冷春
とはいえ、いくら後悔してももう逃げ帰るフェーズは過ぎた。
今だって半ば強引に連れてこられ、市内をまるでレーダーのように歩き回っている状況だ。
両隣は相も変わらずふたりでがっちりと固められており、留加は泣く泣く協力する他なかった。
「いたか?」
「いません」
「ただの勘違いじゃないのかな。ほら、ここの焼肉店の煙もそれっぽく見えるし?」
「いや、いくつかの塊で浮いていたので恐らく違うかと。焼肉店が点在していれば話は別ですが」
「この通りには一軒しかないしな」
「はい」
状況からしても見間違いではないということは分かるが、肝心の黒い霧らしきものはどこにも見当たらない。
てっきりやる気をなくすかと思っていたが、八十一はもちろん、ジャージ男こと世羽も若干焦ったようにあたりをくまなく探し出した。
ふたりの様子を見た留加は不思議そうに尋ねる。
「そんなに危険なものなんですか、害はなさそうでしたが」
「単体じゃせいぜい金縛りぐらいしかできないんだがな、憑いたら話は別だ」
「霊が人間に取り憑くと、何かあるんでしょうか」
「憑くってのはさっきも見せたように、魂を交換して相手の身体を手に入れる行為を指す。つまり、霊が人間の身体を思うがままに動かせるってことだ」
「あ」
「全部は言わなくても分かったか」
留加もはっとしたように息を飲んだ。
要するに八十一が言いたいことはこうだ。
死んだ後成仏出来ないでいる奴らが、自由な身体を手に入れたらどうなるだろうか、と。
「…はい、おふたりが急ぐ理由がわかった気がします」
答えは言うまでもない。恐らくは残った悔いを果たそうと必死になるものがほとんどのはずだ。
それが例えば「あんぱんを腹いっぱい食べたい!」ならまだ可愛いものだが、残念ながら欲深い人間の方が多い。
自分の身体じゃないからと、犯罪に手を染める可能性だって格段に上がるのだ。
「知らなかったと思うけどね、世の中の悪事は大抵憑かれたものたちのせいで起こってるんだよ」
「そんな…対処はできないんですか?」
「基本は霊魂が入り込む隙をなくすように、無駄なストレスを溜め込まないだけで大丈夫なんだけど。憑かれたらもう第三者に祓ってもらうしかないかな」
「なるほど。そして世羽さんも八十一さんも、第三者に含まれるということですね」
「そういうこと」
と軽い説明こそ終わったものの、やはり煙らしきものは全くと言っていいほどにない。
いよいよふたりの顔にも焦りが色濃く見られ始めた。
「どうする?本部に電話して応援要請するか」
「一級浮遊霊ごときお前らで対処しろって言われるのがオチだ。無理だと思うよ」
「だろうな。とりあえず手分けして探そう、俺は大通り方面行ってくる」
「じゃあ私は路地裏を」
八方塞がりかと思ったが、留加はただ闇雲に探しても仕方がないと、改めて思考を巡らせてみた。
「霊とはいえ、実態はある。瞬間的な移動は難しいだろうし、まだ近くにいると仮定した場合」
何かに紛れ込んでいるか、もう既に憑いてしまったか。
しかし何よりも高い可能性がひとつ。
留加はそれに気づくと、目をひときわ大きくさせて呟いた。
「──浮いているものが、その場に留まることの方が難しい」
そして見たのは上、雲ひとつない青空。
「いた」
網膜に差し込む太陽に眉をひそめながら、その目はしっかりと黒を捉えた。
先程見た時よりも遥かに大きくなっており、霧というよりは雨雲と呼ぶ方がしっくり来るほどだ。
「でもどうする、あんな高いところまでは行けない」
言いつつ何かできないかと見上げ続けていると、留加は信じられないものを目の当たりにした。
「人が、浮いてる」
光で目が霞んだせいにしたかった。
しかし何度見ても、雲の中心部にある黒く長い髪の毛はやはり間違いなどではない。
花柄のワンピースに、赤いランドセルもある。まだ幼い女の子だった。
「助けないと」
備わった良心からか、考える前に吐いた言葉はやはり考えなしだった。
つい先程霊の何たるかを知った人間が、一体何を助ける術を持っているというのだろう。
「…ごめん、ちょっと待ってて」
もちろん何もない、が答えだ。
だからこそ留加は己の無力を振り払うように走った。
「世羽さん、いますか!?」
自分では何も出来ないから、せめて何か出来る人間を呼びに行こうと決めるまでは早かった。
必死に大声を出し、世羽という名を呼び、助けを乞う。
見るものにとっては無様な行いも、彼は躊躇うことはしなかった。
「早く、早く…!」
全ては黒から黒を救うため、ただひたすらに。
「分かったから、行くよ」
「世羽さ、」
体感にして数十分、しかし実際はものの一分足らず。
東の方から走ってきた世羽は留加の次の言葉を待たずに、彼の肩を叩いて命じた。
「上にいるってことでいいんだね」
「はい、今は廃ビルのアンテナ付近にいます。先程よりも大きくなっていて、黒さは変わらずかと」
「了解。じゃあ君はここにいて」
致し方ないが、今の留加はなんの手助けもできない。
それは当の本人が一番よく分かっているようで、ぐっと拳を握って、着いていきたい気持ちを懸命に押し殺した。
「それと、中心に女の子がひとりいます、どうか…お願いします」
そして留加が深く頭を下げるよりも早く、世羽は飛び立った。
その姿がジャージからスーツに変わっていることには誰も気づかない。
「八十」
広い空の中、声を張るでもなく、名をただ呼べばどこからか相棒もやってくる。
音もなく合流したふたりは、まるで重力に逆らうようにぴたりと静止した。
「ようやく見つかったのか」
「そうみたい。でも状況はよろしくないかもね」
「どういう意味だ?」
だが、たった今呼ばれたばかりでてんで理解が追いついていない人間に、優しく教えてあげることなどしないのが世羽である。
「見れば分かるよ」
今回も例に漏れず、ろくに説明もないまま先へと進む。
いつの間にか手に十字架を持ち、すっと無駄な所作ひとつなく手を合わせ、目を閉じる。
「……は」
吹いていた風がぴたりと止んだ、そのタイミングで息を吸った。そして告げる。
「『君は死んだ』」
残酷な言葉に反発するように、何も無かったはずの空をいきなり雲が包んだ。
暗く、光の欠片もないような重苦しさがどんどん広がっていく。
『ちがう、わたしは、わたし、いきてるもん』
その中心にいるのは、やはり留加の見立て通りまだ幼い少女だった。
涙にも似た血をどろりと垂らしながら、目をぐるりと回転させ世羽を殺さんばかりの勢いで睨みつける。
あまりにも気味の悪い光景に、ぶるりと震えたのはどちらの足か、はたまた心か。
『うそつくな!かえれ!』
もちろん考えている暇などない。
凪の最中、ぶわっ、と突如旋風が吹き荒れ、世羽を捉えようと一直線で向かってくる。
ごうごうと鳴る音はそれだけで威力の強さを知らしめた。
「っと」
すんでのところで避けたものの、一拍遅れた袖は見るも無惨に切り裂かれた。
ぱらぱらと塵になって落ちていく様を見て、八十一は小さく呟く。
「…確かに、これはやばいわ」
やばいと言う顔には冷や汗が一粒落ちる。
そんな張り詰めた空気を打破すべくか、世羽は至っていつも通りのテンションで聞いた。
「やばい女の子相手にどうしようか?」
つとめて平静に振る舞ってくれているのが伝わったのだろう。
だから八十一も同じように返す。
「いつも通りペンギン作戦でいいと思うが」
「いいけど、そのネーミングセンスだけはどうにかならない?」
「文句あるならお前が考えろ」
「作戦なんて仰々しく言わずに、普通に俺が囮になるだけで十分だと思うけど」
「憧れだったんだよ、悪いか」
「悪いなんて誰か言った?万年厨二病くん」
「お前もうここで八つ裂きにされろ。なんなら俺がしてやってもいい」
「やれるもんならどうぞ、億年厨二病くん」
「増えてんじゃねえか!」
などと軽く喋っている風だが、未だやまない攻撃を避け続けるだけでも集中力はかなり使う。
ましてや守りに徹しているわけにもいかない。祓うにはこちらから仕掛ける必要がある。
『どっかいって、かえって!』
駄弁って体力を消費してもあれだと、世羽は何も言わずに次の手を打った。
「じゃあ、頼んだ」
「はいよ」
そんな風に言葉を込めたお互いの拳は、空で弾けた。
刹那、と言うほど早くはないが、八十一がものすごい勢いで少女の元へと飛んでいく。
『なに、おじさん、こっちこないで』
その突然の奇行に、少女も驚いたように風を止めた。
しん、とあたりに落ちる静寂を埋めるように、八十一は迷うことなく進む。
「大丈夫だ、俺は何もしない。ちょっと君とお話したいだけだ」
『おはなし?』
「ああ、そばに行ってもいいか?」
『もうきてるじゃん、うそつき』
「はは、知らない人に対してはきちんと警戒する、いいことだ」
そして気づくと目と鼻の先まで近づいており、八十一はゆっくりと屈むと少女の視線へと合わせた。
その行動に気を許したか、血にまみれた顔が嬉しそうに微笑む。
『うん、パパとママがおしえてくれたの』
「君はとっても優しくて賢い子に育ったんだな」
『…ううん、やさしくないよ。きのうだって、おもちゃとられておこったもん』
「大事なものを取られたらおじさんだって怒るぞ。くっそー!ってな」
『え?おじさんも?』
「ああ、だから君は悪くない。おもちゃを取ったやつがクソなだけだ」
まさか肯定されるなどと思ってもみなかったのだろう、少女の目が小さく揺れた。
『わるくないの?』
その隙に入り込むように、八十一はさらに続けた。
「そうだ。しかも君は、今もおじさんが怪我をしないように攻撃しないでくれただろう?」
『うん、だってあたるといたいから』
「それが分かってる優しい子なんてめったにいないぞ。ありがとうな」
八十一の大きな手がぽん、と頭を撫でると、少女はにへっとさらに笑った。
頬にこびりついている赤も、とっておきの笑顔の前ではただの綺麗なメイクにしかならない。
『おじさんもとってもいいひと!パパみたい』
嬉しさのあまり伝えた言葉は、語彙力のない少女にとっての最大級の賛辞であったはずだが、八十一は喜ぶどころか苦い顔をして笑った。
「おじさんはいい人なんかじゃないぞ」
『え?なん──…!?』
「だってな?」
その目は少女を見て、次に、小さな身体に刺さる十字架を悲しそうに追った。
そして落ちた視線のまま呟く。
「騙し討ちは悪い人しかしないんだ」
「君の罪は、私が赦す」
心までも落とす言葉が放たれた瞬間、少女の身体は途端に重力へと従った。
『やっぱりおじさんうそつきだよ』
どんどん加速していく最中、少女は恨み辛みに叫ぶでもなく、ただ微笑んで言った。
『わるいひとは、そんなかおしないもん』
そして地面に激突する寸前、何事もなかったかのように全てが失せた。
ワンピースもランドセルも、何もかも。
『…ありがとう、うそつきおじさん』
だからその言葉も、誰の耳にも届くことはない。
残るのはただの風だけだ。少女を悼むように吹く、春の静かな。