か」
老人——村長であろう——は、測を上から下までじろじろと見た。その視線には、好奇心と疑念が等分に含まれていた。
「名は何という」
「境井測。ハカルと呼んでくれ」
「ハカル……」
老人は名前を口の中で転がすように繰り返した。
「変わった名だ。どこの出身だ」
「遠い国だ。この土地の者には知られていない」
嘘ではない。地球と異世界では、確かに誰も知らないだろう。
「ふむ。ボルガの話では、土地を測る仕事をしていたと」
「そうだ。距離、角度、高さを正確に測定する。それが私の専門だ」
老人の目が細くなった。
「『正確に』、だと?」
その言葉には、何か特別な意味が込められているようだった。老人は椅子に腰を下ろし、測に座るよう促した。
「お前、本当に測れるのか。この世界で、正確に何かを測ることなど、できるわけがないと思っておったが」
測は眉を上げた。
「なぜできないと思う」
「なぜだと?」
老人は苦笑した。
「見ればわかるだろう。この村を見ろ。この家を見ろ。まっすぐなものが一つもない。誰がどう測ろうとも、毎回違う数字が出る。職人たちは嘆いておる。いくら気を付けて積んでも、壁は傾く。いくら慎重に掘っても、井戸は曲がる。この世界では、『まっすぐ』というもの自体が存在せんのだ」
測は黙って聞いていた。
老人の言葉は、測の仮説を裏付けていた。この世界の住民たちは、座標系の歪みに気づいていない。ただ、その結果——建物が傾く、井戸が曲がる——だけを現象として認識している。
「千年前は違ったと聞いておる」
老人は遠い目をした。
「わしのじいさんのじいさん、そのまたずっと前の先祖の時代には、『測り師』という者たちがおった。彼らは魔法のような道具を使い、世界を『正しく』測ることができた。そのおかげで、城は高く、橋は長く、道は真っ直ぐだったという。じゃが——」
老人は首を横に振った。
「千年前、全てが変わった。『測り師』たちは消え、彼らの知識も道具も失われた。以来、この世界は歪み続けておる」
「何が起きたのか、知っているか」
「詳しくは伝わっておらん。ただ、『大崩壊』と呼ばれる出来事があったとだけ。世界中の基準となるものが、一夜にして消えたと」
基準点の消失——
測の脳裏に、測量学の基本が蘇った。あらゆる測量は、基準点から始まる。緯度経度を定める原点、標高を定める水準原点。それらがなければ、相対的な測定しかできない。そして、相対測定を繰り返せば、誤差は累積し、やがて致命的な歪みとなる。
この世界では、千年前に全ての基準点が失われた。以来、誰も「正しい」位置を知ることができなくなった。世代を重ねるごとに歪みは蓄積し、今では世界全体の座標系が狂ってしまっている——
「私に、村を見せてもらえないか」
測は言った。
老人は訝しげな顔をした。
「見せる、とは」
「歩き回って、観察させてほしい。この村の歪みを、私の目で確かめたい」
「確かめてどうする」
「直せるかもしれない」
その言葉に、老人の目が見開かれた。ボルガも驚いた顔をしている。
「直す、だと? 村の歪みを?」
「全てとは言わない。だが、一部は。少なくとも、どこがどう歪んでいるかを明らかにすることはできる。それがわかれば、対処の仕方も見えてくる」
老人は長い間、測を見つめていた。その目は、希望と懐疑の間で揺れているようだった。
やがて、老人は小さく頷いた。
「よかろう。村を見て回るがいい。ボルガ、案内してやれ」
「しかし村長——」
「よいのだ」
老人は手を振った。
「どうせこの村は、このままでは長くない。井戸は枯れかけ、家は次々と傾いて住めなくなっておる。もし本当に何かできるのなら、試させてやれ」
測は立ち上がり、深く頭を下げた。
「感謝する」
────
村を歩き回りながら、測はデータを収集した。
基準点はまだ自分の足元——最初に目覚めた草原の地点——に設定されている。そこから歩いてきた距離と方角を元に、現在地の概算座標が視界に表示されていた。だが、より精密な測量を行うためには、この村自体に基準点網を構築する必要がある。
「ボルガ」
測は案内役の男に声をかけた。
「この村で、最も古くから動いていない構造物はどこだ」
「動いていない?」
「そうだ。建て替えられたり、移動したりしていない、元の位置に残っているもの」
ボルガは少し考え、それから傾いた塔を指差した。
「あの塔だろうな。もう誰も使っていないが、村の創設時から立っていると言われている。五百年か、もっと前か」
「他には」
「村の入り口の石碑。それと、墓地の境界石。どれも少なくとも三百年は動いていないはずだ」
測は頷いた。四点あれば、閉合トラバース測量ができる。閉合差を確認すれば、この村の座標系の歪みの程度を定量化できる。
だが、問題がある。
測量機器がない。
トータルステーションはもちろん、コンパスも、メジャーも、レベルもない。あるのは自分の目と、「絶対座標認識」というスキルだけだ。
測は実験することにした。
塔の根元に立ち、意識を集中させる。
《基準点を設定しますか?》
脳内に声が響く。
「いや、既存の基準点を維持したまま、この地点の座標を測定できるか」
《可能です。現在位置の座標を表示します》
視界に数値が浮かんだ。原点からの相対座標。X、Y、Zの三次元。
「精度は」
《現在の技能レベルでは、誤差約五センチメートルです》
五センチ。建設測量としては使い物にならない数字だが、概略測量には十分だ。
測は村の中を歩き回り、ボルガが示した三つの地点——塔、石碑、境界石——それぞれの座標を記録していった。そして、最後に元の塔に戻り、再度座標を測定した。
閉合差の計算を行う。
結果に、測は眉をひそめた。
「おかしい」
「どうした」
ボルガが不審そうに訊ねる。
「この四点で閉合トラバースを組んだ場合、閉合差は本来ゼロに近くなるべきだ。だが……」
測は計算結果を睨んだ。閉合差が異常に大きい。水平位置で約二メートル、高さで五十センチ。これは測定誤差では説明できない。
「座標系そのものが、均一に歪んでいない」
「何を言っているのかわからん」
「つまり……」
測は言葉を探した。この世界の住民に、測量の概念をどう説明すればいいのか。
「この村は、場所によって歪み方が違う。塔の近くが最も歪んでいて、村の外れに行くほど歪みが小さくなっている。歪みの中心が、どこかにあるということだ」
「歪みの中心?」
「そうだ。何かが——おそらく塔の下に——歪みを生み出している源がある」
ボルガは塔を見上げた。傾いた石造りの円筒が、青紫の空に向かって伸びている。
「あの塔に何かがあると?」
「確かめる必要がある」
測は塔に向かって歩き出した。
塔の入り口は、錆びた鉄の扉で閉ざされていた。だが、蝶番は腐食が進んでおり、強く押せば開きそうだった。
「村長の許可なく入っていいのか」
ボルガが制止しようとする。測は振り返った。
「中に何があるか、知っているか」
「知らん。誰も入ったことがない。呪われていると言われておる」
「呪い?」
「塔に入った者は、方向感覚を失う。上と下がわからなくなり、出てこられなくなる。百年前に何人か試したらしいが、誰も戻ってこなかったそうだ」
測は塔を見上げた。
傾いている——いや、視界の座標格子を通して見ると、塔自体は驚くほど垂直に建っている。周囲の座標系が歪んでいるから傾いて見えるだけで、塔の建築精度は極めて高い。
そして、塔の内部では、歪みがさらに激しくなっている可能性が高い。
「方向感覚を失う」というのは、座標系の歪みによる認知の混乱だろう。重力の方向と視覚的な垂直がずれていれば、人間の平衡感覚は簡単に狂う。
だが——
測には「絶対座標認識」がある。
「私なら、入れる」
測は言った。
「正気か」
「正気だ。この塔の下に、この村の——いや、もしかするとこの世界の——歪みを解く鍵がある。私にはそれがわかる」
ボルガは困惑した顔で測を見つめた。出会って数時間しか経っていない異邦人が、呪われた塔に入ろうとしている。止めるべきか、それとも——
「……村長に報告する」
ボルガは結局そう言った。
「待っていろ。勝手に入るな」
足早に去っていくボルガの背中を見送りながら、測は塔の扉に手を触れた。冷たい鉄の感触。錆の匂いが鼻をつく。
視界には、塔内部から溢れ出す座標の歪みが、可視化されていた。
扉の向こう側は、座標の嵐だった。
────
ボルガが村長を連れて戻ってきたのは、小一時間後だった。
その間に、測は塔の外周を詳細に調べていた。外壁の石積みは極めて精密で、目地の幅は全て均一だった。これだけの技術を持った建設者がいたということは、かつてこの世界にも高度な測量術が存在したということだ。
「本当に入るつもりか」
村長は塔を見上げながら言った。その声には、畏怖が混じっていた。
「入る」
「死ぬかもしれんぞ」
「その可能性はある。だが、この塔の中を調べなければ、この村は救えない」
村長は長い間沈黙していた。やがて、深いため息とともに言った。
「好きにしろ。じゃが、何かあっても、わしらには助けようがない」
「わかっている」
測は錆びた扉に両手をかけた。力を込めると、軋みながら扉が開いた。
内部は暗かった。だが、目が慣れるにつれて、螺旋状の石段が上に向かって伸びているのが見えた。壁には燭台が設置されているが、蝋燭は燃え尽きて久しい。
そして——座標格子が、狂っていた。
視界に浮かぶ格子線が、螺旋を描いて捻じれている。垂直のはずのZ軸が傾き、水平のはずのXY平面が波打っている。これでは、確かに方向感覚を失うだろう。
だが、測には「本当の」座標が見えている。
歪んだ格子の向こうに、正しい座標系を認識できる。それは薄く、不安定だが、確かに存在している。
「行ってくる」
測は一歩を踏み出した。
石段を登り始めた瞬間、平衡感覚が揺らいだ。足元は確かに上向きの階段なのに、体の感覚は横に進んでいると告げている。壁が床で、天井が壁で——
測は目を閉じた。
視覚情報を遮断し、「絶対座標認識」だけに意識を集中させる。
《現在位置:X 2847.2、Y 156.1、Z 3.5》
座標は嘘をつかない。Z座標が上昇している。つまり、自分は確かに上に向かって進んでいる。
目を閉じたまま、測は石段を登った。
一段、二段、三段——
手で壁を探りながら、足で階段の縁を確認しながら。視覚に頼らず、座標だけを信じて。
やがて、空気が変わった。
閉塞した石の匂いから、埃っぽいが広い空間の気配へ。測は目を開けた。
塔の最上階だった。
円形の部屋。直径は十メートルほど。窓から差し込む光が、室内を淡く照らしている。
そして、部屋の中央に——
石碑があった。
高さ二メートルほどの黒い石柱。表面には、見たことのない文字が刻まれている。そして、その石碑を中心として、座標の歪みが渦を巻いていた。
これが原因だ。
測は確信した。この石碑が、座標系の歪みを生み出している。いや、正確には——
近づいて、石碑を観察する。
表面の文字は、風化して読みにくくなっている。だが、その配列には規則性があった。数列のような——いや、座標値だ。
これは、基準点の座標が刻まれた標柱だ。
かつて、この石碑は正確な座標を刻んでいた。世界を測るための基準点として、ここに設置されていた。だが、今、その座標は狂っている。千年の間に——あるいは何らかの力によって——刻まれた数値と実際の座標がずれてしまった。
そして、そのずれが周囲の座標系を引きずり、歪みを生み出している。
測は石碑に手を触れた。
冷たい石の表面。その下から、かすかな振動のような——いや、鼓動のような——ものを感じる。
この石碑は、まだ生きている。
「直せるかもしれない」
測は呟いた。
刻まれた座標を、正しい値に修正すれば——この石碑を、再び正確な基準点として機能させれば——周囲の歪みは収まるはずだ。
だが、どうやって?
石碑の素材は固い。鉄製の工具でも、文字を削り直すのは困難だろう。そもそも、正しい座標値を知る必要がある。
測は「絶対座標認識」を起動した。
石碑の位置を、自分の基準点から測定する。数値が視界に浮かぶ。
《X 2847.1、Y 156.0、Z 34.2》
この座標を、石碑に刻み直せばいいのか?
だが、それは間違っている。測の基準点は、任意に設定した仮の原点だ。この世界本来の座標系とは関係がない。正しい修正を行うためには、この世界本来の基準点——原点——の座標を知る必要がある。
そして、その原点は、千年前に失われた。
「まずは、データを集めることからだな……」
測は石碑から手を離し、部屋を見回した。壁には、やはり何かの文字や図形が刻まれている。古代の測量士たちが残した記録かもしれない。解読すれば、失われた原点の手がかりが見つかるかもしれない。
だが、それは今日できることではない。
測は塔を降り始めた。
帰り道は、行きより楽だった。座標を信じて進めばいいということがわかっている。歪みに惑わされることなく、石段を一段ずつ降りていく。
塔の扉から外に出たとき、夕暮れの光が目を射た。
村長とボルガが、そこで待っていた。数人の村人も、遠巻きに様子を窺っている。
「生きて出てきたか」
村長は半ば驚き、半ば安堵した声で言った。
「ああ」
測は頷いた。
「塔の中に何があった」
「基準点だ」
「……何?」
「この世界を測るための、基準となる石碑がある。だが、それが狂っている。だから周囲の座標が歪んでいる」
村長は眉をひそめた。
「言っている意味がよくわからんが……」
「つまり、直せる可能性がある」
その言葉に、村長の目が見開かれた。
「本当か」
「本当だ。ただし、時間がかかる。調べることが山ほどある。そして——」
測は言葉を切った。
「協力者が必要だ」
────
その夜、測は村長の家に泊めてもらうことになった。
傾いた部屋の、傾いた寝台に横たわりながら、測は天井を見つめていた。木目が斜めに走っている。それが木の本来の模様なのか、建物の歪みによるものなのか、判断がつかない。
窓の外には、二つの月が浮かんでいた。
オレンジ色の大きな月と、青い小さな月。その二つが、薄い雲の合間から地上を照らしている。
異世界に転生した。
測量士として死に、測量士としてここに蘇った。
そして、この世界は座標を失っている。
偶然だろうか。いや——測は思った——偶然にしては出来すぎている。
自分がここに来たことには、何か意味がある。この世界の歪みを正すために、測量士としての知識と技術が必要とされている。そう考えるのは、傲慢だろうか。
だが、他に何ができる。
この世界で生きていくためには、何かをしなければならない。そして、自分にできることは、測ることだ。世界に座標を刻むこと。それが、境井測という人間の存在意義だった。
現世でも、そうだった。
トンネル工事現場で、地味な仕事を黙々と続けてきた。派手な仕事ではない。誰に褒められるわけでもない。だが、誰かがやらなければ、何も建たない。道路も、橋も、トンネルも。すべては正確な測量から始まる。
この世界でも、同じだ。
傾いた家々。逆流する井戸。崩れかけた城壁。すべては座標の歪みから生じている。その歪みを正せば、人々の暮らしは良くなる。
そのために、自分は何をすべきか。
まず、道具がいる。
測量には道具が不可欠だ。「絶対座標認識」のスキルがあるとはいえ、精度は現状で五センチ。建設測量には全く足りない。スキルのレベルアップによって精度が向上する可能性はあるが、それだけに頼るのは危険だ。
物理的な測量機器を作る必要がある。
トータルステーションは無理だ。光学レンズ、精密な回転機構、電子計測装置——この世界の技術レベルでは再現できない。
だが、もっと原始的な機器なら可能かもしれない。セオドライト(経緯儀)の原型であるアストロラーベは、古代ギリシャで発明された。水準儀は、水の入った管があれば作れる。距離測定は、鎖や紐でも代用できる。
この世界の技術レベルを確認し、利用できるものを探す。それが最初のステップだ。
次に、協力者がいる。
測量は一人ではできない。ポールマンが必要だし、記録係も必要だ。何より、この世界の言語や習慣を知る案内役が必要だ。
そして——
リーネという名前が、測の脳裏をよぎった。
村長が言っていた。明日、辺境伯家からの視察団が来ると。その中に、地図師の家系に生まれた若い女性がいると。
地図師。
この世界にも、地図を作る職業は存在するらしい。ただし、正確な測量ができないため、その地図はほとんど役に立たないという。
だが、地図師であれば、少なくとも測量の概念は理解できるはずだ。協力者として適任かもしれない。
測は目を閉じた。
明日、視察団と会う。その中の地図師と話をする。この村の歪みを直す計画を、具体的に立て始める——
思考がゆっくりとまどろみに沈んでいく。
傾いた部屋の中で、異世界の夜が更けていった。
────
翌朝、測は鶏の声で目を覚ました。
窓から差し込む朝日は、この世界でもオレンジ色だった。太陽は一つ。二つの月は既に沈んでいる。
朝食は、村長の家で振る舞われた。黒パンとチーズ、そして薄いスープ。質素だが、空腹には染みた。
「視察団は昼前に着くだろう」
村長は言った。
「辺境伯様は来ないが、その娘御が代わりに来る。リーネ様という方だ」
リーネ。
地図師の家系の女性。測は期待を込めて頷いた。
午前中、測は村の中を再び歩き回った。
昨日の測定データを元に、歪みの分布図を頭の中で作成していく。塔を中心として、同心円状に歪みが広がっている。だが、完全な円ではない。北西方向に歪みが強く、南東方向は相対的に弱い。
この非対称性には、何か理由があるはずだ。
地質構造か。あるいは、別の基準点の影響か。
「お前、朝から何をしている」
声をかけてきたのはボルガだった。昨日と同じ疑念の混じった表情で、測を見ている。
「測っている」
「何を」
「歪みを。この村のあらゆる場所の座標を測定して、歪みの分布を把握しようとしている」
ボルガは首を傾げた。
「そんなことをして、何がわかる」
「歪みのパターンがわかれば、原因を特定できる。原因を特定できれば、対策を立てられる」
「……お前の言うことは、いつも難しいな」
「すまない。できるだけ簡単に説明しようとしているのだが」
測は苦笑した。確かに、測量の概念を知らない相手に説明するのは難しい。
「例えば——」
測は地面に棒で図を描いた。
「ここに川があるとする。川上から水が流れてくる。だが、途中で何かが川をせき止めている。すると、水は溢れたり、別の方向に流れたりする」
「それはわかる」
「座標の歪みも同じだ。何かが『正しさ』をせき止めている。だから、周囲が歪む。そのせき止めているものを見つけて取り除けば、歪みは収まる」
ボルガは考え込むような顔をした。
「……なるほど。だいたいわかった気がする」
「本当か」
「いや、半分も分かっていない。だが、お前がやろうとしていることに意味があることは、わかった」
測は笑った。ボルガも、つられたように口角を上げた。
「お前、変なやつだな」
「よく言われる」
「だが、悪いやつではなさそうだ」
「ありがとう」
二人は並んで歩きながら、村の外れに向かった。そこには見張り台があり、遠くまで見渡すことができる。
視察団を迎えるためだ。
見張り台に登ると、草原が一望できた。昨日、測が目覚めた場所。そこから続く道が、村へと伸びている。
「あそこに見えるのが街道だ」
ボルガが指さした。
「あれを北に行くと、辺境伯様の城がある。南に行くと、隣国との国境だ」
「隣国?」
「アクアダクト王国という。運河で有名な国だ——いや、有名だったと言うべきか。最近は運河が機能しなくて困っているらしい」
運河が機能しない。
測は興味を引かれた。水準の問題かもしれない。運河は、水が高いところから低いところへ流れる性質を利用する。水準測量ができなければ、正確な勾配設計は不可能だ。
「運河も、歪みの影響か」
「さあ。わしにはわからん。だが、この辺りの国はどこも同じような問題を抱えている。建物が傾く。道が曲がる。地図が当てにならない」
「千年間、ずっと?」
「ずっとだ。誰もどうにもできない」
だからこそ、解決できれば価値がある——
測がそう考えたとき、街道の向こうに土煙が上がった。
「来たな」
ボルガが言った。
馬車が近づいてくる。二台——いや、三台。護衛の騎兵も数名ついている。
辺境伯家の視察団だった。
見張り台を降り、村の入り口で出迎える。村長も既にそこにいた。正装——と言っても、いつもより少しきれいな服——に着替え、緊張した面持ちで立っている。
馬車が止まった。
最初に降りてきたのは、中年の男だった。秘書官か執事のような雰囲気。続いて数名の従者。
そして——
最後に降りてきたのは、若い女性だった。
栗色の長い髪を三つ編みにまとめ、青い目をきらきらと輝かせている。服装は質素だが品があり、腰には古い革製の筒——地図を入れるものだろう——を下げていた。
年齢は十八、九歳といったところか。
「リーネ様」
村長が深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました」
「村長、お久しぶり」
リーネと呼ばれた女性は、屈託のない笑顔で答えた。
「塔の様子を見に来たの。最近、傾きが酷くなっていると聞いて」
「はい、確かに。ですが、リーネ様、昨日、奇妙なことがありまして——」
村長はちらりと測を見た。
リーネの視線が、測に向けられた。
「この人は?」
「昨日、村に現れた旅人です。遠い国から来たと言っていて——測量ができると」
「測量?」
リーネの目が、瞬間的に鋭くなった。
「あなた、測量ができるの?」
「ああ。それが私の仕事だ」
測は率直に答えた。
リーネは数秒間、測を見つめた。品定めするような視線。だが、そこには敵意はなく、むしろ強い興味が感じられた。
「名前は」
「ハカル」
「ハカル……変わった名前ね。どこから来たの」
「遠くからだ。この土地の者には知られていない場所から」
「ふうん」
リーネは腕を組み、首を傾げた。
「あなたに、見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
「ついてきて」
リーネは踵を返し、歩き出した。従者たちが慌てて後を追う。測は村長と顔を見合わせたが、結局リーネの後を追った。
リーネが向かったのは、傾いた塔だった。
「昨日、この中に入ったそうね」
振り返らずにリーネは言った。
「誰から聞いた」
「村長から事前に報告を受けていたの。呪われた塔に入って無事に出てきた者がいる、と」
リーネは塔の前で立ち止まり、測を見た。
「中に何があった?」
測は少し迷ってから、正直に答えた。
「石碑があった。座標が刻まれた基準点だ。それが狂っていて、周囲の座標系を歪めている」
リーネの目が、わずかに見開かれた。
「座標系……」
「ああ。この村の歪みの原因は、あの石碑だ。正確には、石碑に刻まれた座標値が間違っていることが原因だ」
「どうすれば直せるの」
「正しい座標を刻み直せばいい——理論上は。だが、正しい座標を知るためには、この世界の原点を見つける必要がある」
「原点……」
リーネは深いため息をついた。
「やはり、そうなのね」
「何がだ」
リーネは腰の革筒を開き、中から巻物を取り出した。広げると、そこには古い羊皮紙に描かれた地図があった。
だが、それは普通の地図ではなかった。
同心円と放射線で構成された、幾何学的な図形。中心には、何かの記号が描かれている。そしてその周囲に、小さな文字で数値が書き込まれている。
「これは……」
「千年前の地図よ。私の家——カルトグラフ家——に代々伝わっている。『世界を測った者たち』の記録」
測は食い入るように地図を見つめた。
これは座標系の図だ。中心が原点で、同心円が距離を、放射線が方角を示している。極座標形式——いや、それだけではない。数値の書き込みは、何かの計算結果のようにも見える。
「読めるか」
「一部は。でも、大部分は読めない。文字が古すぎて」
リーネは測を見つめた。
「あなた、本当に測量ができるのね」
「ああ」
「どうしてわかるか、教えて」
「言われるまでもない。この地図は——」
測は言葉を切り、考えをまとめた。
「この地図は、座標系の投影図だ。中心が原点で、ここから世界各地の基準点までの距離と方角が記されている。書き込まれた数値は、おそらく網平均計算の結果だろう。複数の基準点を結ぶ測量網を構築し、誤差を最小化するための調整計算——」
「待って」
リーネが手を上げた。
「その説明、半分も理解できないわ。でも——」
リーネの目が、希望に輝いた。
「あなたが本物だということは、わかった」
「本物?」
「測り師の知識を持つ者。千年前に失われた技術を知る者」
リーネは地図を丁寧に巻き直し、革筒にしまった。
「私の家に来て。見せたいものが、もっとたくさんあるの」




