22.病めるときも健やかなるときも
特別室から解放されたときには、外は薄暗くなっていた。
アニーとシン君には、職員室に連行された時点で別れている。わたしは一度は寮へ帰る道を進んだものの、どうするか迷っていた。
男子寮は、女子寮とは校舎を挟んだ反対側に立っている。女子生徒が男子寮を尋ねるには、目的などを記載した届け出を提出した上で、昼間の時間に限定される。今からゼストに会うのは無理だろう。
───正攻法では。
わたしは周りに人の気配がないこと確認して、認識阻害の魔法を唱える。これは簡単にいうと姿を隠す魔法だ。わたしがいても認識できない。千年前でも使える魔法使いは限られていた高位魔法だ。男子寮へも見つからずに近づけるだろう。
わたしはそこに飛行魔法を組み合わせて、ゼストの部屋まで飛んでいった。
窓越しに見る室内は暗かった。ゼストも疲れたのだろう、椅子に腰かけてぼんやりしているようだった。わたしがコンコンと窓を叩くと、彼はこちらを向いて、それから眼を疑うような顔をした。慌てた様子でやってきて、窓を開けてくれる。
「なにをしているんですかルーナちゃん!!!」
「しーっ、寮監にバレたら怒られるから、こっそりね」
わたしが口元で人差し指を立てていったときだ。ゼストの背後、部屋の扉越しに、ノックの音がした。
『ゼスト君、突然すみませんね。昼間の件で、少し事情を伺えたらと思うのですが、今お話ししても大丈夫ですか?』
担任の先生の声だ。
まずい。
と、思ったのは、わたしもゼストも一緒だっただろう。
目と目が合う。お互いの意図がわかる。言葉を必要としないまま、ゼストはわたしの身体を抱きかかえて窓の外へと飛ぶ。
わたしは即座に二人分の認識阻害の魔法をかけた。ゼストは飛行魔法は得意中の得意だけど、認識阻害は苦手なのだ。
わたしたちは二人で夕暮れの空を飛んだ。
※
落ち着いて話せる場所を探して、学園の端にある寂れた温室の前のベンチにたどり着く。普段から人気のない場所だ。欠けた鉢植えの中で、草だけが元気に咲いている。赤く滲む空の下には、夜の涼しさを伝える風が吹き始めている。
わたしとゼストはペンキの剥がれかけているベンチに腰を下ろした。
ゼストがはああと、気が抜けたような大きな息を吐き出す。
「あなたに驚かされるのは慣れているつもりでしたけど、さっきのはびっくりしました……」
「ごめん、お化けが出たと思った?」
「いえ、光っていましたけど」
「お化けは暗闇で光るものだからね」
うんうんと頷いてから、わたしはゼストを見上げて尋ねた。
「あの後、大丈夫だった? ユリウス殿下は何かいってこなかった?」
「大丈夫ですよ。龍化する方法を教えてほしいとはいわれましたけど、その程度です。俺よりもルーナちゃんのほうが大変だったでしょう?」
「平気、平気。つがいパワーで乗り切ったわ」
きょとんとするゼストに、事の次第を説明する。
脅されたけれど、公爵家のご令息はひとまず引いたこと。当面は平穏な学園生活を守れるだろうこと。ただし、成り行き上とはいえ、わたしがゼストのつがいであると事実のように話してしまったこと。
最後について詫びると、ゼストは大きく首を横に振った。
「そんな、ルーナちゃんが謝ることじゃありませんよ。俺のせいで迷惑をかけてしまって申し訳ないです」
「ゼストのせいでもないってば。ま、あえていうならここは、二人でつがい伝説に感謝するところじゃない? やっぱりつがいには夢とロマンがあるからね~! つがいというだけで押し切れたわ。素晴らしい説得力よ」
「確かに、……こんなところで助けられるとは思いませんでしたねえ」
ゼストがしみじみという。
わたしはなんと切り出そうか迷った末に、直球で聞いてしまった。
「ユリウス殿下がわたしをつがいだといい出したのは、ゼストの気を惹きたかったからなの?」
殿下が龍化の話で突然キレた理由はわかったけど、そもそも灯花祭のパートナーになれといわれたところからして謎だったのだ。
「なんでわたしに話しかけてきたのかも、つがいだなんて嘘をついたのも意味不明だったんだけど、結局はゼストに構ってほしかったってことなの?」
「その言い方だと誤解が生まれる気がしますが……、まあ、そうなんでしょうね」
わたしを見つめる夜色の瞳は優しかった。いつものように穏やかだった。けれどそこには陰が滲んでいた。まるでひとり湖畔に立って、その足元に痛みを埋めたかのようだった。纏う空気には静けさがあって、悲しみや苦しみがあった。
ゼストは重い息を吐き出して、懺悔するようにいった。
「あなたに黙っていたことがあります。俺が庶民なのは本当ですし、千年間ほとんど寝ていたのも事実なんですが、昔、龍族国を守ったことが一度だけあったんですよ」
百年前に隕石が降ってきましてね、それを砕いたんです。
そう、ゼストは何でもないことのようにいう。
突然の隕石というフレーズに、わたしは思わずゼストを二度見した。そこもうちょっと詳しく! といいたくなってしまう。だけど何も言葉は出なかった。ゼストがあまりに思い詰めた顔をしていたからだ。
「その一件があって、フレイヤ王家の一部からは龍族の神様扱いされています。始祖龍と呼ばれることもありますね。ユリウス殿下は、龍族の神である俺が、自分には龍化の方法を教えてくれないのに、人族にばかり構っているのが不満だったらしいです。俺は神様ではないと何度もいっているんですけどね」
「えっ……」
わたしはショックのあまり言葉を失って、まじまじとゼストを見てしまった。
露骨に顔がこわばるのがわかる。ゼストが悲しそうな眼をするけれど、自分でもどうにもならない。だって、始祖龍ということは。
「───ゼスト、子供がいたんだ……?」
わたしが恐る恐る尋ねると、彼は耳を疑うような顔をした。
そしてすぐさまぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「いませんよ!? えっ、今の話でどうしてそんなことに!?」
「だって、始祖龍と呼ばれるってことは、奥さんとの間に子沢山だったんじゃ……?」
「あれは彼らが勝手に呼んでいるだけです! 俺が始祖龍だったら俺で末代になっていますから! ずっと独身です! 子供もいません!」
ゼストが焦った様子で力説する。
わたしは大きく胸をなでおろした。
「なーんだ、そっか。よかった、びっくりしちゃった」
よかった。本当によかった。今ちょっと本気で泣きそうだった。心臓がまだドキドキいっている。ときめきとは違う意味での動悸である。
「俺もびっくりしましたが……! いえあの、さっきの話の大事な点はそこではなくてですね」
ゼストが若干血の気が引いた顔をしながらも、真剣な眼差しで話を戻そうとする。
わたしはぽんと手を打った。
「あぁ、神様扱いされているって話? 隕石から国を守ったということは、龍化したんでしょう? ゼストの龍の姿は格好良いもんねえ」
前世の記憶の中にある黒龍の姿を思い出して、わたしはうっとりという。
誰もが目を奪われずにはいられない、強くおおきく、美しい。神秘的で厳かな夜の龍。
「龍族が龍化できなくなっているっていうのは驚いたけど、そんな中であの黒龍の姿を見たら、神様だと思ってしまう気持ちもわからなくてもないわ」
「ルーナちゃん、その褒め言葉はとても嬉しいんですけど、そういうことでもなくてですね……!」
ゼストが苦悩した顔でいう。
わたしが『ほほう、では何が言いたいんだね?』というポーズを作って待つと、ゼストは泣き笑いのような表情になった。
「ルーナちゃん」
「うん」
「俺は昔も今も、面倒で厄介な事情を抱えています」
「うん?」
「今回のことは俺が原因です。あなたを危険な目に合わせてしまいました。本当にすみません」
「ゼスト、それはちがう。ゼストのせいじゃない」
わたしはすぐさま否定した。
けれど夜色の瞳は曇ったまま、沈んだ声でいった。
「俺が傍にいると、あなたを危険に晒すことになります。千年前のあなたは、それでも一緒にいるといってくれましたね。返り討ちにすると笑ってくれました。それに俺がどれほど救われたことか……。あなたがいてくれたから、今の俺があるんです。……でも、今のあなたにかつての力はありません。だから……」
ゼストの声が震える。
「だから、あなたを護るための最善策は俺が姿を消すことです。わかっているんです」
「ちがう! そんなわけないでしょうが! ゼスト、わたしは───」
「聞いてください、ルーナちゃん」
わたしがなおも否定しようと口を開きかけたのを、ゼストはその静かな眼差しでそっと制した。
睨みつけるようにして、無言で見つめ合う。数秒の沈黙の後に、ゼストがふと息を零した。それは諦めたようでもあり、受け入れたようであり、不思議と愛に満ちているようでもあった。
「ルーナちゃん、俺は、最善が何かはわかっていて、わかっているけど、それでも、それでもあなたといたいんです」
ゼストは振り絞るような声でいった。
「あなたの傍にいたいんです。もう二度と離れたくないんです。俺のせいで危険な目に合わせたのに何をいっているんだと、心底思います。だけど俺は、あなたとの未来が欲しいんです。明日も明後日も、遠い未来の先まであなたと一緒にいたいんです。ひどいわがままをいっているとわかっています。それでも俺は、今度こそ最後まであなたと一緒にいきたいんです……!」
それが行きたいなのか、生きたいなのか、逝きたいなのか。
わからなかったけれど、どれであっても構わなかった。
わたしはゼストの震える手をぎゅっと握りしめた。
「一緒にいよう! ずっとずっと一緒にいよう!」
夜色の瞳が驚いたように見開かれる。
わたしはぐっと背筋を伸ばした。ゼストの眼をまっすぐに見つめる。
ゼストは優しくて真面目で責任感の強いひとだ。わたしが傷つくことを何よりも嫌がって、自分を責めてしまうひと。
「あのね、ゼスト。あなたのせいじゃないんだよ。昔も今も、ゼストのことを勝手に決めつけて、自分の思い通りにならなかったら攻撃してくるような連中がいる。それは、そのひとたちが悪いんだよ。ゼストは何も悪くない。ゼストのせいじゃない」
ゼストの瞳が歪む。泣き出しそうに、苦しそうに。
あぁ、これがわたしの嘘偽りない本心だと、この胸を切り拓いて見せられたらいいのに。それが叶わないならせめて、この気持ちが伝わりますように。
「誰かがわたしを攻撃してきたとしても、その誰かがあなたを理由にしたとしても、そんなのは間違っているんだよ。ゼストは悪くない。たとえあなた自身が自分が悪いんだっていっても、わたしは絶対に否定するからね! あなたは悪くない!」
ゼストが視線を落とし、震える息でいう。
「……ルーナちゃん……。でも、俺の事情にあなたを巻き込んでしまったことは事実で……」
「巻き込んでよ」
わたしは笑っていった。
「ゼストの事情にわたしを巻き込んで。それが一緒に生きるってことでしょう? わたしを守るためにって遠ざけられるほうが悲しいよ。あなたの人生にわたしを巻き込んでほしい」
夜色の瞳が耐えきれずというように閉ざされる。
その瞼のふちから雫があふれ出て、頬をつたっていった。
次話で完結です。