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ギロチンを止めろ!

──夢の中で何度も見た風景が、現実となって目の前に広がる時。


それは旅ではなかった。


ただの歴史探索でもない。


マリーとアイネは、いまや自らの意志で、“あの時代”に足を踏み入れた。


ギロチンの影が忍び寄るフランス革命の夜。


すべてを失ったはずの王妃と、すべてを音に託した音楽家の魂が、

二度目の人生で出会い直す。


愛は過ちを赦し、音楽は記憶を解き放つ。


そしてふたりはまだ知らない──


この過去には、彼らを止めようとする“革命の亡霊”が待ち受けていることを。



黄金の光がマリーとアイネを包み込んだ瞬間、二人の意識に激流のような記憶が流れ込んだ。


## マリーの覚醒

「あ……ああ……!」


マリーの脳裏に、鮮明な記憶が次々と蘇る。ヴェルサイユ宮殿の華麗な広間、プチ・トリアノンの愛らしい庭園、子どもたちの笑い声、そして——牢獄の冷たい石壁、民衆の怒号、ギロチンの影。


「私は……マリー・アントワネット……オーストリアから嫁いできた王妃……愛する夫ルイと、可愛い子どもたち……」


18世紀フランス王妃としての14年間の記憶が、現代の雪村真理絵の記憶と融合していく。二つの人生が一つになり、彼女の魂は完全性を取り戻した。


「子どもたち……マリー・テレーズ、ルイ・シャルル……今度こそ、必ず守る……!」


##アイネの覚醒


同時に、アイネの心にも鮮烈な記憶が蘇った。


「これは……僕は……」


ウィーンの宮廷、燭台の灯り、貴族たちの優雅な舞踏会。そして鍵盤の前で演奏する自分——金髪の少年音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。


「僕は……モーツァルト……」


神童と呼ばれた日々、音楽への純粋な愛、そして何より——美しい王妃への秘めた想い。幼い頃にプチ・トリアノンで出会い、「大きくなったら僕のお嫁さんに」と約束したあの日の記憶。


「マリー……君だったんだ……ずっと探していた人は……」


二人の前世の記憶が完全に蘇ると同時に、18世紀フランス語も自然に口から出るようになった。魂に刻まれた言語、愛した人への想い、すべてが一つになって彼らを満たしていく。


「Nous sommes enfin réunis(ついに再会できたのね)」


マリーが自然にフランス語で囁くと、アイネも微笑んで答えた。


「Oui, ma chérie. Cette fois, je vous protégerai(はい、愛しい人よ。今度こそ、あなたをお守りします)」


光の中で手を取り合う二人。過去と現在、王妃と音楽家、雪村真理絵とヴォルフ天出——すべての記憶と愛が一つになった瞬間だった。


黄金の光が収束し、次の瞬間、マリーとアイネの足元に柔らかな風が吹いた。


 目の前の光景が、ゆっくりと変わっていく。


 石造りの通り。煤けた空。馬車の轍。ざわめく民衆の声と、どこか遠くで響く鐘の音。空気は重く、硝煙と汗、そして恐怖の匂いが混じり合っていた。


 「......ここが......1793年、パリ......」


 マリーは唇を噛み締めた。目の前には、記憶と夢で何度も見た、あの光景が広がっていた。現実になった過去の世界。運命を変えるために戻ってきた、血塗られた革命の時代。


## コンシェルジュリー牢獄への潜入


 1793年パリ、コンシェルジュリー牢獄の地下。セーヌ川の霧が石壁を濡らし、遠くでギロチンの鈍い響きが空気を震わせる。牢獄の裏口は煤けた鉄格子で閉ざされ、腐ったパンと湿気の匂いが漂う。


 彼らは扉の前で足を止めた。鉄製の門の前には、酒臭い息をする中年の番人がひとり、椅子に腰掛けてうたた寝していた。


 マリーがそっと近づいて囁く。「どうするの? 開けてもらえなかったら......」


 アイネはジャケットの内ポケットから、小さなガラス瓶を取り出した。「カルヴァドス──ウィーンの土産物屋で見つけたんだ。飲ませるだけ飲ませてみよう」


 アイネは笑顔で番人に声をかけた。「Bonsoir, monsieur(こんばんは、ムッシュ)。夜勤、お疲れさま」


 その流暢なフランス語に、マリーは改めて驚いた。数時間前まで「サヴァ?」程度しか話せなかった彼が、まるで生まれながらのフランス人のように話している。


 番人はまどろみから目を覚まし、無言でこちらを睨んだ。警戒心を露わにしている。


 「これは、極上のノルマンディー産。寒い夜にはもってこいですよ」


 アイネが瓶の栓を開けて差し出すと、番人は少し眉をひそめながらも、香りに惹かれて一口、二口......そして三口目で顔が緩んだ。


 「Vous êtes des nobles?(お前たち、貴族か?)」番人が疑わしそうに尋ねた。


 「Non, monsieur. Nous sommes juste des gens ordinaires qui cherchent la vérité.(いえ、ムッシュ。私たちはただ真実を求める普通の人々です)」


 アイネの返答は自然で、18世紀の言い回しまで完璧だった。マリーは心の中で感嘆した。これが前世の記憶の力なのだと。


 「......会いたいんだな、勝手にしろ......見なかったことにしてやる......」


 番人が扉の錠を外した。


## 子どもたちとの再会


 薄暗い牢獄の奥、青白い月光が石床を照らす。小さな影が二つ、寄り添うように座っていた。マリー・テレーズ(14歳)とルイ・シャルル(8歳)が震えながら、すすり泣いている。


 「......マリー・テレーズ......ルイ......!」


 マリーは扉に駆け寄り、格子越しに顔をのぞかせた。愛する我が子たちの姿を目にした瞬間、胸が張り裂けそうになった。


 青白い光の中、小さな身体が二つ、寄り添って震えていた。


 「......ママン......?」


 マリー・テレーズが顔を上げ、困惑したような表情でマリーを見つめた。


 マリーの目から、再び涙があふれた。


 「ママンよ。今度は......絶対に、あなたたちを守る」


 その声に応えるように、アイネが鍵盤型の小さな音具を取り出し、そっと演奏を始める。子守唄のような、優しい旋律が牢獄に響いた。


 その音に反応するように、牢の錠がかすかに光を放ち、カチリと外れる。


 子どもたちは、扉の前に立つマリーをじっと見つめた。


 「......あなた、だれ......?」


マリー・テレーズがルイを守るように前に出る。


 マリーはポケットからハンカチを取り出しながら、静かに語りかけた。


 「ルイ、あなたまだ夜中に親指をしゃぶる癖があるでしょう? そしてマリー・テレーズ、あなたは小さい頃、お人形のシャルロットを抱いて眠るのが好きだったわね」


 子どもたちの目が驚きで見開かれる。


 そして、マリーは特別な子守唄を歌い始めた。プチ・トリアノンの夜、母親だけが知っている秘密の歌。


 「Petit brioche, doux comme la lune... Ma petite étoile, mon cœur, ma fortune...(小さなブリオッシュ、月のように優しく...私の小さな星、私の心、私の宝物...)」


 マリー・テレーズの目が涙で潤み、「ママン......その歌......」と震え声で呟いた。


 「ママン! ママン!」


 子どもたちが駆け寄り、マリーの腕の中に飛び込んだ。


 「よく頑張ったわね......! もう大丈夫......!」


 アイネは見守りながら、言った。「さあ、急ごう。でもこのままじゃ、子どもたちはすぐに見つかってしまう」


 マリーは周囲を見回し、牢の奥にあった古い修道服を見つけた。


 「この道を抜ければ裏通りに出られる。そこから辻馬車を拾えば、間に合うはずだ」


 マリーは子どもたちに修道服を着せながら、その手を強く握った。「絶対に一緒に行く。今度こそ、みんなで」


## 処刑場への到着と状況の把握


 夜明け前のコンコルド広場。曇天の下、群衆の「裏切り者!」「王妃をギロチンに!」の叫びが響く。ギロチンの刃が朝霧に鈍く光る。曇り空の下、民衆のざわめきが波のように広がっていた。広場の中央には、巨大なギロチンがそびえ立ち、刃の下では処刑の準備が進められていた。


 その場に、震えるような足取りで連れてこられたのは──ルイ16世、そしてマリー・アントワネット。処刑人たちが無言で縄を巻き、群衆は「裏切り者!」「王妃を許すな!」と叫ぶ。


 マリーとアイネは群衆の後方から、その光景を見つめていた。


 「あそこに......」


 処刑台の上で、マリー・アントワネットがうつむいている。その姿は、かつての華麗さは失われ、痩せ細り、髪も白くなっていた。しかし、その瞳には諦めではなく、静かな尊厳があった。


## 群衆の心を動かす最初の試み


 「このままでは......」


 マリーは意を決して、群衆の中に足を踏み入れた。


 「お待ちください!」


 マリーの声が響くと、群衆の一部がざわめいた。


 「その処刑は、間違っています!」


 怒号が飛ぶ。「何を言うか!」「王妃の手先か!」


 だが、マリーは怯まなかった。


 「私は......未来から来ました。あなたたちの子孫です」


 群衆が一瞬静まる。困惑した表情を浮かべる者もいた。


 「未来では、王妃マリー・アントワネットが『パンがなければお菓子を食べればいい』などと言ったという話が伝わっています。でも、それは嘘です! 彼女はそんなことは言っていません!」


 群衆の中から、疑いの声が上がる。


 「証拠があるのか!」


 「言葉だけなら何とでも言える!」


 アイネが群衆に向かって語りかけた。


 「Mes amis, écoutez la musique de vos cœurs!(友よ、あなたたちの心の音楽に耳を傾けて!)」


 その美しいフランス語と、込められた真摯な想いが、群衆の心を揺さぶり始めた。言葉の壁がないことで、アイネの呼びかけがより深く人々の魂に届いた。


## アイネの音楽による感情の変化


 その時、アイネが群衆の中央に歩み出た。懐から鍵盤型の音具を取り出し、静かに演奏を始める。


 最初は『ラ・マルセイエーズ』の旋律。群衆の怒りと一体化するかのような力強い音。しかし、その旋律は次第に変化していく。


 レクイエムの深い祈りが重なり、子どもたちの子守唄が溶け込む。そして最後に、希望に満ちた明るい旋律へと昇華していく。


 群衆の怒声がその音に呑まれ、徐々に沈黙に変わっていく。


 音楽は言葉を超えて、人々の心の奥深くに届いた。憎しみよりも深いところにある、人間としての共感が呼び覚まされる。


## 一人ひとりの心の変化


 群衆の中で、一人の年老いた女性が涙を拭った。


 「この音......息子が戦争に行く前に、よく歌ってくれた子守唄に似ている......」


 若い母親が、自分の子どもを抱きしめながら呟く。


 「あの女性の目......母親の目だわ。私と同じ、子どもを想う母親の目......」


 中年の男性が、拳を下ろした。


 「俺たちは......何をしようとしているんだ? 人を殺すことで、本当に世界は良くなるのか?」


## 処刑台での対話


 やがて、処刑人が縄を下ろした。


 「......この音......これは、神の音だ」


 アントワネットが台から降り、マリーの手を取り、涙を流す。


 「......あなたは......」


 「私は......あなたの血を引く者です。未来から、あなたを救うために戻ってきました」


 アントワネットは困惑しながらも、マリーの瞳の中に自分と同じ母性を見つけた。


 「子どもたちは......マリー・テレーズとルイは......?」


 「安全な場所にいます。もう、誰にも引き離されることはありません」


## 群衆による自発的な変化


 群衆の中から、ひとりの老婆が前に出た。皺だらけの顔に涙を流しながら。


 「......もう、こんなもの、要らない......」


 彼女が震える手でギロチンの台に手をかけた瞬間、周囲にいた若者たちも動き始めた。


 「そうだ!」「この刃が何を救った!」


 怒りではなく、静かな涙と決意を湛えながら、民衆は次々と台に上がり、縄を解き、柱を倒していった。


 アイネの旋律が背景に溶けるように響くなか、ギロチンは民衆の手で静かに、しかし確かに解体された。誰かが囁いた。


 「革命に必要だったものは、もうここにはない」


 マリーは空を仰ぎ、小さく呟いた。


 「"マリー、ギロチンを止めろ!"──それが、今だったのね」


## 修道院への避難


 群衆が解体したギロチンの跡地を離れ、マリーとアイネはアントワネットとルイ16世、そして子どもたちを馬車に乗せた。


 「ここからそう遠くない場所に、かつて我々を匿ってくれた修道院がある。そこなら、安全に過ごせるはずだわ」


 アントワネットがそう語ると、アイネがうなずいた。「目立たないように行こう。まだ何が起こるかわからない」


 やがて一行は、森に囲まれた小さな石造りの修道院へと到着した。


 門をくぐると、老いた修道士が静かに彼らを迎え入れた。


 「あなたたちは、守られるべき人々だ。どうかここで、新しい日々をお過ごしください」


 アントワネットはマリーの手を取り、深く頷いた。


 「あなたが、私たちを導いてくれたのね。未来の娘よ──ありがとう」


 マリーは涙をこらえて微笑み、「生きて......家族で......幸せになってください」と言った。


## 現代への帰還


 そのとき、空がふたたび光に包まれ始める。


 「......時間が来たみたいね」


 マリーとアイネは東京の礼拝堂を強く念じた。


 まばゆい光が再びふたりを包み込み、次に目を開けたときには、ノートルダムの静寂な礼拝堂に戻っていた。


 ステンドグラス越しの朝日が、静かに彼らを照らしていた。


 「......戻ってきたんだ」


 アイネは少し息を整えながら笑った。そして試しに口を開いてみた。


 「あれ......」


 フランス語が出てこない。頭の中にあったはずの18世紀の記憶も、急速に薄れていく。


 「やっぱり、一時的だったんだな」


 アイネは少し寂しそうに笑った。


 「でも、あの体験は忘れない。前世の自分と現在の自分が、一つになった感覚......不思議だったけど、なんだか懐かしかった」


 マリーは頷いた。「私も同じよ。母親としての記憶、子どもたちへの愛......それが現在の私を支えてくれた」


 マリーは手のひらを見つめた。そこには、マリー・テレーズの小さな手が最後に握り返してきた感触が、まだ残っていた。


 神父ピエールが静かに近づいた。その顔には、深い安堵の表情が浮かんでいた。


 「あなたたちは、預言者エリアスの予言を成就させた。800年間待ち続けた『愛による歴史の癒し』を実現したのです」


 マリーはうなずき、アイネの手を取りながら、ゆっくりと立ち上がった。


 「『アニマ・クリスタルス』は、その使命を終えました。マリー・アントワネットの魂が平安を得た今、時の門が再び開くことはないでしょう」


 神父は静かに続けた。


 「マスター・アルケミウスは知っていたのです。この門は一度だけ、真の愛のために開かれると。そして愛によって歴史が癒されたとき、永遠に封印されると」


 「時の守護者たちの長い使命も、今日をもって完了です。マダム・クロノも、安らかに眠ることができるでしょう」


 「未来を変えるのに、特別な力はいらない。必要なのは、信じる心と──愛」


 アイネは微笑んで言った。


 「それに、音楽もだね」


 ふたりの笑い声が、朝の光に溶けていく。


 礼拝堂の外では、春の風が新しい一日を告げていた。


## エピローグ:新しい季節


 更に数ヶ月後。東京・渋谷のライブハウス。


 ライブハウスは、熱気と期待に満ちていた。薄暗い照明の下、観客のざわめきが波のように揺れる。司会者の声が響く。


 「次の出演は、話題の即興ピアニスト、アイネ!」


 拍手が沸き起こり、アイネ──日本とオーストリアの血を引くハーフの青年──がステージに姿を現した。くしゃっとした髪とカジュアルなシャツが、表参道のストリートピアノを弾いていた彼のままだった。


 ピアノの前に座り、軽く鍵盤に触れる。会場が静まり返る。


## トニオの複雑な心境


 その時、会場の後ろ、薄暗い壁にもたれるように立つ男がいた。トニオ。クラシック音楽界の重鎮は、普段こんな雑多なライブハウスには足を踏み入れない。だが今夜、彼の目はアイネを捉え、まるで古い傷が疼くように揺れていた。


 トニオは腕を組み、複雑な表情でステージを見つめていた。ここに来た理由を、彼自身もはっきりとは理解していなかった。ただ、マリーのコンテストで感じたあの疑問が、心の奥でくすぶり続けていたのだ。


 「なぜ俺は、ここにいるのだろう......」


 3年前のあの屈辱的な敗北。それ以来、アイネの名前を聞くたびに湧き上がる複雑な感情。憎悪、嫉妬、そして......説明のつかない何か。


 アイネの指が動き出す。『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の軽やかな旋律が流れ、すぐに彼の魂が解き放たれる。モーツァルトの明るさに、日本のわらべ歌「さくらさくら」の断片が溶け合い、さらにはレクイエムの深い祈りが重なる。


 それは楽譜に縛られない、ウィーンの宮廷と表参道の風を織り交ぜた音だった。観客は息をのむ。どこか懐かしく、誰も聴いたことのない旋律が、会場をブリオッシュの香りのように包んだ。


## 過去の記憶との対峙


 舞台袖では、マリーが静かに見守っていた。彼女の瞳には、プチ・トリアノンの記憶──子どもたちの笑い声、桜の刺繍──がよみがえる。アイネの音は、彼女が「時の門」で救った歴史の続きだった。


 トニオは唇を噛んだ。彼の耳に、アイネの音はまるでウィーンの古い劇場で聴いたあの天才の旋律のように響く。


 その瞬間、トニオの脳裏に突然、説明のつかない記憶が蘇った。18世紀ウィーンの宮廷。華麗な衣装、燭台の灯り、そして......金髪の青年が軽やかにピアノを弾く姿。その青年の音楽に、自分が心の奥で激しく嫉妬している記憶。


 「まさか......これは......」


 トニオは額に手を当てた。それは夢でも幻でもなく、魂の深奥に刻まれた記憶だった。自分がアントニオ・サリエリだった時代の、生々しい感情の記憶。


 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。神に愛された天才。そして自分は、努力しても努力しても、その天才性には決して届かなかった宮廷音楽家。


 「なぜだ......なぜ、お前の音はいつもこうだ。楽譜も規範も無視して、魂だけで心を奪う。かつて、ヴォルフガングが私の努力を無に帰したように......神はまた、お前を選んだのか?」


 現代のトニオと18世紀のサリエリ。時代を超えて繰り返される、同じ苦悩、同じ嫉妬、同じ絶望。運命は彼を、再び天才の前に立たせたのだった。


 彼の脳裏に、あの日の記憶が鮮明に蘇った。


 コンクールの結果発表。「優勝者はヴォルフ天出」と告げられた瞬間、トニオの世界は崩れ去った。技術的には完璧だった自分の演奏が、アイネの「不完全」な音楽に敗れた理由がわからなかった。


 「君の演奏は素晴らしかった」


審査委員長がトニオに言った。


「しかし、彼の音楽には......何か特別なものがあった。聴く者の心を動かす力が」


 その夜、トニオは一人でコンサートホールに残り、アイネが弾いたのと同じピアノに向かった。モーツァルトのK331を弾こうとしたが、指が震えて音にならなかった。


 「私の音楽は......何だったのだろう」


 それ以来、トニオは「完璧」を追求することで、あの屈辱を忘れようとしてきた。だが、アイネの音を聞くたび、あの日の敗北感が蘇った。


## 観客の純粋な感動


 アイネの演奏が最高潮に達する。音は、コンシェルジュリーの牢獄で子どもたちを救ったあの夜、ノートルダムの月光を再現するかのように輝く。観客は立ち上がり、拍手が嵐のように響く。


 その瞬間、トニオの心に変化が起きた。


 観客の顔を見回すと、そこには純粋な感動があった。年配の男性が涙を流し、若い母親が子どもを抱きしめている。中学生らしい少年が目を輝かせ、OLらしい女性がハンカチで目頭を押さえている。誰もが、音楽によって心を動かされていた。



 「これが......音楽の本当の力なのか」


 トニオは愕然とした。彼らの表情には、コンクールの審査員が見せるような専門的な評価ではなく、もっと素直で、もっと人間的な何かがあった。


## 心の扉が開かれる瞬間


 一人の老人が立ち上がり、震える声で「ブラボー!」と叫んだ。その声に触発されるように、会場全体が温かい拍手に包まれた。


 トニオは一瞬、目を閉じた。サリエリがかつてモーツァルトの『レクイエム』を聴き、嫉妬と感嘆に震えたように、彼の心も揺れていた。


 「そうか......俺は、またあの時と同じことを繰り返していたのか」


 18世紀の宮廷で、サリエリとして感じた屈辱と嫉妬。そして現代で、トニオとして味わった同じ感情。魂は記憶していたのだ。時を超えて繰り返される、天才への憧憬と絶望を。


 だが今度は、嫉妬よりも理解が勝った。前世での過ちを、今度こそ乗り越える時が来たのだ。


 「私は......技術を愛していたのであって、音楽を愛していたわけではなかったのかもしれない」


 アイネの音楽は確かに「不完全」だった。楽譜通りではないし、時には音を外すこともある。しかし、そこには生きた魂があった。聴く者の心に直接語りかける、温かい何かがあった。


 トニオの心に、3年前のあの夜の記憶が別の角度から蘇った。審査委員長の言葉:「彼の音楽には何か特別なものがあった。聴く者の心を動かす力が」


 今なら、その意味がわかる気がした。


 「心を動かす力......それが、私には足りなかったのか」


## マリーとの視線の交錯


 その時、トニオの視線がマリーと交錯した。彼女の穏やかな微笑み──それは、ギロチンを止めた女の強さと優しさを湛えていた。


 マリーの瞳には非難も勝ち誇りもなく、ただ深い理解があった。まるで、トニオの苦悩を全て受け入れてくれるような温かさがあった。


 「彼女も......『型破り』で勝った。だが、あの時の審査員の顔......あれも、今日の観客と同じだったのではないか」


 マリーのブリオッシュを味わった審査員たちの表情を思い出す。そこにあったのは、技術への感嘆ではなく、心からの喜びだった。


## 悟りと解放


 「......認めざるを得ん。お前の音は、歴史すら動かす」


 トニオの声は小さく、観客の拍手に掻き消される。だがその言葉には、長年の重荷──いや、前世から背負い続けた重荷が解かれたような軽やかさがあった。


 「サリエリとして生きた時も、トニオとして生きた今も......私は何年も、間違った山を登っていたのかもしれない。完璧な技術、完璧な解釈......それらは確かに大切だ。だが、それだけでは人の心は動かせない」


 魂の転生。運命の繰り返し。そして今、ようやく見つけた真実。天才を憎むのではなく、学ぶべきだったのだ。


 彼は静かに背を向け、ライブハウスの出口へ向かった。だがその足取りは、かつての敵意より軽く、どこか解放されたようだった。


 外に出ると、春の夜風が頬を撫でた。街の灯りが優しく、どこか新鮮に映った。


 「明日から......私も、違う音楽を探してみよう」


 トニオの心に、長い間閉じていた何かの扉が、静かに開かれた。


 「技術と魂......その両方があってこそ、本当の音楽なのかもしれない」


## ライブ後の静かな時間


 ライブの後、アイネとマリーが並んで歩いている。


 「アイネ......あの音、子どもたちにも届いたと思う?」


 アイネは汗をぬぐい、笑った。


 「届いたさ、マリー。ウィーンの宮廷も、プチ・トリアノンも、表参道のあの並木道も......全部、この音でつながってる」


 「あの子達、本当に可愛かった。きっと幸せになるわよね」


 マリーはアイネを見つめ、首を傾げながら言った。


 「ねえ、アイネ、私達、こっちでもあんな可愛い子どもたちを授かることができるかしら」


 アイネはドギマギとあらぬ方を見やり、顎を掻いていた。


 マリーはクスっと笑う。


 遠くにノートルダム寺院の鐘が響いたような気がした。


## 数日後の変化


 それから数日後、音楽業界に小さな変化が起きていた。


 トニオが、自身が主宰するクラシック音楽フェスティバルに、異例の決定を下したのだ。


 「今年は、『伝統と革新』をテーマに、新しい試みを取り入れます。若い音楽家たちに、既存の枠にとらわれない演奏の機会を提供したい」


 業界関係者は驚いた。あの完璧主義で知られるトニオが、「型破り」を認めるような発言をするとは。


 記者会見でトニオは、穏やかな表情で語った。


 「音楽の本質は、技術の完璧さだけではありません。聴く人の心に届く、生きた感動こそが大切なのです」


 その言葉を聞いたアイネは、表参道のピアノの前で小さく微笑んだ。


 「やっと、わかってくれたんだな......」


## 春の訪れ


 春が過ぎ、夏が来て、やがて新しい秋が訪れる。表参道の並木道では、今日もアイネが音楽を奏でている。通りすがりの人々が立ち止まり、その音に耳を傾ける。


 マリーは時々、ブリオッシュを焼いて彼のもとに持っていく。ふたりの間には、時を超えた絆が静かに育まれていた。


 遠いパリの修道院では、きっとあの家族が幸せに暮らしている。ギロチンの恐怖から解放され、子どもたちの笑い声が響いているに違いない。


 そして東京では、トニオが新しい音楽の世界を探求し始めていた。技術と魂、伝統と革新──その調和を求めて。


 歴史は変わった。愛の力で、音楽の力で、そしてブリオッシュの香りで。


 マリーとアイネは知っている。小さな愛が、やがて大きな奇跡を生むことを。


 そして今日も、表参道に優しい旋律が響いている。


**おわり**


---


***追記:ノートルダム大聖堂は、2019年4月15日に大規模な火災に見舞われた。原因は不明とされている。時の門がその後どうなったかはわかっていない。***


時の門は、記憶や想いの中ではなく、確かに現実に存在していた。


そしてそれは、選ばれた者だけに開かれる“祈りの道”だった。


マリーが目にしたプチ・トリアノンの庭、アイネが耳にしたかすかな鐘の音──


すべてが「ただの夢」ではなかったと証明された今、ふたりの旅は後戻りできない段階へと進んだ。


けれど、時を超えるということは、ただ過去に行くことではない。


それは、過去に“責任を持つ”ということ。


ふたりの前に現れるのは、かつての愛だけではない。


断罪、怒り、未解決の革命の業火──


その渦中に、ふたりの魂は何を見出すのだろうか。


この先に待つのは、過去の赦しと、未来の選択。



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