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コンテストへの道

──思い出せないのに、なぜか手が覚えている。


抹茶の香り、ふわりとふくらむ生地。


何度も作った覚えなんてないはずなのに、手は迷いなく動いていた。


まるで“記憶の奥”から、何かが浮かび上がってくるように。


それは偶然の特技ではない。


魂が忘れたくても忘れられなかった“日々”のかけら。


王妃が過ごした、あの穏やかな庭と焼きたての朝。


そして──守れなかった子どもたちの笑顔。


マリーはまだ気づいていない。


ひとつのコンテストが、過去と未来を結ぶ扉になることを。


昼下がり、大学構内のカフェテリア。柔らかな日差しが窓越しに差し込み、マリーは窓際の席でノートを開いていた。カップの中で紅茶の香りが立ち上る。彼女の前には語学の教科書が幾冊も積まれ、丁寧な字でびっしりと書き込まれた手書きのノートが広げられていた。


 窓の外では大学の中庭で学生たちが思い思いに過ごしている。新緑の木々が風に揺れ、平和で穏やかな午後の風景だった。


 「Salutサリュー!」


 明るい声と共に、マリーの友人ユミが滑り込んできた。肩まで届くボブカットの髪をゆらし、カジュアルなジーンズにカラフルなトップスという、いかにも現代的な女子大生らしい装いだった。手にはコーヒーカップと、今日買ったばかりらしいフランスのファッション雑誌を持っている。


 「ちょっと、やめてくれる?」


マリーは眉をひそめた。


「そんな下品な言葉遣い。ちゃんと"Comment allez-vous?(コマンタレヴー)"って言いなさい」


 マリーの声には、どこか年配の女性のような威厳が含まれていた。同い年の友人に対してとは思えないほど、格調高い物言いだった。


 「えーっ、マジメ〜。私、一応フランス文学科なんだけどなあ」


ユミは苦笑いしながらマリーの向かいに座った。


「そんなに堅苦しくしなくても」


 「なら尚更よ。『Salut』は親しい間柄で使うカジュアルな表現だけど、私はそういう雑なフランス語が嫌なの。言葉には品格というものがあるのよ」


 マリーは紅茶カップを持つ手にも上品さがにじみ出ていた。まるで幼い頃からこうした作法を身につけているかのように。


 「ふうん、でもパリだとみんな『サリュー』って言ってるけど。去年の交換留学でそう感じたし」


 「下品な流行に迎合する必要はないの。美しいフランス語には、それに相応しい話し方があるのよ」


 ユミは苦笑いして、隣に腰を下ろした。マリーのこういう一面は昔から知っていたが、時々まるで別の時代を生きているような印象を受けることがあった。


 「それはそうとさ、マリー。聞いた? フランス大使館主催の"ヴィエノワズリー・コンテスト"があるんだって。知ってた?」


 ユミは雑誌をぺらぺらとめくりながら、その記事を見せた。


 「ヴィエノワズリー......菓子パンの?」


 マリーの表情が少し和らいだ。お菓子やパンの話題になると、彼女の表情はいつも穏やかになる。


 「そう。マリーってよくブリオッシュ焼いて、私たちに持ってきてくれるじゃない? あれ、ほんっとに美味しいのよ。あの独特のふわふわ感と、バターの香り......市販品とは全然違うもの。あれで出てみたらどう? 絶対いけるって」


 ユミの目は真剣だった。マリーの作るブリオッシュは、学科の友人たちの間でも評判になっていた。レシピを聞かれても、マリーはいつも曖昧に微笑むだけで、具体的な作り方は教えてくれない。まるで企業秘密でもあるかのように。


 マリーは少し口を開きかけて、それから目を伏せて紅茶を一口飲んだ。カップを置く仕草にも、どこか上品さを感じさせる。


 「......私なんかが出ても......」


 「何言ってるの。あのふわふわの香り、あたし忘れられないもん。それに、マリーがブリオッシュを作ってる時の表情って、すごく幸せそうなのよね。まるで昔から慣れ親しんだもので遊んでいるみたい」


 ユミの言葉に、マリーは少し驚いたような表情を見せた。


 「そう......見える?」


 「うん。なんていうか、自然体っていうのかな。普段のマリーもお上品で素敵だけど、お菓子を作ってる時は違う。もっと......解放されてるって感じ」


 しばらく沈黙が流れた後、マリーはようやく小さく笑った。


 「......そうね。ちょっとだけ、やってみようかしら」


 「それでこそマリー!」ユミは拍手した。「私、応援に行くから! きっと優勝できるよ」


 マリーの瞳の奥で、小さな光が揺れていた。どこか懐かしい香りを胸に、彼女は未来へと一歩踏み出そうとしていた。不思議なことに、コンテストという言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さな鐘が鳴ったような気がしたのだった。


---


 その年のヴィエノワズリー・コンテストは、フランス大使館の後援のもと、表参道の有名パティスリー協会主催で開かれることになっていた。参加者はプロ・アマ問わず、テーマは「日本とフランスの融合」。優勝者にはウィーン・パリ旅行が贈られ、その作品は現地パリの老舗ブーランジュリーにも展示されるという、なかなか豪華な賞品だった。


 コンテスト開催が近づくにつれ、マリーは毎日のようにキッチンに立った。抹茶を使ったブリオッシュ、桜を使ったもの、そして最終的に辿り着いたのは抹茶と桜の花の塩漬けを組み合わせたレシピだった。


 不思議なことに、レシピを考える時、マリーの頭の中には自然と手順が浮かんだ。まるで昔から何度も作っているかのように。手の動きも滑らかで、生地の捏ね具合や発酵の見極めも、経験に裏打ちされたもののようだった。


 「本当に初めて作るの?」とユミが聞いたこともあったが、マリー自身にもよくわからなかった。


 当日、表参道のガラス張りのイベントスペースには、全国から選ばれた若きパン職人たちが集まり、自慢の作品を並べていた。プロの職人から料理学校の学生、主婦まで、様々な背景を持つ人々が参加していた。会場は芳しいバターの香りに包まれ、数人の審査員たちが鋭いまなざしで作品を審査していた。


 審査員には、フランスから招かれた有名パティシエのアンリ・デュボワ氏、日本のフランス菓子界の重鎮である田中シェフ、そして料理研究家の山田たかし氏の三名が並んでいた。


 マリーは、真っ白なエプロンに身を包み、抹茶ブリオッシュをそっと台に置いた。その色合いは深い緑に艶やかな焼き色、中心には桜の花の塩漬けがそっと添えられている。見た目にも美しく、会場の注目を集めていた。


 「見た目はいいな......あとは味だ」


 フランス人審査員がつぶやき、ナイフを入れる。切り口からふんわりと湯気と抹茶の香りが立ちのぼった。生地の断面は美しく、気泡も均等で、職人技を感じさせる仕上がりだった。


 ユミは観客席から身を乗り出して手を振っていた。


 「マリー、がんばれーっ!」


 マリーは、やや緊張した面持ちで軽くうなずいた。しかし、不思議と緊張の中にも落ち着きがあった。まるでこういう舞台に慣れているかのように。


## トニオとアイネの因縁


 その時──会場の後方で腕を組んで見ていた男がいた。それは、左里江斗仁夫トニオだった。音楽界の有名人で、こうしたイベントには好んで顔を出す。今回もフランス文化に関連するイベントということで招待されていたのだった。彼の鋭い視線は、まるで獲物を狙う鷹のようだった。


 そこへ、カジュアルなシャツに革のリュックという出で立ちの青年が、息を弾ませながら駆け込んできた。


 「......間に合った......!」


 アイネだった。彼は先週マリーから、コンテストのことを聞いていたのだった。


 「アイネ!」とマリーが驚くと、彼は人混みをかき分けて彼女のもとへ来た。


 だがその途中、アイネとトニオの視線がぶつかる。空気が一瞬張り詰めた。


 左里江斗仁夫トニオ──彼は日本のクラシック音楽界では知らぬ者のない存在だった。厳格な音楽教育を受け、完璧な技術と深い楽曲理解で数々の賞を受賞してきた。しかし、彼の音楽人生には一つの大きな挫折があった。


 3年前の「国際青年音楽家コンクール」。トニオは優勝候補筆頭として注目を集めていた。モーツァルトのピアノソナタK331を完璧に演奏し、審査員たちからも絶賛されていた。


 だが、最後に現れたのがアイネだった。


 「ヴォルフ天出......お前の音はいつも私を苛立たせる。楽譜を無視し、自由だの魂だのと軽々しくまき散らす。だがな、才能など神の気まぐれだ。ウィーンの古い夜、選ばれた者だけが光を浴びた......私の努力は、いつもその影に埋もれた」


 トニオの声は低く、憎悪に満ちていた。過去の記憶が蘇ったかのように、その表情は歪んでいた。


 周囲のざわめきが一瞬遠ざかる。


 「ヴォルフ、3年前のコンテスト、覚えてるか? お前の型破りな演奏で審査員が二分された。クラシック音楽の伝統を冒涜するなと、会場が大騒ぎになった」


 あの日、アイネは同じモーツァルトのK331を選んだ。しかし彼の演奏は、楽譜から大きく逸脱していた。第一楽章の主題に日本の童謡「さくらさくら」の旋律を織り込み、第三楽章では即興のカデンツァを長々と展開した。


 会場は騒然となった。審査員の一人は「これはモーツァルトではない」と激怒し、別の審査員は「新しい音楽の可能性を感じる」と擁護した。観客も賛否両論に分かれ、まさに会場が真っ二つになった。


 「もちろん、覚えているさ。君が"こんな演奏はモーツァルトへの冒涜だ"って怒鳴ったのもね」


 アイネの声は静かだが、毅然としていた。


 トニオの口元が歪む。


 「あの一件で、俺の推薦で入れるはずだった音大も、舞台も全部ダメになったよな。即興屋なんて信用できるかってな。君のせいで私の人生設計まで狂った」


 実際、あの騒動の後、保守的な音楽界はアイネを警戒するようになった。同時に、「型破りな演奏を許可した」として、推薦者や関係者への風当たりも強くなった。トニオが師事していた教授も、この件で音楽界での立場を悪くし、トニオへの推薦を取り消さざるを得なくなった。


 「でも、あれが"俺の音楽"なんだ。誰かの焼き直しじゃない、俺の魂の音だよ」


 アイネの言葉には揺るぎない信念があった。


 「魂......」トニオは苦々しく呟いた。「私は20年以上、毎日8時間の練習を続けた。楽譜を完璧に暗記し、歴史的背景を研究し、演奏技法を磨き上げた。それが、君の一晩の思いつきに負けるのか?」


 「思いつきじゃない。俺なりにモーツァルトを愛してるんだ。ただ、愛し方が君と違うだけ」


 トニオは目を細めてマリーに視線を向けた。


 「真理絵君、君の抹茶ブリオッシュも同じだ。即興の気まぐれに伝統を穢すなら、歴史の舞台に立つ資格はない。私の名にかけて、それを許さん」


 その言葉を聞いた瞬間、マリーの表情が変わった。まるで何かが内側から覚醒したかのように。


 「あなたのことを存じあげないけれど、私、彼の演奏が好きなの。あなたがどう思おうと関係ないわ。そして、私のブリオッシュを気まぐれなどと呼ぶのは心外です」


 静かながらも毅然とした声に、会場の空気が少し張り詰めた。マリーの声には、普段の穏やかさとは違う、強い意志が込められていた。


 トニオは鼻で笑って背を向けた。


 「君もせいぜい"独創的"なブリオッシュで勝てるといいな」


## コンテスト結果発表


 やがて、会場にファンファーレのような効果音が鳴り響き、司会者が壇上に現れた。


 「皆さま、大変お待たせしました! 審査員の皆様による厳正な審査の結果が出ました。それでは、ヴィエノワズリー・コンテスト2025、栄えある優勝者の発表です!」


 会場が静まりかえり、出場者たちが息をのむ。マリーも手を組み、静かに結果を待った。


 「審査員団の総意により──エントリーナンバー27番、『抹茶と桜のブリオッシュ』......雪村真理絵!」


 一瞬の沈黙の後、拍手がどっと沸き起こった。


 マリーは目を見開いたまま立ち尽くしていた。信じられないという表情で、自分の耳を疑っているようだった。


 「マリー! すごいよ、やったじゃん!」


 ユミが叫び、アイネがそっと背中を押した。


 「行ってこい、優勝者」


 アイネの声は暖かく、誇らしげだった。


 壇上に立ったマリーに、審査員のフランス人パティシエがトロフィーと副賞のウィーン・パリ旅行券を手渡した。


 「あなたのブリオッシュには、"郷愁と革新"が共存していました。日本の抹茶とフランスの伝統、見事な調和でした。特に生地の食感が素晴らしい。まるで長年の経験を積んだ職人の作品のようでした」


 マリーは深くお辞儀をして答えた。


 「Merci beaucoup. Je suis très honorée.(本当にありがとうございます。とても光栄です)」


 その流暢なフランス語に、再び拍手が巻き起こった。


## トニオの心の変化の始まり


 表彰台の上で、マリーは無意識に胸に手を当てた。そこに、見えない何かが宿っているかのように。


 会場の後方で、トニオは一人立ち尽くしていた。マリーの勝利を目の当たりにして、彼の心は複雑に揺れていた。


 「また......『型破り』が勝ったのか」


 しかし、マリーのブリオッシュを一口味わった審査員たちの表情を見て、トニオは何かを感じ取った。そこには、技術への感嘆ではなく、純粋な喜びがあった。


 「もしかして、私が求めていたものは......」


 その疑問は、彼の心の奥に静かに根を張った。やがてライブハウスでの体験につながる、小さな種として。


 その瞬間、マリーの胸の奥に、かすかに鐘の音が響いた気がした。遠い昔、どこかで聞いたことがあるような......


 遠い過去の呼び声──


 「マリーよ、ギロチンを止めろ!」


 彼女にはまだ、その声の意味がわからなかった。だが心の奥で、何かが動き始めているのを感じていた。優勝の喜びの中にも、説明のつかない不安と郷愁が混在していた。


 表彰台の上で、マリーは無意識に胸に手を当てた。そこに、見えない何かが宿っているかのように。



マリーが手にした“ブリオッシュの記憶”は、過去から届いた小さな手紙のようでした。


生地に触れる指先、立ち上る香り、焼き上がりの柔らかさ──それはすべて、かつて誰かを幸せにした日々の名残だったのかもしれません。


そして、その記憶は彼女だけのものではない。


食べた者の心まで温める、静かな祈りのようなもの。


それこそが、王妃マリー・アントワネットが最期まで忘れなかった“暮らしの愛”だったのかもしれません。


現代のコンテストが、やがて過去の世界へとつながっていく。


その最初の一歩を、マリーはすでに踏み出していたのです。

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