13."夜”
真っ暗な闇の中でも、ゼストの姿だけは見える。
それはそうだ。不思議なことじゃない。この夜は彼の魔法、ここは彼の支配下なのだから。
「ルーナちゃん、無事ですか!? 怪我は!? どこか痛むところは!?」
焦った顔のゼストが、わたしに異常がないか確認するように、腕や肩に軽く触れる。
わたしは慌てて頷いた。
「だ、大丈夫だよ。久しぶりだから少し驚いちゃっただけで……」
怪我はないよといいかけて、わたしは窓の外の光景に気づいて叫んだ。
「ゼスト! 外、外!!」
「外が見えないんですか!? 視力に問題が!?」
「見えているよ、ばっちり見えてる! 地平線の彼方まで真っ暗になっているのが!!」
窓の外に広がる景色はすべて夜だ。
人族国の全土、いや下手をしたら龍族国まで"夜”が降りているかもしれない。
そう慌てふためくわたしの前で、ゼストはホッと胸をなでおろした顔でいった。
「よかった、眼は大丈夫なんですね」
「よくない! バレたら大騒ぎになるでしょう!? 今すぐ閉まって! "夜”を広げすぎだって!! もっと小さくして!!」
「あぁ……、緊急事態だったので、仕方ないですよね」
そういいながらもゼストが手をかざすと、そこにするりとすべての夜が集まって一瞬で消えた。
太陽の光が戻り、人工の灯りも息を吹き返す。
クラスメイトたちはまるで一斉に立ち眩みを感じたかのように、頭を振ったり、机に手をついたりしている。教室の中には戸惑いのざわめきが満ちた。
ゼストにしか使えない特殊な魔法の一つ“夜”が展開されている間は、どの種族であろうとも、龍族ですら例外ではなく、意識を保てない。生きている者だけでなく、灯りや光といった、あらゆる熱源も呑みこまれる。よほど強大な能力を持っているなら別だけれど、そうでなければ心が夜に溶けだして、夢うつつの状態になってしまう。
昔と違って魔力の少ない今のわたしが起きていられたのは、ゼストがそう意図したからだろう。わたし以外でかろうじて意識を保つことができていたのは……。
「なぜ……っ、なぜそんな女を……っ!」
呻くような声が上がる。
さすがとというべきか、腐っても龍族の王子様だというべきか。性格は悪くても能力はずば抜けている。
それでも立ってはいられなかったらしい。ユリウス殿下は床に膝をついて、ぜいぜいと荒い呼吸を吐き出しながら、今にも噛みつかんばかりの形相でこちらを見ていた。
ゼストはわたしを庇うように前に立つ。それからちらりと振り向いて尋ねてきた。
「何があったんですか?」
「ええと……、殿下がわたしのことをつがいだっていい出して、わたしがそれなら龍の姿になってから言ってほしいって返したら、怒って攻撃魔法を放ってきた……?」
改めて説明してみても意味がわからない。殿下ちょっと短気すぎない? 千年前の龍族だってここまで突然キレたりしなかったぞ。
わたしの困惑を察したのだろう。ゼストは気まずそうな顔になっていった。
「ずいぶん古い話を知っていますね、ルーナちゃん」
前世のことには触れないように指摘しようとする言い回しだ。どうやらわたしはなにか間違えていたらしい。
「昔の文献で読んだ覚えがあったんだけど……、もしかして、今の時代では禁句だった?」
「禁句というか、今はもう、ほとんどの龍族が龍化できないんですよね」
えっ!? と叫んだのはわたしではない。意識を取り戻した公爵家のご令息だ。彼以外の生徒たちも動揺を隠せない。だって龍族といったら、人の姿を取った神様、本来は大いなる龍であるというのが今の時代の常識だ。
千年前の常識を持っているわたしでさえ、驚きで声が出なかった。神様だとは全く思わないけど、龍族といえば龍化して我が物顔で空を飛んでいたはずだ。
それが、龍化できない?
「黙れ……っ! でたらめをいうな! そんなのは大嘘だ! なぜっ、なぜあなたがそんなことを……!」
ユリウス殿下が血を吐くような声で叫ぶ。床に爪を立て、必死に立ち上がろうとしているが叶わない。ゼストの夜が彼を抑え込んでいるからだろう。
殿下の青の瞳は、激しい怒りに満ちていながら、縋りつく子供のようでもあった。
ゼストは冷ややかな口調でいった。
「殿下、その見栄のために人を殺しかけたことがわかっています? できないものはできないでいいでしょう。取り繕うために攻撃魔法を放つなんて最悪です」
「僕はっ、龍族の名誉のためにやったんです! その女が、たかが人族のくせに我らを侮辱したから!!」
ゼストは無言になると、くるりと私を振り向いて笑った。
その夜色の瞳には温度というものがなかった。まずい。これはものすごく怒っている。
「ゼスト、あの」
「ルーナちゃん、ユリウス殿下の素性をご存じですか? 殿下は実は龍族国の第一王子で、王太子なんですよ」
「へ、へえー、そうなんだ、初めて知ったわ。ところでゼスト」
「殿下には母親のちがう弟君がいましてね。今の時代、王族でも龍化できるのはごく少数なんですけど、異母弟の第二王子殿下はなんと龍化できるんですよ。あはは、凄いですよねえ」
「ゼスト、待って、ちょっと落ち着いて」
「ちなみにユリウス殿下は龍化できません。王太子殿下なのにぐッ」
最後までいえずに語尾がくぐもったのは、わたしが手で物理的にゼストの口を塞いだからだ。
わたしは彼の夜色の瞳を覗き込んでいった。
「ゼスト、わたしのために怒ってくれるのは嬉しい。本当に、ゼストの気持ちは嬉しいよ。でも、相手が最も傷つくとわかっている言葉を、あえて口にするのはやめておこう。あなたは優しいから、あとで絶対後悔する」
ゼストの眼が見開かれて、それからゆるゆると元の位置へ戻っていく。
彼はわたしの手をそっと掴んで口元から外すと、ため息混じりにいった。
「優しいのはどちらだか。ルーナちゃんのお人好し。あなたは殺されかけたんですよ」
「うん、まあ、生きているからね。ゼストが守ってくれたから」