15.夜には月がのぼるもの
教師への報告を終えてから、俺の数少ない龍族国の友人にも知らせを出しておく。
ユリウス殿下の侍従たちは、本国への報告の中でも殿下を庇うだろう。予想はついていたので、俺なりに根回しをしておいた。
それから寮の自室に戻り、大きくため息を吐く。
窓際の椅子に座って、すでに薄暗くなっている外を眺めた。
面倒だなと思う。俺の抱えている事情というのは、昔も今も面倒だ。何もかも放りだしてしまいたいと思ったことは、一度や二度じゃない。
※
……千年も昔、俺が本当にまだ子供だった頃、俺が物心ついて真っ先に覚えたのは媚びるように笑うことだった。俺は一族で唯一の黒龍で、一族の汚点で、忌まわしい子供だった。本来なら存在してはいけないものだった。族長の孫だから殺されずに済んでいたらしいが、その族長からも優しい言葉をかけられた記憶はない。
俺はいつも必死でへらへらと笑っていた。辛いことなんて一つもないような顔をして笑っていた。何をいわれても平気な振りをして、暴力を振るわれても我慢して、笑顔を浮かべ続けた。それでいつかは、俺を抱きしめてくれる人が現れるんじゃないかと思っていた。我慢していたら、頑張っていたら、俺にもいつか、ほかの子供たちと同じように、俺に笑いかけてくれる人が現れるんじゃないかと夢見ていた。
それが夢にすぎなかったことを思い知らされたのは十三のときだ。
俺は族長の手で魔法を封じられ、鎖につながれ、廃墟の中にある塔に閉じ込められた。当時の龍族は人族のようには食事を必要としなかった。俺も辺りに漂う魔力元素さえあれば生きていけた。誰もいない牢獄の中で、たった一人で、死ぬまでの長い長い間を生きていけてしまえるとわかっていた。
殺してくれと俺が喚きだすまでには、数日で足りた。
俺の努力も、我慢も、全部全部無駄だった。俺に未来なんかなかった。俺はそれを絶望の底で理解して、せめて苦しみから逃れようと眼を閉じた。眠りたかった、永遠に。
……次に俺が目を開けたのは、塔の扉がきしんだ音を立てたときだ。魔物が来たのだと思い、俺はこの期に及んで恐怖に震えた。殺してくれと願っていたはずなのに、実際に魔物の餌になることを考えると、恐ろしくてたまらなかった。
俺はがちがちと歯を震わせながら、開かれていく扉を見つめ続けた。
外は夜だった。外気がなだれ込んでくると、まず最初に松明を握った細い腕が姿を見せる。それから、光を弾く長い金の髪と、まるで瑞々しい若葉のような瞳が、ひょっこりと中を覗き込んできた。
「よーしよし寝泊まりはできそう……」
俺と彼女の、目が合った。
「おっ、お化けえええええええ!!!」
それが、俺を見たルーンの第一声だった。
こんな廃墟の中のさびれた塔に、生きているひとがいるとは思わなかった。ごめんなさい。後日そうルーンには謝られたが、俺は気にしないでくれと笑った。
彼女は大聖女と呼ばれるほどの強い魔法使いで、魔物たちの王を倒すための旅をしているのだといった。「まあ、立派な志があるわけじゃないし、やるしかないからやっているだけなんだけどね」と自虐気味にいう彼女に、俺は微笑んだ。
俺は俺の事情を明かさなかった。
いかに強い魔法使いでも、人族の女の子一人に、龍族の長がかけた封印を解けるはずがない。俺は彼女に何も期待していなかった。こんな場所に閉じ込められていることも、鎖で繋がれていることも「いろいろあったんですよ。でも、大丈夫ですから」というだけで済ませた。
憐れまれたくないというほどの強い気持ちがあったわけではない。俺はただ面倒だったのだ。説明することさえも。何もかもが。
しかしルーンは、一目で俺の封印には気づいていたらしい。三日経った頃には、封印を解こうと躍起になっていた。俺はそれをへらへらと笑いながら見ていた。俺の心は凍ったようになってしまっていて、何も感じなかった。
廃墟にある塔の中で、鎖につながれた龍族を相手にしている。
それは人族にとって異様な状況だったはずだ。けれど彼女は怯えることも警戒するそぶりもなく、普段通りといった様子でいろいろな話をしてきた。俺の封印を解くための魔法を試しながら、その合間に他愛のないお喋りをしてきた。
「ゼストは甘熱樹の実を食べたことはある?」
「ないですねえ」
「あれって意外と美味しいんだよ。夕焼けを見てたら思い出しちゃった」
「ああ、毒々しい赤さがありますよね……、美味しい?」
「そう、真っ赤に熟した頃にもぐのが一番甘くてね。今度見つけたらゼストの分も取ってくるね」
「あれは、人族には毒では?」
「えっ」
「たしか毒だったかと」
「うっそ。わたし、普通に食べてたよ!? 見つけるたびに喜んでもいでたのに!?」
「あー……、魔物の毒に対抗する魔法をなにか使ってます?」
「使ってる……! そういうこと!?」
「今まで無事でよかったです」
「わーん、ごめんねゼスト、ゼストにも毒のある果物をプレゼントしちゃうところだった!」
「いや、龍族には効かないから大丈夫ですよ」
「そうなの? よかった。……ハッ、効かなければ食べられるなら、わたしも食べても問題ないんじゃない?」
「閃いた! みたいな顔をしないでくださいよ」
ささやかな話だった。
彼女と交わした会話は、どれも、廃墟にある塔には似つかわしくないほど平凡なものだった。滅びかけている世界にはそぐわないほど日常のものだった。
鎖につながれた忌み子には、不釣り合いなほど穏やかで優しい時間だった。
───それが、俺にとってどれほど飢えていたものだったか。
気づきたくなかった。知りたくなかった。だって今さらだ。
……なにも感じたくないのに、彼女の声が、笑顔が、俺の心を揺らしていく。
やがて三週間が過ぎた頃だ。
彼女は毎日毎日頭をひねり、新しい構成の魔法を試し、何とか封印を解こうとしていたが、俺はいい加減嫌気がさしてきていた。耐えきれなかった。どうせその内には彼女もいなくなり、俺はまた一人に戻るのだ。わかり切った結末だというのに、その未来を考えるとひどく苦しかった。
だからいった。
「そろそろ次の街を目指したほうがいいんじゃないですか? この辺りじゃ、食料の補充をするのも難しいでしょう?」
俺は親切そうな声を出して、穏やかに微笑んだ。
「あなたには大事なお役目があるんですから、いつまでもこんな所に留まっていたらいけませんよ。俺のことなら心配いりません。大丈夫ですよ」
本当は大丈夫じゃなかった。行かないでほしかった。俺を置いていかないで。狂いそうなほどに心はそう叫んでいた。だけど同時に俺は知っていた。いずれ彼女はいなくなる。済まなそうな顔をして、封印を解けなくてごめんねと申し訳なさそうな顔をして、ここを出て行くのだ。いつか来るその日を怯えながら待つくらいなら、自分の手で終わりにしてしまったほうがいい。そう思いながら笑う俺に、彼女はいった。
「え、いや、封印が解けるまでいるよ?」
あっさりした口調だった。俺へ向ける顔は怪訝そうですらあった。なにをいい出したの? といわんばかりの顔で見られて、俺のほうが戸惑った。
「大事なお役目があるんでしょう……?」
「あなたを解放することも大事だよ。というか、こっちのほうが大事」
「そんな……、そんなこと……」
あるはずがない。彼女は世界を救うために旅をしているのだ。俺の存在なんて、天秤に乗せるまでもなく軽いはずだ。
「だって、ほら、わたしとゼストは、もう寝食を共にした仲間というか、その……」
ルーンはなぜか照れた顔になっていった。
「わたしたち、とっ、友だちじゃない!?」
「……ともだち……?」
「そんな聞いたことのない単語を耳にした人みたいな顔をしないで!? わたしの中ではもうゼストは友だちだから! いや、友だちって人生で一度もいたことがないから、わたしの態度とか距離感とかおかしいのかもしれないけど! でも、わたしは、友だちだと思っているから……」
ルーンは耳まで赤く染めて俯いた。
俺は呆気にとられたまま、じっと彼女を見つめていた。
やがて俺は、いま俺が口にするべき言葉が何なのかを、ようやく気がついていった。
「俺は龍族の忌み子なんですよ」
「うん。……うん……?」
彼女が戸惑った様子で顔を上げる。
俺は視線を落として続けた。
「俺は一族の汚点で、存在してはいけない黒龍です。俺を封印したのは龍族の長です。人族のあなたに解くのは無理です。……でも、あなたの気持ちは嬉しかったです。本当に」
俺はそのとき初めて、生まれて初めて、心から笑えた気がした。視界は曇って、頬は濡れていたけれど、俺は自然と微笑むことができた。
「もういいです。もう十分です。どうか行ってください。俺の事情に、これ以上あなたを巻き込むわけにはいきません。俺は大丈夫です。自分で何とかしますから……っ」
彼女の手がぐいと俺を引き寄せて、その胸に抱きしめられる。
俺の頭を抱え込むようにして、彼女は叫んだ。
「一緒に行こう!!! 絶対にこの封印は解くから! ここを出て、一緒に美味しいものを食べに行こう! 綺麗な景色を見たり、空を飛んだり、楽しいことをたくさんしよう!」
「……駄目です。俺が……、俺がいたら、龍族はあなたの敵になる……っ」
「そんなもの返り討ちにしてやるわ! いくらでもかかってこい! 一緒に行こう、ゼスト。一緒に、楽しくて幸せで、なんかこう、お月様みたいにキラキラしてる人生を送ろう!」