最後の一回
1 二〇二五年二月十三日 午前一時
「時間通り。きみも飽きないね。」コンビニの眩い光に照らされた柔らかな笑顔の彼女をみとめて、冬の真夜中の酷い寒さが幾分か和らいだ気がした。
「五回目、だよね。」僕は彼女に確認する。「出会った時のことも含めたらね。」と返し、歩み寄って僕の手を握る。氷のように冷たい。僕はその大理石のように白くて綺麗で、触れれば壊れてしまいそうな華奢な手をそっと包み込む。
「あったかいよ。」彼女は目を閉じて囁くように言う。ずっと、こうしていれればいいのに、なんて思う。
「…あの、そろそろ行こうよ。」彼女は困ったような表情で、笑みをこぼして言う。
「ごめん、そうだね。行こうか。」そう言って僕は彼女の手を引いてコンビニに入る。
真夜中の店内に軽快な入店音が空しく鳴り響く。彼女はイートインコーナーのほうを見て、少し寂しそうに「雑誌のコーナー、なくなっちゃったんだ。」と言った。「売れないんだってさ。最近は漫画なんかもネットで読めちゃうし、本を読む人も少なくなっちゃったし。」そう言うと彼女は僕の顔を不機嫌そうに見て「漫画も小説も、紙だからいいのに。」と言う。
「僕もそう思うよ。僕も紙の本のほうが好きさ。でもそういう時代なんだろうね。」
「つまんない時代。」彼女は吐き捨てるように小声で言う。
ひととおり文句を言い終えて満足したのか、彼女はお酒が並べられたリーチインに駆け寄って、
「アユムはまだビール飲めないの?」とにやけた顔で言う。久しぶりに名前で呼ばれて、少しだけうろたえて、でも嬉しくなる。名前で呼ばれると、自分という存在が少しだけ特別になったような、必要とされているような気がする。
「何がおいしいのか分かんないんだよなあ。苦いだけじゃんか。」
「きみは子供舌なんだよ。おこちゃま。」
「うるさいな、好みの問題だよ。」僕はそう言って果物味のお酒をかごに入れた。
それからいくつかのつまみをかごに入れてレジに向かう。この時間はほとんど人が来ないからか、店員は奥のほうに待機していて、呼び鈴を鳴らすと来るシステムになっている。
「セルフレジ、あるよ。」
「たばこ買うから。」
呼び鈴のボタンを叩くと涼しげな音が鳴り響く。呼び鈴で人を呼ぶのはなんだかすこし罪悪感があって苦手だ。
「お待たせしました。」店員はかごから商品を取り出してはバーコードを読んでを繰り返す。僕はその間にいつもの銘柄のたばこを探す。
「袋はご利用なさいますか。」
「お願いします。」
ちょっとめんどくさいだろうな、とか考えてしまう。
「たばこいいですか、二二一番を。」
店員は慣れた手つきで取り出し、袋に入れる。
「ありがとうございました。」僕は袋を受け取って、くじの景品を眺める彼女に合図を送って店を出た。
「ひゃあ、さっむい。」彼女はマフラーに顔をうずめて目を瞑る。
「ほんとにね。まさに殺人的な寒さ、ってやつだ。」このあたりはど田舎というほどではないが、通りを外れれば田んぼが広がっているような場所で、日付が変わるころには車通りもほとんどないから静かだ。しかしながら年中風が強く、風音だけは常に鳴っていて、完全な無音というわけではない。
「じゃあ、帰ろっか。」彼女は再び僕の手を握って歩き出す。
帰ろっか。そんな何気ない彼女の一言が、何度も頭の中で反響していた。
2 二〇二五年二月十三日 午前十一時
カーテンの隙間から差し込む光に起こされる。左腕にやわらかい重みを感じる。
「おはよ、ツユ。」彼女は僕の腕に抱きつくようにしてすやすやと眠っている。そのか細い寝息は、何かの拍子に永遠に止まってしまいそうで不安だ。彼女を起こさないよう、そっと彼女を抱きしめて二度寝しようとする。
「あつい。」
「あ、ごめん、起こしちゃった。」
「おはよ。」彼女は目を覚ましたかと思うと、そっぽを向いてすぐにまた眠り始めた。仕方がないので、朝食を準備することにする。
歯を磨いて、顔を洗って、すこしだけ髪を整えて、寝惚けまなこをこすりながらキッチンに向かう。朝食と言っても、一切れの食パンをレンジで熱してバターを塗るだけ。正直、体がだるい朝にはこの程度のものが限界だ。
部屋に戻って椅子に腰かけてトーストを食べる。口の中が乾く。また椅子を立ってコーヒーを用意する。そうやってどたばたしていると、彼女は二度寝から目を覚まし、洗面所へと向かった。
「おはよ、昨夜は…すごかったね。」
「お酒飲んで寝ただけだけど。」
「そんなありふれた日常の楽しみも大切にしなきゃね。」まあ、それはその通り。
寝起きのはずなのに、彼女の足取りは軽く、ひょいと本棚の前に立ち、じろじろ眺めている。
「雲と白昼夢、夏の幻、けっこう色々増えてる。」
「読む?」
「いいや、いやなこと思い出しそうだし。」
「そっか。」
彼女は少しうつむいたかと思うと、またひょいっと、今度は窓の前に立って、カーテンを開いた。陽の光が濁流みたいに流れ込んできて、めまいがした。
「まぶし。」彼女のふわふわの髪の毛が光に照らされて茶色に透けている。
「さて、今日はいつものとこ行ってくるからね。」彼女はいつもより少しだけ平坦な声でそう言った。
「ついてきちゃだめだからね。」
「あ、うん。」付いていくつもりはない。
「ありがと、さ、着替えるから、こっち見ちゃダメだよ。」そう言って収納から服をいくつか取り出す。
「洗面所とかトイレで着替えればいいのに。」
「さむいもん。」彼女は僕の背後で着替え始めた。寝間着を脱ぐのが、僕の正面にあるテレビの黒画面に映っていることに気づいて、慌てて目を伏せた。
「じゃあ、行ってくるね。」僕は頷いて彼女を見送った。それから、静かになった部屋の中でコーヒーをすすりながら、彼女のことを考える。彼女がどこに行っているのか、教えてくれたことはないけれど、大体見当はついている。
ツユはたぶん、あの日、ツユが「落ちた」
あの場所に行っているんだと思う。
3 二〇二一年三月十二日 午前十一時
切り立った崖の先端に彼女は立っている。僕は十数歩ほど離れた場所から彼女を見つめている。
「邪魔しないでね。これは決めていたことだから。きみが何を言おうが、何をしようが、変えられないことなの。」彼女は淡々と言った。
「ねえ、やっぱりやめにしようよ。」僕の声は震えていた。涙が頬をつたうのを感じる。恐怖と焦り、臓物だけが浮いているみたいな気持ち悪い感覚。
「言ったよね。きみに出会った日、ちゃんと覚えてるでしょ。」
彼女は、一か月前に真夜中のコンビニで買い物を終えて帰ろうとしていた僕にふと歩み寄ってきて「一か月だけ、きみの家に住ませてくれないかな。」と言った。あっけにとられている僕に「死に場所を探してるんだけど、なかなかいいとこなくてさ、一か月後までには見つけるから。」と続けた。僕には断る選択肢はなかった。なんとしてでも止めなければ、なんて無神経にも思ったからだ。
こくり、とうなずいた僕に彼女は柔らかい笑顔で「ありがと。」と一言だけ言った。自ら命を絶とうとしている人を目の前にしておきながら、僕はその儚い表情に、一目惚れしてしまった。そしてより一層、彼女の自殺を止めたいと思った。けれどとうとう、彼女の気は変わらなかったようだ。
「覚えてるよ、覚えてる。けど。」僕は必死に言葉を紡ぐ。彼女が死ぬ。その恐怖に溺れそうになりながら。
「前にも言ったけど、もうどこにもわたしの居場所はないんだよ。」彼女はつねづねそう言っていた。わたしの居場所はない、と。
「ぼ、僕がいるだろ。僕は君にさみしい思いなんかさせない。かわいそうだから、とかじゃなくて、僕はただ、君にずっとそばにいてほしくて、これから思い出だってたくさん…」
「それっていつまで続くの。きみがわたしに飽きちゃったら?別の誰かを好きになっちゃったら?そうなったらわたしはどうすればいいの?唯一この世界につなぎとめてくれるものが恋人だなんて、そんな危ういことできないよ。」
「そんな事絶対にない。あり得ない。」
「みんなそう言うんだよ。」
彼女にそう言われ、それ以上何も言えなくなってしまった。彼女が抱えているものは、僕が苦悩しているようなものよりもずっと重かった。
何か言わなきゃ、何か言わなきゃ。それでも言葉は出てきやしない。吐瀉物を吐き出してしまいそうなほどの極度の緊張で立っておくのもやっとのことだった。
彼女はそんな僕を見て、柔らかな笑顔を向けた。そして、歩み寄って僕に抱きついた。
「怖がらせるつもりはなかったの。ごめん。でも、きみは大丈夫だよ、わたしがいなくなっても。ちゃんと生きていけるはずだから。」
それで恐怖を拭い去れたわけではなかった。けど、ほんのわずかの安堵は、こわばった身体全体に浸透し、ついに僕は膝をついた。
それからは早かった。彼女は再び崖の先端へと歩いて、振り返って、
「じゃあね。ひょっとしたら天国で会えるかもしれないから、悪いことしちゃダメだよ。」と言った。彼女の最後の笑顔を網膜に焼き付けた。
彼女はふっと目を瞑り、ベッドに倒れこむようにして、落ちた。
僕はその場からしばらく動けなかった。それから先のことはよく覚えていないが、気づいたらベッドの上にいた。彼女のことはすべて夢だった、と思おうとしたが、狭い部屋に
残る彼女の匂いがそれを許さなかった。
4 二〇二五年二月十三日 午後五時
「ただいま。」玄関が開く音と、彼女の澄んだ声が耳に流れ込んでくる。
「おかえり。」
彼女は確かに、四年前に死んだ。彼女が落ちた日から数日後、この地方のニュース番組で彼女の自殺の成功を知った。彼女はあの断崖から飛び降りて、波が打ちつける岩場に落ちて即死。
彼女の死は紛れもない現実だった。それでも僕は、あの儚さを纏った彼女が僕をどこかからこっそり見ている気がした。いや、たぶんそう思い込みたかった。そして、毎晩、初めて彼女と出会ったコンビニに通って、彼女がふらりと現れるのを待った。
彼女が現れた午前一時から一時間。二時を回ったら諦めて、コンビニで買い物をして帰る。それが僕のルーティーンになっていた。
「彼女は死んだんだ。君もいい加減諦めたら?」何度も聞いたコンビニの入店音は、そう僕に言っているように思えて、次第に嫌いになった。
そして、一年弱が経った。つまらない大学生活も三年目に差し掛かろうとしていた。彼女と出会った日からちょうど一年が経つ日。僕は、コンビニに通うのは今日で最後にしよう。そう決めていつものように家を出た。
◇◇◇
「今日でちょうど一年だよ、これでも君はまだ、僕が君を世界につなぎとめておくことを危ういとでも言うのかなあ。」灰皿の隣に腰を下ろして、演技じみた口調で言ってみる。彼女と話していたように。
「きみも飽きないね。」そう彼女が言った気がした。
いや、違う。確かに聞こえた。
「ツユ…なの?」街灯に照らされた小柄なシルエットが、足音とともに大きくなっていく。
「きみの諦めがあまりに悪いから、化けて出てきちゃった。」コンビニの眩い光に照らされた柔らかな笑顔の彼女をみとめて、それまでモノクロに色あせていた僕の世界が、一気に色を取り戻したように思えた。
「また、一か月だけだけど、きみの家にすませてもらうよ、いいかな。」
うん。はっきり言ったつもりだったけれど、こみ上げてくるなにかのせいで、それは声になっていなかったから、代わりに何度も、何度も頷いた。
「ありがと。」そう言って彼女は腕を広げた。僕は、彼女に歩み寄って、抱きしめた。
「あったかいよ。」彼女は目を閉じて囁くように言う。ずっと、こうしていれればいいのに、なんて思った。
「…あの、そろそろ行こうよ。」彼女は困ったような表情で、笑みをこぼして言った。
それからは、コンビニで買い物をして、家に帰って、二人でいろんなことを話して、同じベッドで眠って、目を覚まして。一か月の間、二人で出かけたり、家でごろごろ過ごしたり、彼女が生きていたころと同じように過ごした。あたたかい毎日だった。永遠にこのまま、続いてほしかった。けど、とうとう、彼女の命日前夜になった。
「明日でまた、お別れだね。」彼女は僕と並んでベッドに座って言った。
「ねえ、君は本当に、亡霊なの?」
「そう言ったじゃん。現にわたしは、ご飯も飲み物も、一度も口にしてない。ファミレスに行ったときも、店員さんはわたしたちをみて、一名様ですね、って言った。きみ以外には見えてないんだよ、わたしは。あの時のきみの微妙な顔、痛々しくて見てられなかったよ。」
「きみがわたしに未練たらたらだから、化けて出てきちゃったの。わたしの意思とは関係なく、ね。」
「それなら、もうずっと化けて出ててよ。」僕は弱々しく吐いた。
「うーん、それはできないみたいなんだよね。これ、言っていいのか分かんないんだけど、亡霊の世界にもルールがあってさ。」そう言って彼女は、『亡霊の世界のルール』というやつを淡々と僕に教えてくれた。
死んだ日からさかのぼって一か月の間だけ化けて出られること。そのためには、現実世界の誰かに、会いたい、と強く望まれていなければならないこと。
「じ、じゃあ。僕が望めば、来年もまた会えるの。」
「……会えるよ。そういうルールだから。」
僕は、その言葉を聞いて、深く安堵した。来年まで生きていれば、また会える。それだけで、僕が生きていくための理由として十分だった。
「明日はわたし、朝いちでここを出るから。ついてきちゃダメだよ。来年もわたしに会いたいなら、絶対にね。」彼女は柔らかい声で言った。僕は頷いて、彼女の華奢な身体をやさしく抱いて眠りについた。
目を覚ますと、彼女はいなかった。亡霊なんてもの存在するわけがない。ひょっとしたら全部、僕の妄想だったのかもしれない。そんな考えもよぎったが、枕に残る彼女の匂いが、確かに彼女の亡霊は存在したことを教えてくれた。
◇◇◇
「ねえ、お風呂沸かそうよ。」彼女は部屋に入ってくるやいなや、そう言った。
「湯船を掃除しなきゃいけないけど。」基本的にシャワーしか浴びない僕は、たまに洗うぐらいでほとんど放置している。
「洗ってよ。なんかそういう気分なんだよ。」
「めんどくさい。」本当に。
「そうだ、じゃあもし湯舟洗ってくれたら、一緒にお風呂入ったげる。」本当に?
「…わかったよ、少し待ってて。」
「やったね。いやあしかしアユムくん、すけべですねえ。」嬉しそうにはしゃいで、肘で僕をつついてくる。洗うの、やめようかなあ。
5 二〇二五年二月十三日 午後六時
「入るよ。目はまだ開けちゃダメだからね。」
肩に柔らかな感触が落ちてくる。彼女が湯船に足を沈め、そのままゆっくり僕の上に座るようにして浸かる。触れる背中から彼女のぬくもりが伝わってくる。
「目、開けていいよ。」目を開くと、彼女の身体が目の前にあって、雪のように白い身体は、お湯に溶けてしまいそうなほど儚く映っている。
「狭くない?」
「んー、ちょうどいいよ。」彼女は僕の肩に頬をのせて小さく笑った。
「やっぱり、お風呂っていいね。」彼女は続ける。
「…そうだね。」僕は答えた。
「ねえ、生きてるのってどう。楽しい?」彼女の突然の問いに少しだけ、どきっとする。
「どうだろ、少なくとも、君がいるこの一か月は楽しいよ。」
「それ以外は。」
「つまんないかな。君がいない残りの十一か月は、僕にとっては抜け殻みたいなものかもしれない。」
「…そっか。」彼女は少しうつむいて言った。
少しの沈黙を挟んで彼女は口を開いた。
「やっぱり、わたし、このままじゃダメだと思うの。亡霊のわたしに縛られているままのきみは、正常な状態とはいえないよ。」
それはわかってる。誰が見ても、今の僕の状況は異常だ。
「だからね、そろそろきみは、わたしのことなんてきっぱり忘れて、前に進まなきゃ。」
そんな言葉に、何も言えないまま、また静寂に支配される。そして、それを彼女が破る。
「きみに教えてなかったことがひとつだけあるんだけど、聞きたい?」彼女は目を伏せたまま言う。
「これを聞いたら、今までのようにわたしを想えなくなるかもしれないんだけどね。」僕は何も答えられなかった。
「でも、きみには前に進んでほしいから、聞いてほしいかな。」
今までのように想えなくなる。それは、たぶんこの話を聞けば、今までのように毎年彼女と会って、夢のような一か月を過ごして、抜け殻みたいな現実の十一か月を過ごして、そんな繰り返しができなくなるということなのだろう。
「うん、やっぱり…聞いてほしい。」彼女は自分に言い聞かせるように再び、そう言った。
僕が頷いたことは、彼女には見えていなかっただろうけど、伝わったようだ。
「今までずっと、わたしは命日には姿を消していた。きみにはついてこないで、とだけ言ってね。」彼女の声は少しだけ震えていたように感じられた。
「あの断崖に行ってたんだ。」彼女は淡々と続ける。
「これも亡霊のルールなんだけどね、命日には、生前に死んだのと同じように、死ななきゃいけないの。」すこしずつ、悪夢のような想像が頭に染みわたる。
「…落ちて死ぬのってさ、すっごく怖いんだ。それに、一瞬だけどすっごく痛いんだ。」
みなまで言わずとも、彼女が伝えたいことはすべて、僕に伝わっていた。これは、彼女が亡霊として再び僕の前に現れることの代償だ。形容しがたいほどの恐怖、決して慣れることのない痛み。僕の未練は、繰り返し彼女を殺していた。そんな信じたくない事実をつきつけられる。
「…ま、そういうこと。」
彼女は僕の顔を片目で覗いて、また前を向く。そして、彼女の指が僕の腕をなぞる。
「ねえ。」低く呼ばれて、僕ははっとする。
唇に柔らかな感触を覚える。ほんの一瞬のキス。触れたと思ったら、もう離れていた。
「ごめんね。残酷な話だったよね。」
謝らなければならないのは僕のほうなのに、何も言えないまま僕は、ただ彼女の背中を見つめていた。
6 二〇二五年三月十一日 午後十一時
彼女が再びあの話をすることは無かった。今まで何度も繰り返してきたようにこの一か月を過ごした。けれど、僕は今までのようにただ無心にこの幸福を楽しむことができなかった。僕が彼女を望んだせいで、彼女は繰り返し死ぬことを強制された。そして、今回もその代償の上に、この幸福が成り立っている。
「さ、そろそろ寝よっか。」彼女はいつものように布団にくるまって僕を手招きする。
僕も布団に入って、僕に背を向けて眠る彼女に言った。
「ツユ。」
「うん。」
「…明日、僕も付いていくよ。」
「…そっか、ありがと。」彼女はそれだけ言って、たぶん、目を瞑った。
僕も彼女を追うように目を瞑った。彼女と夢の中で会えることを願った。
7 二〇二五年三月十二日 午前九時
カーテンの隙間から差し込む光に起こされる。左腕にやわらかい重みを感じる。
僕は無言で、彼女の寝顔を見つめていた。この顔を見られるのも、これで最後。そう思うと、今までの何倍も、その寝顔が儚く、魅力的に見えた。
彼女が目を開いてしまうのが怖かった。ずっと、小さい寝息を立てて、僕の腕を抱きしめて眠っていてくれればいいのに。なんて思った。そんな願いも空しく、とうとう彼女は目を開けてしまった。
「おはよ、アユム。」彼女の瞳は、どんな宝石にも代えがたい美しさを孕んでいた。
二人で並んで歯を磨く。一言も交わさないまま、ただ淡々と。何度も繰り返してきた日常が、今日は苦しい。
朝食のトーストを、今日は二枚焼いてみた。ローテーブルの前に座った彼女の前に一枚、並べて隣にもう一枚おいて彼女に向かい合って座る。
「まあ、食べられないわけじゃないから、食べるけどさ。」彼女は柔らかく微笑んで、トーストをほおばった。
「食べないの?」彼女は僕の顔を覗き込んで言った。
「焼いてみたけど、喉を通らない気がするんだ。」
「ちゃんと食べなきゃダメだよ。」気づけば彼女はトーストを平らげて、僕のことを見つめていた。気乗りしないが、僕もトーストをほおばる。口の中が渇く。
「コーヒー淹れてあげる。」彼女はそう言って立ち上がる。
「自分でするから大丈夫。」そう言って僕も立ち上がろうとしたけど、
「いいから。」そう制止されて、再び座る。
朝食を食べ終えて、服を着替える。彼女は僕が準備をするのを玄関から見ている。そうして、準備が終わってしまった。
「それじゃ、行こうか。」彼女は僕に微笑みかけて、ドアノブに手をかける。
「待って。」口をついて出た僕の言葉に、彼女は振り返って、僕の目を少し見て、腕を広げる。
彼女に抱き着く。一番強い力で。
「大丈夫。だいじょうぶだよ。」彼女は僕の耳元で優しく囁いた。
「…ありがとう、行こうか。」彼女は頷いてドアを開いた。
8 二〇二五年三月十二日 午前十一時
切り立った崖の先端に二人で並んで立つ。僕でさえ、立っているのがやっとなほどに高い場所。彼女は虚ろな瞳で下の岩場を眺めている。
「ひゃあ、やっぱり…慣れないなあ。」彼女は気丈にふるまって言った。でも、その声が震えているのを、感じとれてしまった。
「ツユ。」僕は必ず言っておかなければならないと、心を決めて口を開いた。
「ん、なあに。」
「ごめん。ずっと、僕のせいで君を痛めつけてしまった。」涙と恐怖で話せなくなりそうになりながら、必死に声を紡いだ。
「僕が君を何度も殺したも同然だ。償いきれやしない。」思っていることをそのまま、声にのせた。
「ふふ、そうだぞー。人殺し。いや、亡霊殺しか。」彼女はおどけて言う。
「…本当に、ごめんなさい。」僕は、彼女を見ているのがつらくなってしまった。本当は、彼女のほうがつらいはずなのに、彼女は僕から目を離していないようだった。
「…ううん、いいの。」彼女は今までのどんな言葉よりも優しく言った。
「それにきみ、もしわたしが現れないまま一年が過ぎたら、死んじゃうつもりだったでしょ。」彼女は自然に、当然のことを言うように言った。
「そうなったら、わたしだって人殺しになっちゃうよ。だから、これでいいの。」彼女は一粒涙をこぼして言った。そして、僕を優しく抱きしめた。
ずっと、抱き合っていた。彼女は何も言わなかった。そして僕の身体をそっと離した。
「それじゃ、いくね。」彼女は僕に微笑んで言った。僕は立ち尽くしたまま、ずっと彼女を見つめていた。
いかないで。いかないで。いかないで。頭の中を木霊する本心を抑え込むのに必死だった。
「…天国できっと会えるから、悪いことしちゃダメだよ。」
彼女が目を瞑る。
身体が傾く。
「大好きだよ。」彼女がつぶやくように言う。
そして、消える。
それからやっぱり、ずっとその場から動けなかった。気が付くと、太陽は西に傾いて、沈みかけていた。空が夕日で真っ赤に染まっている。
震える足で崖の先端まで歩いて、恐る恐る岩場を覗き込む。そこに彼女はいなかった。亡霊なのだから、当然のことだ。
深呼吸して、真っ赤になった目をこする。そうして踵を返して、帰路につく。これ以上は彼女を苦しませないと心に誓う。
心にぽっかり穴が開いているのを感じる。それでも、これ以上彼女を苦しめることだけは、絶対に許されないと、そう言い聞かせて歩みを進めた。いい子にしていないと、きっと彼女に叱られてしまうから。
9 二〇二六年三月十三日 午前一時
あれからずっと、この時間にコンビニに通うことはしていない。けれど今日は、彼女が来ないことを確かめるためにここにいる。
午前二時を回っても彼女は現れない。どうやら約束を守れたみたいだ。
コンビニの冷たい光が照らす空間に僕だけが座っている。
風が吹く。いつもなら揺れていたはずの影は、どこにもない。