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ブリオッシュと、あの旋律

──あの日、ウィーンの宮廷で。幼いモーツァルトが、転びかけたマリー・アントワネットに手を差し伸べた。


「大きくなったら、お嫁さんにしてあげる!」


歴史にほんの一行だけ刻まれた、奇跡のような約束。


やがて二人は、革命と天才、それぞれの宿命に飲まれていった。


──そして現代、東京・表参道。


焼きたてのブリオッシュの香りと、どこか懐かしい旋律が、ふたりを再び引き寄せる。


ピアノを奏でる青年アイネ。品のある佇まいのマリー。


名前も知らないはずなのに、胸の奥で何かが震え始める。


それは偶然の出会いではない。


あの約束は、まだ終わっていなかった──。




 表参道の並木道。五月の穏やかな陽気に包まれた週末の午後、空気はバターとコーヒーの香りでふわりと甘い。新緑の若葉が風に揺れ、訪れる人々の顔も心なしか軽やかに見える。


 道端には、スーツケース型のキーボードが置かれていた。黒い本体には小さな傷がいくつも刻まれ、長年の愛用を物語っている。


 その前に立つ青年が、どこかクラシックなのに軽やかな旋律を奏でている。肩まで伸びたブロンドの髪が風に揺れ、薄いグリーンがかった瞳が遠くを見るように輝く。ハーフらしい繊細な顔立ちに、グレーのニットとダークブルーのジャケットが似合っていた。指先は鍵盤の上を踊るように動き、まるで楽器と会話をしているかのようだった。


 通り過ぎる人々が振り返り、スマホをかざし、立ち止まって静かに耳を傾ける者もいる。中には楽譜を思い浮かべながら口ずさむ老紳士もおり、小さな子どもが母親の手を引いて近づいてくる姿も見えた。


 「……アイネ・クライネ・ナハトムジーク?」


 ひとりの若い女性が呟いた。ブリオッシュ色の髪は肩口で軽くカールし、透き通るような白い肌に映える。白いワンピースが柔らかく揺れ、小さなバスケットバッグを提げた彼女は、まるで絵画から抜け出したような上品な美しさを湛えていた。歩き方にも品があり、どこか古風な佇まいが印象的だった。


 演奏する青年の前に歩み寄ると、足元に置かれた帽子に硬貨を入れようとした。その手は細く白く、指先には小さな銀のリングが光っていた。


 その瞬間──


 「ありがとう……」と青年が礼を言いかけたそのとき、


 「……で? 私をお嫁さんにしてくれるっていう約束は、どうなったのかしら?」


 彼女の声は、まるで昔の夢をふいに思い出したように、ふわっとした空気を切り裂いた。声色には不思議な響きがあり、どこか遠い昔を懐かしむような、それでいて少し寂しげな調子だった。


 青年はピアノの音を止めて目を瞬いた。緑の瞳が驚きで大きく見開かれる。


 「……え? え? 僕たち……前から知ってた?」


 「えっ、あ、そうね。たぶん……初めて会うのよね。どうしちゃったのかしら、私……」


 彼女──マリーは、自分でも不思議そうに小首をかしげた。ブリオッシュ色の髪がさらりと揺れ、困惑した表情が浮かぶ。まるで夢から覚めたばかりのような、現実と幻想の境界が曖昧な状態だった。


 「……なんだか、デジャヴ? でも、ただのデジャヴじゃないの。もっと……具体的で、鮮明で……」


 マリーは自分の手のひらを見つめ、そこに何かの記憶が刻まれているかのように指先でなぞった。


 青年は一度まばたきをしてから、笑った。その笑顔は暖かく、少し照れたような愛らしさがあった。


 「まあ、でも面白い出会いだね。じゃあ改めて、自己紹介させてよ。ボクはヴォルフ天出あまでっていうんだけど、アイネって呼ばれてる。モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が大好きで、よく演奏してるから、そんなふうに呼ばれてるんだ。この曲を弾いてると、なんだか心が軽やかになるんだよね」


 「マリーよ。真理絵って書くけど、通っている教会のフランス人の神父さまが"マリー"って呼んでくれて、それがいつの間にか定着しちゃったの。Enchantéeアンシャンテ


 マリーの口から出たフランス語は流暢で、まるで母国語のようだった。しかし彼女自身が驚いたような表情を見せる。


 「おっ、フランス語? サヴァ?」


 アイネの発音はたどたどしく、学生時代に習った程度のものだった。


 マリーは小さく笑いながらも、すぐに顔を少し曇らせた。笑顔の奥に、説明のつかない影が差す。


 「そうね……だけど、あまり得意じゃないの。英語とドイツ語なら話せるんだけど、フランス語は……なんだか、勉強する気になれないのよ。理由がわからなくて、自分でも不思議なの」


 「へぇ、どうして?発音は完璧に聞こえるけどね」


 マリーは答えに詰まり、視線をそらす。遠くの空を見上げ、そこに何かを探すような眼差しだった。しばらく沈黙が流れた。周囲の雑踏の音が、かえって二人の間の静寂を際立たせる。


 「……子どもの頃から、なんとなく……フランス語の音を聞くと、胸の奥がざわつくの。理由はわからないけど、悲しい夢ばかり見るのよ。古い石の建物の中で、誰かを待っていて……そして、鐘の音と一緒に、誰かが去っていく背中を見ていた──白いドレスの裾が冷たい石の床を擦る音が、まだ耳に残っているの……」


 マリーの声は次第に小さくなり、最後はほとんど独り言のようになった。その表情には深い悲しみと、それ以上に大きな困惑があった。


 「それに……時々、夢の中で誰かが叫んでいるの。『マリーよ、ギロチンを止めろ』って。ギロチンなんて、歴史の教科書でしか見たことがないのに……なぜそんな言葉が夢に出てくるのかしら」


 そこで言葉が途切れた。彼女の表情には、自分でも説明のつかない感情が浮かんでいた。


 「……ごめんなさい。変なこと言っちゃった。初対面の人に、こんな話をするなんて……」


 「ううん、全然。むしろ……引き込まれる話だよ」


 アイネは静かに言い、そして暖かい笑みを浮かべた。その瞳には、マリーの言葉を真剣に受け止める優しさがあった。


 「ボクも、時々不思議な夢を見るんだ。宮殿のような大きな部屋で、誰かのためにピアノを弾いている夢。でも顔は見えないんだよね、その相手の。ただ、とても大切な人だったっていう感覚だけが残ってる」


 マリーの目が少し大きくなった。


 「じゃあ、トレビアン、ってことでいいかな?」


 アイネのちょっとした茶目っ気に、マリーもまた微笑み返した。


 「認めてあげる。あなたのピアノも、なかなか……心に響くわ」


 その瞬間、風が吹き抜け、どこからか焼きたてのブリオッシュの香りが漂ってきた。近くのパティスリーから流れてきたのだろう、バターと小麦の甘い香りが二人を包んだ。


 マリーは立ち止まる。その香りに、何かが呼び覚まされたように。


 「……あの香り。隠れ家みたいな屋敷の裏庭、美しい花壇、子どもたち……みんな笑っていて、私も一緒に……でも、それがいつの記憶なのか、どこの記憶なのか……」


 マリーは額に手を当て、困惑した表情を見せた。


 「え?」


 「……ううん、なんでもないわ。きっと昔読んだ小説の一場面を思い出しただけよ。次の曲、聴かせて」


 アイネは何かを感じ取ったようだったが、黙って頷き、再び指を鍵盤へ置いた。


 今度は『エリーゼのために』を選んだ。優雅で少し切ない旋律が、夕暮れ時の表参道に響く。マリーはその音色に耳を傾けながら、なぜか涙がこぼれそうになった。


 どこか懐かしく、どこか哀しく、それでもどこまでも優しい旋律が、ふたりの間に流れ始めた。夕暮れが迫る表参道で、運命の糸が静かに紡がれていく。


 周囲の人々も足を止め、この不思議な出会いを見守っているようだった。まるで時間が止まったかのような、特別な瞬間だった。


 マリーの心の奥で、小さな鐘が鳴っていた。まだ形にならない記憶の欠片が、アイネの音楽に呼び覚まされようとしていた。胸の奥深くから湧き上がる感情は、懐かしさと切なさと、そして説明のつかない愛おしさだった。


 演奏が終わると、マリーは静かに拍手をした。


 「素敵だったわ。また……聴かせてもらえるかしら?」


 「もちろん。毎週土曜日の午後、ここにいることが多いんだ。よかったら、また来て」


 「ええ、きっと」


 二人は自然と微笑み合った。


 その夜、マリーは夢を見た。白いドレスを着た自分が、美しい庭園で子どもたちと笑っている。バラの花が咲き誇り、噴水の音が心地よく響く。みんなで輪になって踊り、歌い、幸せな時間が永遠に続くかのようだった。


 だが夢の終わりには、いつも同じ声が響くのだった。遠くから、悲痛な叫び声のように。

 「マリーよ、ギロチンを止めろ」


 マリーは目を覚まし、頬に涙が流れていることに気づいた。なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。ただ、胸の奥に深い悲しみと、失ったものへの切ない想いだけが残っていた。



偶然の出会いに見えたものが、実は長い時を超えた“再会”だったとしたら──


そんな想像を、あなたもしたことがあるかもしれません。


アイネの音楽に、マリーの記憶に、どこか既視感のようなものを覚えてくださったなら、きっと物語の扉はすでに開かれています。


「マリーよ、ギロチンを止めろ!」という夢の中の声。


それは過去からの警告であり、これから始まる冒険への予告でもあります。


ブリオッシュの甘い香りと、クラシックの旋律に導かれながら、ふたりの魂がどこへ向かうのか。


どうか、これからも見届けていただけたら幸いです。

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