23.夜に月があるように(完)
わたしはあえて軽い口調で続けた。
「それにお互い様だからね。わたしだって座学がピンチで、ゼストに教えてもらったでしょ?」
「いくらでも手伝いますよ、テスト勉強くらい……っ」
ゼストが涙を恥じるように荒っぽく頬を拭っていう。夜色の瞳は雫を散らそうとするように瞬きを繰り返している。
わたしは隣で彼を見上げて、ふふふと笑った。
「何があろうとわたしはゼストと一緒にいたいよ。ゼストがいなくなるなんて絶対にいやだよ。ゼストはわたしの大事な親友で、でもそれだけじゃなくて……、その……」
いう。
いうぞ。
二人きりの今がチャンス。中間試験が終わったらいうって決めていたんだから、好きっていう、いうんだ!
そう自分を急き立てても、唇は固まったように動かない。緊張のあまり指先まで冷たくなっているのに、心臓だけはどくんどくんと激しく動いている。自分が赤面しているのがわかって泣きたくなる。勝手に顔に熱が集まっていく。
あぁ、なんて意気地がないんだろう。それでも世界を救った大魔法使いなのか! そう自分を責めてみてもどうにならない。好き、の一言が出てこない。だって、魔物たちの王と対峙したときよりも今のほうが緊張する!
わたしが涙目になったときだ。
ゼストが大きく眉間にしわを寄せたかと思うと、ぐしゃりと髪をかき上げて、彼にしては珍しく唸るような声でいった。
「ルーナちゃん、抱きしめてもいいですか?」
「うん、……うん!?」
「俺は今すごくすごくあなたを抱きしめたくてたまらないんですが、許可をいただくことは可能でしょうか?」
真剣な顔でなんてことを聞いてくるのだ、ゼストは。
わたしはあわあわと無意味に視線をさまよわせた。けれど、近くには寂れた温室があるだけだ。人の気配はない。誰もいない。夕闇の世界にゼストと二人きりだ。
わたしは木彫りの人形のようにカチコチに固まりながらも、ぎこちなく頷いた。
「いっ、いいよ! どーんと来いだよ!」
さあ! と勢いよく両腕を広げて見せると、ゼストはひどく嬉しそうな顔をした。
「ありがとうございます」
その囁くような甘い響きに、背筋がぞくりと震える。
ゼストはその震えすら覆いこむように、優しくわたしを抱きしめる。制服越しに、ゼストの温もりが伝わってくる。わたしよりも大きくて硬い身体だ。心地よさと安心感と、そして激しい緊張が同時に沸き出してくる。
わたしが両手を恐る恐るゼストの背中に回すと、彼が嬉しそうに笑うのが、吐息越しに伝わってきた。
内心で動揺の悲鳴を上げる。嬉しいけど困る。困るけど嬉しい。どうしたらいいの。ゼストはわたしの気持ちを知らないから突然ハグしたくなっちゃったのかもしれないけど、あああ、心臓の音がまずい。高らかに鳴り響いている。ゼストに聞こえませんように、どうか聞こえませんように!
「ルーナちゃん」
耳元で囁かれる。それは優しくて甘くて、熱のこもった声だった。
「好きです、ルーナちゃん。今も昔も、ずっとずっとあなたを愛しています」
わたしは耳を疑った。今なにか、ものすごく自分に都合の良い幻聴が聞こえた気が。
「ルーナちゃんにとっては俺は親友でしょう。恋愛の対象じゃない。わかっているんです」
わたしを抱きしめていた腕が解かれる。ゼストの身体が離れていく。
彼は困ったように眉を下げながらも、熱を帯びた眼差しでいった。
「それでも、今、どうしてもあなたに好きだと伝えたかった。あなたを愛しているといいたかったんです。好きです。愛しています、ルーナちゃん。千年前から今もずっと、あなただけを愛しています。愛しているという言葉では伝えきれないほどに、……ねえ、ルーナちゃん、どうか俺のことを男として見てくれませんか?」
夜色の瞳には切実さと必死さと、そして底知れない深い愛が宿っていた。
わたしはそれでようやく、これが幻聴でも妄想でもないことを理解した。このひとはわたしのことが好きなのだ。え……? ゼストがわたしを好き? 本当に、好き……?
雨粒のぽつりとした一滴が、たちまち大雨に変わったような心地だった。現実だと認識した途端に、ゼストの言葉が愛情の豪雨のように降り注ぐ。待って、待って、ちょっと待って。溺れそうな心地なのに全身が熱い。今のわたしは火のついた蝋燭よりも溶けている。
かあっと身体の芯まで熱くなりながらも、返事をしようとして口を動かした。あ……とか、う……とか、そんな呻くような声しか出てこない。だめだ。限界です。いっぱいいっぱいです。
わたしは言葉の代わりに、ぎくしゃくと頭を下げた。
頷いたつもりだった。わたしも好き、という言葉の代わりにしたつもりだった。
けれど頭上からあえて明るく振舞っているような声が聞こえてきた。
「すみません。突然こんなことをいわれても困りますよね。返事を急ぐつもりはないんです。いつでもいいんです。ゆっくりでいいから、どうか……。でも、それも難しいでしょうか?」
わたしが勢いよく顔を上げると、ゼストは苦しいのを我慢しているような笑顔を見せる。なんてことだ、明らかに何か失敗した。誤解させてしまっている。心臓がかっと燃えたように熱が入った。臆病な心が一瞬で消えていく。
わたしは膝に勢いをつけて、飛びつくようにゼストを抱きしめた。
「ルーナちゃん!?」
「好きだよ。ゼストのことが大好き。さっきのは考えるまでもなく好きって意味だよ!」
「……っ、俺の好きは、恋愛の意味ですよ?」
「わたしだってそうだよ!」
ゼストの両手がわたしの背中に回る。強く強く抱きしめられる。
わたしの存在ごと抱きしめようとするようだった。
その腕の中にすべてを閉じ込めようとするようだった。
それでいて、こらえきれない想いがあふれ出たかのようだった。
ゼストの腕が、服越しに伝わる温もりが、彼のすべてが、わたしを愛しているのだと伝えているようだった。
「好きです、ルーナちゃん」
「……わたしもね、大好き」
ゼストから与えられる熱にくらくらしてしまって、かすれた声でそれだけを伝える。彼はひどく嬉しそうに笑った。
「好きです。ルーナちゃん、あなたがルーンだった頃から、ずっとずっと好きでした」
「……ん、わたしも」
「……もしかしてルーナちゃん、照れていますか?」
ゼストが小首を傾げて、わたしの顔を覗き込むようにしていう。
近い近い! 全身の熱がさらに上がった気がして、わたしは思わず目をそらした。至近距離でなんてことを聞いてくるんだ、このひとは。
「べつに、照れてないけど……!?」
「照れていますね?」
「ちがいます~!」
「ルーナちゃん、可愛い」
「……っ」
わたしはうめき声を上げて陥落した。だから、その整った顔を嬉しそうに向けてきて、そんな甘い声で囁かないで欲しい。もうすでにいっぱいいっぱいなのに、これ以上はぐずぐずに溶けてしまう。
ゼストは蜜よりも甘い瞳でこちらを見つめて、とても真摯に囁いた。
「愛しています。今度こそ俺があなたを一生護ります」
その聞き捨てならない言葉に、わたしは少しだけ正気に戻る。すーっと深く息を吸い込んで、ぐずぐずの液体から固体に戻っていう。
「守るとかそういうのは、そこはお互いに協力してやっていこうね」
「いやです。千年前もいいましたけど、俺のほうがはるかに頑丈です」
「ゼスト」
「俺は今度は譲りませんからね。あなたときたらいつも平気で危険に飛び込んで行って、俺を置いていくんですから。たまには俺に守られてください」
恨みがましい口調でいわれて、わたしはそっと目をそらした。うん、この件に関してはわたしの分が悪い。千年前のことがあるからね。だけど、そうはいっても。
「ゼスト、わたしだって好きな人を守りたいよ」
「ルーナちゃん……」
「それに、好きになったのはわたしのほうが先だと思うんだよね」
「は?」
「わたしのほうが昔からゼストのことが好き。つまりわたしのほうが守る権利を多めに持っていると思わない?」
「思いませんよ! 守る権利ってなんですか!? だいたい俺のほうが先に好きです! そこは絶対そうです!」
「無理をしないで、ゼスト。そんなところで張り合わなくていいから」
「俺は事実をいっています!」
優しくポンと肩を叩いてあげたのに、ゼストは憤慨した顔になった。
だけどわたしが笑ってしまうと、たちまちつられたように微笑む。
「好きです。好きです、ルーナちゃん。何万回言っても足りない。あなたを愛しています」
甘くて、熱くて、ぎゅっと心の奥底まで沁み込むような響きだった。
わたしは喜びと照れが入り混じって、ついつい顔が緩んでしまう。だらしなくにやけた顔になっていそうで、わたしは隠すようにゼストの肩に額をぐりぐりと押し付けた。
「ゼストがわたしを好きなんて、嬉しい。夢みたい」
「俺の好意って露骨じゃありませんでしたか? あなたに気づかれていてもおかしくないと思っていたんですけど」
「あぁ、うん、好かれているのはわかっていたけど、友だちとしてかと思っていたから。それになにより、わたしはゼストをそういう意味でずっと好きだったから、ゼストにもその気があるという、願望混じりの思い込みをしてはいけないと自制していてね?」
ぱたぱたと両手を無駄に振りながら弁明すると、ゼストは嬉しそうに笑った。
「俺もずっとあなたが好きでした」
「うん。……嬉しい。わたしも好き」
「……っ、あなたに好きといってもらえるたびに、幸せすぎて、これが現実かどうか疑ってしまいます」
「安心していいよ。わたしも疑っている」
「駄目じゃないですか」
ゼストが吹き出す。
わたしも一緒になって笑った。お互いの鼻先をこすり合わせるようにして、くすくすと笑いあう。
それからふと、辺りがすっかりと暗くなっていることに気づく。夜の帳が落ちて、空には月が昇っている。星々が輝く中でも、満月はひときわ明るく夜を彩っている。
わたしは空を指さしていった。
「これが夢でも現実でも大丈夫。夜に月があるように、あなたとわたしはずっと一緒にいる。そう約束したでしょう?」
満ちることがあっても、欠けることがあっても。
姿を消すことがあっても、それは変わらずにそこに在る。
ゼストは愛に満ちた瞳で微笑んだ。
「ええ。約束を守ってくれましたね、ルーナちゃん」
夜色の瞳が、優しさと、底知れない熱を宿してわたしを見る。
わたしはどきどきしながらも、そっと眼を閉じた。
そして唇に重ねられた温もりは、この上なく甘かった。
完結です。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。