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資格外

作者: 高田 航

この物語の舞台では、出産と子育てには“資格”が必要です。

「本当に子どもを育てる力があるのか」――そう問われる時代に、不合格を突きつけられた一人の男の物語。

彼は何を失い、何を得て、どこへ向かうのか。

少しだけ重たい物語ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

 「不合格。理由:人格的適合性の不足。加えて、配偶者選定における評価著しく低し。」

 目の前の画面に、冷たい文字が並んでいた。

 最初に崩れ落ちたのは、ユイだった。

 俺は、まだ呆然としていた。

 「……あなたの、せいよ」

 その言葉が、ゆっくりと、でも確実に、俺の心臓を引き裂いた。

 正直、わかってた。

 俺は出来のいい人間じゃない。学歴も仕事も中途半端。酒もギャンブルもやめられなかったし、貯金なんてほとんどなかった。

 だけど、ユイだけは――そんな俺を笑って受け入れてくれた。

 「私、こういう不器用なとこ、嫌いじゃないよ」

 そう言ってくれたときのことを、まだ覚えてる。救われた。初めて、自分に価値がある気がした。

 「他の項目、全部通ってたのよ?私。……あなたと結婚してなければ、私は母親になれてたのよ。」

 彼女は荷物をまとめるのも早かった。

 最後に振り返ったその顔には、怒りでも悲しみでもなく、ただ――幻滅の色だけがあった。

 扉の音がして、部屋が静かになった。

 その日から、俺は「子を持つ資格のない人間」として、生きることになった。

 

「子どもをつくるには、“合格”が必要だ」

そんなルールが、この国にはある。

経済力、教育知識、生活の安定、精神的な成熟度。

書類と面談とAI審査で、それらを数値化されて、“あなたは親になっていい人間かどうか”を判定される。

昔は違ったらしい。誰でも、好きなタイミングで、好きな相手と子どもを持てたって。

けど、それで生まれてくる子どもたちは、幸せだったのか?

育てられないのに産む親がいて、不幸を背負わされる子がいて、それを社会が背負う。

「だったら最初から、選別すればいい」

それが、この制度の根っこだ。

正しいかどうかは、わからない。

でも少なくとも、この国では――そうなってる。

そして俺は、その審査に、不合格だった。


 「お前も……ダメだったか」

 コンビニのイートインで、カップ焼きそばを啜りながら、ユウジが目の前でうなだれた。

 汚れたスウェットに寝癖のついた髪。学生時代から変わらない風貌。むしろ悪化してる。

 「なんでだよな。俺、前科もねえし、ちゃんと働いてるっちゃ働いてるじゃん?審査ってマジで何見てんだよ。いやマジでさ」

 言い訳を重ねるほど、自分の首が締まってく感じがした。

 そうだよ。俺も、そう思ってた。俺の何がダメなんだって。彼女が合格圏で、俺が足引っ張った?いや、そんな極端な話あるかって。……でも、現実は不合格だった。

 「ミキも泣いてたよ。“あんたと一緒じゃなければ…”ってな。ハハ……」

 ユウジの目が笑ってなかった。

 ミキは、俺の元妻と同じ言葉を彼にぶつけたんだろうな、きっと。どの家庭も、似たような終わり方してる。

 そして皆、“自分が何をしてきたか”じゃなく、“制度が厳しすぎる”って文句を言っていた。

 俺たちは今、未来を持つ資格がないって、突きつけられた。

 それがどれだけ重い意味かを、誰もまだ理解していなかった。


 「あーあ、またいたよ。“優等生ファミリー”」

 ユウジがアイスの棒を口から抜いて、ベンチの向こうを顎でしゃくった。

 合格者のブレスレットを光らせながら、笑ってる家族。子どもは無邪気に歌ってて、親はその隣で「今日も野菜安くて助かるね」なんて声をかけ合ってる。

 「なんかさ、ああいう“勝ち組です”って空気がムカつくんだよな。見せつけてんのかって」

 「だよな。あれで“支援です”とか言われたらたまったもんじゃねえよ。俺らだって子ども育てたい気持ちはあるのに」

 自販機の缶コーヒーを握りしめた手に、汗がにじんだ。

 でも俺たちは、“気持ち”だけで、何もしてこなかった。

 ……そのことには、まだ気づかないふりをしていた。


 「恐れ入ります。認定証の提示をお願いできますか?」

 市役所の窓口で、女性職員が静かに言った。

 目を見て笑うわけでも、冷たくするわけでもない。ただ、事務的に――ごく自然に、区別している。それがかえって堪えた。

 「……いえ。持ってないです。前回、不合格で」

 「承知しました。大変申し訳ありませんが、こちらの窓口は認定家庭向けの対応のみとなっております」

 差し出された案内地図には、「再審査予定者・不認定者用」の別棟が示されていた。

 そこには「一部サービスはご利用いただけません」と、小さく注意書きがあった。

 「……ほんの少しでも、情報だけでも知っておきたくて」

 「お気持ちは理解いたしますが、対応はそちらの窓口でのみ行なっております。申し訳ありません」

 申し訳ありません。

 その言葉は、謝罪ではなかった。ただの定型文。

 彼女の声には、怒りも憐れみもなかった。ただ、“分けるべきものを分けた”という当然の処理があるだけだった。

 俺は頭を下げて、何も持たずにその場を離れた。

 周囲の目が、気のせいかこちらを見ているような気がした。でも、誰も何も言わなかった。



実家の玄関は、かび臭かった。もう何年もまともに掃除されてない感じがする。

 玄関マットは薄汚れて、壁紙は黄ばんで、電球はところどころ暗い。

 この家は、俺の“原点”だ。

 「で? 何の用?」

 ソファに横たわっていた母親が、うっすらこっちを見ながら言った。

 テレビでは通販番組が延々と流れてる。机の上には食べかけのカップ麺と、空のチューハイ缶がいくつも転がっていた。

 「……審査、落ちた」

 ぼそっと言った瞬間、腹の奥がぎゅっと痛んだ。

 「ふーん、そりゃ大変ねぇ」

 母は、まるで天気の話でもするように言った。

 「“ふーん”じゃねぇだろ!!」

 声が、勝手に荒れた。

 「お前の教育が悪かったせいだろ!? なんで俺、何一つマトモにできねぇ人間に育ったんだよ!!」

 母はチャンネルを変えながら、鼻で笑った。

 「そりゃ、あんたの“育ち”が悪かったんじゃないの? 親のせいにする前に、自分見なよ」

 瞬間、何かが切れた。

 育ちって、何だよ。誰に育てられたと思ってんだ。

 でも、口には出せなかった。もう何言っても意味ないと、心の奥では分かっていた。

 「……わかってんだよ。俺は、失格なんだろ。親も、子も」

 母は返事をしなかった。缶を片付けることもなかった。

 俺は黙って立ち上がった。

 この家の空気は、“落ちこぼれの始まり”の匂いがした。

 外に出たとき、強い風が顔を打った。

 このまま、ここにいてはいけない。そんな気がした。

 それが、最初の“危機感”だった。




6 

「このたびの改正により、タバコ、ギャンブル、ならびにスキャンダル報道を含む一部メディアを、公共空間から完全に撤廃いたします」

 テレビの中で、議員が淡々と語っていた。背後に映る議場の空気は、静かだった。

 俺はその前で、煙草に火をつけた。

 吸い慣れたはずの煙が、今日はやけに喉に刺さった。

 「人類に悪影響しかない。そう判断したからです。

  喫煙による健康被害は年間一兆円規模の医療費負担、ギャンブル依存による自己破産は数万人単位、

  そしてスキャンダル報道は、一部の人間の心を破壊し、子どもたちの価値観を歪める」

 議場の隅から、誰かが叫んだ。

 「だったら、漫画やゲームも無くすべきじゃないのかね?」

 一瞬、笑いが漏れたような空気があった。

 でも、その質問を受けた閣僚の男は、まっすぐ前を見据えたまま答えた。

 「そこは“分別”です。

  漫画には教訓があります。ゲームで鍛えられる能力も多い。

  悪い部分だけを切り取って騒ぎ立てるのは、親として――不合格ですよ」

 議場の空気が、ピンと張り詰めた。

 俺は、灰皿にたまった吸い殻をじっと見つめた。

 この国は、もう、未来のあるやつのためだけに動いている。

 俺みたいな“今ここにいるだけの人間”に、居場所なんて、たぶん無い。


駅前の広場で、ふと視線が合った。

 最初は誰だか分からなかった。

 髪も整ってて、服も小綺麗で、背筋が伸びていて――昔のアイツとは、まるで別人だった。

 「……シュン?」

 「おお、タカヤ? 久しぶりじゃん」

 声も変わってない。あの頃のままだ。

 でも、今目の前にいるのは、あの時の俺たちが“なれなかった大人”だった。

 「お前、合格したの?」

 「ああ、去年。運良くね」

 謙遜っぽく笑ってるけど、目はちゃんと真っ直ぐだった。

 運なんかじゃないことは、わかる。

 俺はポケットの中のタバコを指でいじった。

 こいつと俺は、確かに同じスタートラインにいたはずだった。

 「……俺のこと、見下してんだろ」

 シュンは一瞬きょとんとして、それから軽く笑った。

 「なんで? 僕はこの世界で“当たり前のこと”をしてるだけだし。

  君は君で、“そっちの世界”では当たり前の人間なんだろ?」

 「……は?」

 「たとえばさ、君は発展途上国の人たち見て、“バカだな”って思う?

  違うよね。ただ、『そういう環境なんだな』って思うだけでしょ。

  僕も、ただそれだけだよ。

  君が悪いとも思わないし、僕が偉いとも思ってない。

  でも僕は、この環境で求められる“普通”をやってきただけ。」

 その言葉が、ゆっくり、でも確実に俺の中に沈んでいった。

 俺は、ここまで“普通”すらできてなかったんだ。

 この社会の最低限にすら届かないまま、自分を正当化し続けてたんだ。

 何も言えなくなって、うつむいた。

 シュンは優しい笑みを浮かべたまま、じゃあね、と言って去っていった。

 その背中が、あまりにも遠かった。


午後の商店街。

 たまたま立ち寄った古びた本屋で、俺は見覚えのある後ろ姿を見つけた。

 「あ……」

 言葉が喉につっかえた。

 振り向いた彼女は、あの頃と少しも変わっていなかった。でも、彼女の眼には光はなく、ひどく疲れているようにも見える。

 「……久しぶり」

 「……うん」

 それだけの会話で、ユイは立ち去ってしまった。

 レジ横にいた店主がぽつりと漏らした。

 「あの人、昔からよう来るんよ。前は旦那さんの話とか、よくしてくれててなぁ。でも何やよう分からんけど離婚してしもたんやて。あのときが、人生でいちばん幸せだったんだって言ってたけど、最近はあの調子で…心配やねぇ。」

 俺の心臓が、一瞬止まった。

 でも、胸の奥に火が灯るのを感じた。

 俺はユイを“巻き込んで”しまったと思っていた。

 でも、もし……もし、俺が今からでも“合格者”になれたら。

 ユイの人生に、もう一度“幸せだった日々”を返せるのなら。

 「……俺、変わるよ」

 誰に言うでもなく、吐き出したその言葉は、煙草の煙と一緒に空へ消えていった。


 「不合格者はこちらの窓口へ」

 その言葉を思い出すたび、悔しさと情けなさがこみ上げた。

 あのときは、その言葉に耐えられなくて、帰った。

 でも今日は、違う。

 俺は、深呼吸して、別棟の静かな窓口に向かった。

 白いカウンター。整然とした書類の束。制服を着た窓口職員が一人、視線を上げた。

 「ご用件をお伺いします」

 事務的な声。感情のない目。

 でも俺は、もう逃げない。

 「……再審査を受けたいです」

 「前回の不合格から、どの程度の期間が経過していますか?」

 「半年です。……その間、何も変われませんでした。でも……変わろうと思ってます」

 職員の手が一瞬止まった。

 俺は、ポケットの中で震える指を握りしめた。

 「……あの、実は……妻がいました。何でもできる、最高の妻が。それが、前回の審査で、俺のせいで不合格になって……それで離婚して。でも、最近知ったんです。

  あの頃、あの子が“幸せだった”って。だから、俺……彼女のことを、もう一度、助けたい。返したいんです、あの時間を」

 しばらく沈黙が流れた。

 職員は、ゆっくりと目を合わせてきた。

 「……かしこまりました」

 それまでの冷たい印象とは違う、ほんのわずかに柔らかい声だった。

 「再審査の申請には、生活・就労・学習・交友関係など、複数の項目の調査が必要になります。

  申請フォームと、日々の報告書の提出が求められます」

 手渡された書類の束は、重かった。でも、それが未来への“重み”なんだとわかった。

 最後に、職員はふっと優しく笑った。

 「私たちは、“不合格者”に冷たかったわけじゃありません。

 ただ――変わろうとしない人には、何もできないんです。

 でも、あなたのように“変わりたい”と意思を示す人には、私たちは必ず手を差し伸べます。

 ……それは、合格者にとっては“当たり前のこと”なんですよ」


 その言葉に、胸がじんとした。

 俺は、ようやく分かったんだ。

 この国が俺たちを切り捨てたんじゃない。

 俺が、自分を切り捨ててただけだったんだ。


目覚ましは朝6時にセットした。

絶対早起きして勉強するんだ。そう思って寝た。

 朝、鳴り響くアラームに、俺は手探りで止めて――そのまま、二度寝した。

 起きたのは、昼前だった。

 起き抜けに伸びをしながら、無意識に煙草を手に取る。

 ダメだと分かっているが、もう火はついている。

 「……違うだろ」

 昨日のやる気はどこに行ったんだ。

しばらくぼーっと座っていた。昼飯はどうする?

 冷蔵庫には賞味期限切れの卵と、謎の調味料しかなかった。

 とりあえずコンビニでカップ麺を買ってきて、またやっちまったなと思いながらズルズルすすった。

 食後、ノートを開いた。

 真っ白なページを前に、手が止まる。

 何から始めればいい? 漢字の書き取りか? 計算ドリル? 時事問題?

 そう考えてるうちに、スマホを手に取って、ニュースアプリを開いた。

 気づけば、SNSをスクロールして、誰かのランチの写真に“いいね”を押していた。

 「……何やってんだよ、俺」

 小さくつぶやいた声が、やけに部屋に響いた。

 何かを変えるって、思ったより、ずっとむずい。


その日、職場のロッカーにスマホを忘れた。

 帰り道でポケットに手を入れた瞬間、ないことに気づいたけど、もうバスは出てしまっていた。

 戻るのも面倒だったし、まあ一晩くらい無くてもいいかと諦めた。

 夜、家に着くと、やることが無かった。

 ニュースも見れないし、SNSも開けない。

 ゲームも動画もない。

 部屋は静かすぎて、少し落ち着かなかった。

 でも、何もないからこそ、いつもより早く風呂に入り、久しぶりに本棚から古い文庫本を引っ張り出して、なんとなくページをめくった。

 途中で眠くなって、布団に入ったのは、いつもより2時間も早かった。

 翌朝。

 アラームが鳴った瞬間、体が自然に動いた。

 “起きなきゃ”とか思う前に、もう布団を出ていた。

 「……なんで?」

 不思議だった。

 特別なことはしてない。気合いも根性も入れてない。

 でも、ちゃんと起きれた。

 その日の昼。タバコを買おうと思ってコンビニに寄ろうとしたら、休憩時間が足りなかった。

 仕方なくそのまま職場に戻って、1日を終えた。

 家に帰って、ふと気づいた。

 「あれ?……今日、吸ってねぇじゃん」

 意志の力なんて、使ってなかった。

 でも、“仕組み”が変わったら、結果も変わってた。

 それに気づいたとき、ようやくわかった。

 俺が今まで頼ってた“やる気”とか“根性”ってやつは、続かないのが当たり前なんだ。

 本当に大事なのは――環境を、意志に逆らわない方向に整えることだったんだ。


翌朝、アラームが鳴る前に目が覚めた。

 窓の外はまだ暗くて、静かだったけど、頭は妙にスッキリしていた。

 湯を沸かして、インスタントじゃない味噌汁を作る。

 焦げずに焼けた卵焼きに、小さくガッツポーズをする自分がいた。

 何もすごくはない。でも――昨日より、ちょっといい気がした。

 机に座り、ノートを開く。

 今までは、1ページ目に何を書くかで悩んで、手が止まっていた。

 でも今日は、書きたい言葉があった。

 「もう一回、やってみる」

 文字が歪んでいても構わなかった。

 その一行が書けただけで、なぜか少しだけ、心が軽くなった。

 問題集を開く。中学レベルの簡単な問題なのに、指が止まりがちだった。

 でも、少しずつ、少しずつ――「解けた」って感覚が増えていった。

 集中できてる。今までとは違う。

 「……できるんじゃないか、俺にも」

 思わず、そうつぶやいていた。

 彼女のため。自分のため。

 失った時間を取り戻すことはできないかもしれない。でも――これから作る未来には、間に合うかもしれない。

 そして、夜。

 布団の中で、今日の自分を少しだけ褒めて、こう思った。

 ここから先は、意志の力だ。

 俺が変われば、彼女の未来も変わるかもしれない。

 やるしかねぇんだ。


履歴書を書いたのは、何度目だったろう。

 名前も、住所も、学歴も、資格欄も、何も変わっていない。

 でも今回は、ひとつだけ違った。

 “審査結果:不合格(再審査予定)”

 その一文を、思い切り強めの筆圧で書いた。

 送った会社のほとんどからは、返事すらなかった。

 “合格者のみ”の一文が、メールの冒頭に並んでいた。

 その中で、たった一社だけ――面接の案内が届いた。


 面接室は思ったよりも静かで、窓から柔らかな光が差し込んでいた。

 緊張で喉がカラカラになりながら、目の前のスーツ姿の女性に頭を下げる。

 「……自己紹介を、お願いします」

 一瞬、言葉に詰まった。でも、もう隠さないって決めた。

 「俺は……これまで、何一つまともにやってきませんでした。

  定職にもつかず、酒とタバコとギャンブルに時間を使ってきました。

  そして、出産審査――不合格でした。他の会社は、それだけで書類落ちです。

そんな…人間なんですよ、俺は。

  ……なのに、なぜ……面接をしてくれるんですか?」

 女性は、ゆっくりと微笑んだ。

 「私たちの仕事は、“教育”です」

 「教育、ですか……」

 「ええ。未来をつくる子どもたちに、投資をする仕事です。

  あなたは、今はたしかに“不合格”かもしれません。

  履歴書の自己PRも、上手とは言えません。

  でも――そこから、あなたの“意志”を感じました。

  その意志が、本物かどうか。……それを確かめたかったんです」

 言葉が出なかった。

 誰も見てくれなかった“今”を、この人は見ていた。

 俺の中に残っていた“変わりたい”という光を、拾ってくれた。


面接官は、静かにうなずいたあと言った。

 「では、聞かせてください。

  今、あなたはどんな努力をしていますか?

  もし将来、子どもを育てる立場になったとき、どんな教育をしたいと考えていますか?」

 一気に呼吸が浅くなった。

 胸の奥がドクドクと音を立てている。

 「えっと……あの……今……まず……生活を、変えてます」

 「生活を、ですか?」

 「はい。最初は、うまくいかなかったです。寝坊して、タバコもやめられなくて……。

  でも、ある日スマホを忘れて、何もできなくなった夜に、初めて早く寝れたんです。

  そしたら、朝、ちゃんと起きれて。頭もスッキリして……。

  “あ、意志じゃなくて環境なんだ”って、気づきました」

 自分でも、こんな話でいいのかと思いながらも、言葉が止まらなかった。

 「だから、スマホは職場に置いて帰るようにしました。

  寝る前に、部屋を片付けて。毎日、漢字を五つ覚えて。ノートに書いて。

  最初は意味あんのかって思ってたけど……だんだん、“自分が変わってる”って思えるようになったんです」

 女性は黙って聞いていた。笑わず、遮らず。

 それが、余計に言葉を引き出した。

 「俺……子どもができたら、ただ生まれてくるだけじゃなくて、“生きやすい場所”を用意してやりたいです。

  毎日安心して帰ってこられる家、話をちゃんと聞いてやれる親、やりたいことを“やってみろ”って言ってやれる大人になりたい。

  ……俺自身が、それをされてこなかったから、どうすればいいか分かんないですけど……でも、

  今、その“分かんない”を少しずつ潰していこうって思ってます」

 言い終わったあと、自分の声が少し震えているのに気づいた。

 こんなに真剣に何かを話したのは、いつぶりだったろう。

 面接官は、ふっと口元をゆるめた。

 それは、“評価”というよりも、“理解”に近い表情だった。


面接官は静かに息を吸って、姿勢を正した。

 「あなたの言葉を聞いて、私は落とす理由を見つけられませんでした」

 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。

 「ただ――最後にお伝えしなければならないことがあります」

 空気が、すっと張り詰めた。

 「あなたは、今たしかに努力をされています。それは大変すばらしいことです。でも、“不合格者”であることに変わりはありません。

  私たちは“合格者”としての信頼と実績で、お子さまたちを預かり、指導しています。

  その立場上、現時点で不合格者を“指導者”として表に出すわけにはいきません」

 その現実は、痛かった。

 でも、避けては通れないものだった。

 「ですので、最初は裏方の仕事になります。備品の管理、事務処理、教材の整理、清掃……

  決して華やかでも、誇らしくもない仕事です。

  いつ、子どもたちと直接向き合えるようになるかも分かりません。それは、あなた次第です」

 彼女の視線が、まっすぐに俺を貫いた。

 「……あなたは、それでもやり遂げられますか?」

 その問いに、迷いはなかった。

 「……はい!!」

 声が、自然と出た。

 誇れるような経歴も、実績も、なにもない。

 でも――この気持ちだけは、本物だった。


10

床を拭く雑巾の感触は、なんだか懐かしかった。

 中学の掃除当番以来かもしれない。

 俺は今、保育施設の廊下を、ひとりで黙々と拭いている。

 仕事は、面接官の言った通りだった。

 子どもたちと話すことは、まだ許されていない。

 配布プリントの印刷、文具の補充、壊れたおもちゃの修理、教材棚のラベル貼り。

 派手な仕事は一つもない。

 でも、不思議と、苦じゃなかった。

 昼休み、職員たちが談笑するのを、最初は遠巻きに見ていた。

 子どもの好きな遊びの話、どうやったら興味を引き出せるかって話、連絡帳の中のたった一言で救われた話――

 それらはすべて、俺の知らない世界の会話だった。

 でも、誰も俺を遠ざけなかった。

 「タカヤさん、こっち座ります?」「これ一緒にやってもらえますか?」

 合格者である同僚たちは、自然に俺を輪に入れてくれた。

 気づけば、昼休みには一緒に弁当を食べるようになり、雑談にうなずき、少しずつ自分のことも話すようになっていた。


 ある日、職員の一人に聞かれた。

 「子ども、好きなんですか?」

 即答はできなかった。

 でも、ちょっと考えてから、こう言った。

 「好き、なのかは……まだわかんないです。でも、“育つところ”を見たいんです。ちゃんと」

 その言葉が、自分でも驚くほど自然に出てきた。

 合格者に囲まれて、“当たり前に真面目な人たち”と過ごすうちに、俺の中の当たり前も、変わっていったんだと思う。

 こんな風に、人は少しずつ変われる。

 ……あのとき、“はい”って言えてよかった。


 「タカヤさん」

 入社後半年が経とうとしていたある日、職員室を出ようとしたとき、背後から声をかけられた。

 振り返ると、あの面接をしてくれた上司が立っていた。

 「最近のあなた、見てて思いました。もう……そろそろ、再審査を受けてもいい頃なんじゃないですか?」

 思わず、胸が熱くなった。

 不安も、怖さも、全部あった。

 でも、それ以上に“認められた”ことが嬉しくて――俺は小さく、うなずいた。


11

 審査会場は、初めて来たときと同じ建物だった。

 でも、そのときの自分とは、まるで別人のような気がした。

 案内された審査室。

 白く無機質な部屋の中央に、審査官が一人、書類を手に待っていた。

 「タカヤ・ミナトさんですね。再審査の申請、承っております」

 緊張で手のひらに汗がにじむ。

 でも、胸を張った。俺は、変わったんだ。そう信じたかった。

 「……ただ、ひとつ問題があります」

 え?

 「こちらは、“出産”と“子育て”を審査する場所です。

  あなた一人で来られても、何も判断することはできません」

 頭の中が真っ白になった。

 「え、でも……俺、一人で努力して、ここまで――」

 審査官は、優しく、しかしはっきりと言った。

 「あなたがどれだけ努力をされたかは、記録からもよく分かります。大変素晴らしいことです。

  ですが――子どもは、あなた一人では育てられません。

  一緒に、素敵な家庭を築きたい相手がいるのではないですか?

  ……ぜひ、その方と、いらしてください」

俺は全力で礼をして、彼女のもとへと走った。


扉の前で、息を整えた。

 心臓がうるさいくらいに鳴っている。

 でも俺は、もう逃げない。

 「俺、変わったよ」

 ユイがドアを開けた瞬間、そう言った。

 突然の訪問に、彼女は言葉を失っていた。

 でもその目は、あの頃の優しさを、どこかに残していた。

 「何もできなくて、全部周りのせいにして、甘えてばっかりだった。

  ……あの頃の俺とは、もう全然違う。

  今から、再審査を受けに行く。

  そして――そこには、お前がいてほしい」

 彼女の表情が、少しずつ崩れていく。

 目の奥が、何かをこらえるように震えていた。

 「何を……言ってるの……?」

 絞り出すような声だった。

 「私はあの時まで、真面目に、誠実に生きてきた。

  誰にでも優しくして、あなたのことも……

  確かにダメだったけど、一緒にいるのが幸せだったの。

  でも……あなたは、それを壊したのよ」

 声が震え、涙が溢れた。

 「私は……不合格者って、そう呼ばれるようになって……

  何をしても、気力が湧かない。

  明日に、光なんて見えなくなったの……」

 彼女は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、言葉を重ねた。

 「あなたみたいな、何もできなかった人も。

  私みたいに、真面目に生きてきて、ただあなたと一緒にいただけの人も。

  同じように、“不合格”なのよ……

  そんな私に……今さら、なに……?」

 俺は、彼女に歩み寄った。

 そして、言った。

 「失った時間は取り戻せない。過去も、もう変えられない。

  でも――俺は、変わった。未来を変えるために、努力してきた。

  今なら言える。お前と一緒に、未来を作っていきたい」

 震える体ごと、彼女をぎゅっと抱きしめた。

 しばらくの間、彼女は何も言わなかった。

 でも、拒まなかった。


12

数日後、再び、審査室の前に立つ。

 今度は、隣に、彼女がいた。

 俺たちは、もう過去にはいない。

 これからの未来を、今ここから、取り戻しにいく。


 「タカヤさん。あなたは……本当に変わりましたね」

 審査官は穏やかな目でこちらを見た。

 「愛する人のために努力を重ね、新たな職場でも信頼を得て、こうして胸を張ってこの場所にいる。合格レベルと言っていいでしょう。」

 心の中で、何かがじんわりと溶けていくのを感じた。

 ようやく、報われた。ようやく、未来に手が届いた。

 だが――審査官は、隣にいる彼女へと視線を向けた。

 「……しかし、ユイさん

 あなたは、一度の“不合格”に惑わされ、立ち止まり、進まず、今日まで来ましたね。

  愛した人の可能性を信じきれなかった。支えることを選ばなかった。……あなたは“不合格”です」

 空気が、凍りついた。

 「タカヤさん。あなたのような人には、もっとふさわしい未来があります。

  あなたなら、きっともっと素敵な相手と、より良い家庭を築けるでしょう」

 俺の中で、何かが、音を立てて崩れた。

 言葉より先に、体が動いた。

 そこにあった花瓶を手に取り――気づけば、それを審査官の頭めがけて振り抜いていた。

 ガシャン、という音のあとに、深い沈黙が落ちた。

 ユイが震えながら、俺の名を呼ぶ。

 でも、もう、何もかもが音を失っていた。

 この国に、未来なんてあるのか。

 「再審査」なんて、結局は見せかけだったんじゃないのか。

 努力も、愛も、誰かの基準ひとつで切り捨てられるのなら――

 この国に、“心”なんてあるのか。

 俺は、絶望した。


 ユイが、悲鳴すら出せないまま俺を見つめていた。

 その目に映るのは、恐怖か、絶望か、それとも――もう何も感じない虚無か。

 「ごめん」

 俺はユイの手を取った。

 震えていた。でも、拒まれなかった。

 「俺、変わったって言ったけど――結局、何も変われてなかったのかもしれない。

  でもさ、この国の言う“合格”って何なんだよ。

  努力しても、信じても、報われないなら……そんな未来、俺は要らない」

 ユイは、静かにうなずいた。

 目に涙が溜まっていたけど、もう溢れてはこなかった。


 人気のない川沿いの橋に立った。

 寒さも、風の強さも、何も感じなかった。

 「……あのとき、あなたといた時間は、私にとって本当に幸せだった。

  でも、あの“不合格”の言葉が、すべてを壊したの」

 「壊したのは、俺だよ。

  でも――せめて、最期は、俺たちで選ぼう。

  この国に決められるんじゃなくて、俺たちの意志で、未来を終わらせよう」

 ユイが、そっと俺の手を握った。

 「一緒に、行こう」

 夜の闇が、二人を包んだ。


13

 翌朝のニュースで、ひとつの訃報が報じられた。

 “出産審査制度の不合格者による、審査官への暴行と無理心中事件”。

 メディアは「制度の課題」「感情の暴走」とだけ報じ、誰も二人の人生を語らなかった。

 ただ静かに、“失格者”のラベルを貼り付けて、記録の中に沈めた。

 けれど――

 誰にも測れない愛と、

 制度に殺された未来が、

 そこには確かに、あった。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

「もし出産に審査があったら?」という仮定から、こんな結末になりました。

最後の選択は極端かもしれませんが、どこかで“現実も似たようなものかもしれない”と思ってもらえたら嬉しいです。

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