悠久 ―プロローグ
文明や国家には終焉が来る。
それは権力者の腐敗かもしれず、突然の天災かもしれない。あるいは安閑と続いた平和が暴力によって覆されたからかもしれないし、期待を集めた新技術が環境を破壊したせいかもしれない。いずれにせよ、一つの隆盛は終わりを迎える。
だが、生命は続くのだ。戦乱や革命を逃れて異国へ落ち延びる者や偶然の出来事で祖国の消失に巻き込まれずに済んだ人々も、また枚挙に暇がない。
リゼア系の終焉は思いがけなく、あっけないものだった。
もともとリゼア系の人類は短命な種だった。たいていの人は孫の顔を見ないうちに寿命が尽きたくらいなのだ。だから当初の彼らの科学は自分たちの寿命を延ばすことを目標にしていた。また短い寿命は精神的な成熟を必然的に急がせた。身体的な成熟に合わせてのんびり教育をしていたのでは、科学力の相対的な伸びは期待できない。今までの技術や知識を吸収しつくした後、数年で死んでしまうのでは新しい技術や学問を生み出す時間が足りなさすぎたのだ。子どもたちは歩き出す前に言葉を習得し、仲間と駆け回っておにごっこに興じる年齢には高度な数学が理解できることが求められた。脳の形成期にあたる乳児期からの超早期教育が当たり前になった頃、その過程で彼らはテレパシーの力を手に入れた。多くは親子間で、言葉に出さずに互いの意思の疎通ができるようになったのである。
そのうち特定の相手だけでなく広く大勢の人に発信する力があることがわかり、そのタイプのテレパシーに触れていくにつれ、自分でテレパシーの発信はできないが、他人のテレパシーは受け取ることができる人々が増えていった。「被感応時代」と呼ばれるこの過渡期はわずか2世代ほどで終わった。増え続けるテレパシーでの情報交換にさらされているうちに、ほぼすべてのリゼア系人類がテレパシーの力を持つようになったのである。
そこからは加速度的に能力の獲得と分化がおこった。筋力を越えるほどの物を動かしたり支えたりする力、テレキネシス。自分の足で走るより速い瞬間移動ができるテレポート。そして技術や観測だけでは説明のつかない予知能力。一人でいくつもの能力を発現する者も珍しくなかった。
同時に長寿化の新技術の研究も進んだ。環境の変化に強く組織の修復力が強い植物細胞をベースにした新しい人体に脳と意識を移行させる「新生命計画」、それは大いなる福音となり、平均寿命は十倍以上に伸びた。誰もがこの科学の勝利に酔い、新たな繁栄の時代が生まれることになった。
はずだった。
短くも濃密な人生が伝統だった人々は、あっという間に有り余る時間を持て余した。旧来ではおよそ不可能と考えられていた新たな芸術や技能が生まれ、もてはやされ、あっという間に飽きられて消えていく。その波の中で空っぽになっていく心と、短期間で結果を求めようとする旧来の行動様式が軋みを生んだ。
連鎖的に起こった環境破壊と、人生に希望を失った人々が自暴自棄になって起こす大量殺戮。大いなる自滅ともいうべき内戦がおこった。大地は荒廃し、自然は営みを狂わせた。
いくつかの都市に籠って、戦いを拒んだ人々だけが生き残ったのだった。彼らは思う。何がいけなかったのだろう。どうすればよかったのだろう。もはや思い出となってしまった故国の栄華を、科学技術、伝統文化、倫理や道徳などを、子供たちに語って聞かせながら、今度は失敗しない仕組みを考えなければ、と思う。すべてを失った自分たちより、新しい世代は希望を持って生きていってほしい。
だが、試行錯誤はもうたくさんだ。わずかな生き残りの人々まで失うことになっては元も子もない。実験室で小動物を相手に新薬を試すように、新しい社会の仕組みを、生き方をどこかで試すことはできないか? コンピュータのシミュレーションだけではなく、生きた検証をしなければ。例えば、まだ文明の黎明期にあるどこか別の世界で…
これが社会構築実験の始まりであり、神々の星リゼアの出発点だった。