12.龍の王子様によるつがい事変
中間試験終了のベルが鳴る。
今日はこれで授業は終了だ。
教室内には開放感が溢れていた。
わたしも埋めきれなかった解答用紙のことは忘れることにした。人生にはもっと大切なことがある。たとえば、好きな人にダンスのパートナーをお願いするとかだ。
中間試験が終わった打ち上げで、この後は四人で遊びに行くことになっている。「途中で二人きりにしてあげるから頑張ってね」というのは、昨日のアニーからの笑いを含んだ囁きだ。親友は絶対に面白がっている。シン君まで「俺も応援している」と真顔でいい出すのでいたたまれなかった。
試験の後、ゼストは先生に呼ばれて教室を出て行ってしまったので、わたしは先に帰り支度をすることにした。今からもう緊張のあまり指が震えそうだ。心臓が飛び出してきそうなほど激しく鳴っている。
落ち着こうと、深呼吸をしたときだ。
「ルーナ・ファリア」
「はい?」
フルネームを呼ばれて顔を上げたわたしの前に、ユリウス殿下が立っていた。
───え? なんで?
人族がゴミに見えていると評判の殿下が、どうして話しかけてきたのだろう。
わたしがゼストのことで頭がいっぱいになっている間に、教室内でなにか起こっていたのだろうか? 戸惑いながらも助けを求めて周囲を見回したけれど、クラスメイトたちも皆一様に驚いた顔でこちらを見ている。どうやら、誰にとっても異常事態らしい。
わたしは及び腰になりながら、恐る恐る尋ねた。
「あの、なにか……?」
「僕の灯花祭のパートナーになれ」
無言で、まじまじと王子様を見返す。
ユリウス殿下はにこりともしないままいった。
「留学してから君をずっと見ていた。ようやく確信が持てた。僕のつがいは君だ」
教室内がざわめきで大きく揺れる。
視界の隅で、公爵家のご令息が倒れ込みそうになって友人たちに支えられている姿が見える。シン君が呆気にとられた顔をしているのも、アニーが口元に両手を当てて眼を輝かせているのも。
きっと、周りから見たら、傲慢な物言いではあるけれど殿下なりの愛の告白なのだと思えるのだろう。わたしはゼストのつがいだと思われているから、泥沼な恋の三角関係に見えているのかもしれない。
だけど、王子様の正面にいるわたしは思う。
───こんな冷たい眼で告白するひと、いる!?
ユリウス殿下の青い瞳からは、愛ではなく敵意が伝わってくる。どう見ても好きな人へ向ける眼差しじゃない。どちらかといえばこれは、蔑み、見下している相手へ向ける眼だろう。
嘘の告白にしか思えないけれど、何が目的なのかがわからない。
黒龍のゼストへの嫌がらせだろうか? わたしを自分の手元に置くことで、ゼストを孤立させたいのか。
わからないけれど、相手は龍族国の王子様だ。
どの程度の地位にいるのかは知らないけれど、それでもフレイヤの姓を名乗ることのできる龍族だ。お断りするにしても、下手なことはいえない。国際問題になってしまう。
わたしはぎこちない笑みを浮かべながらいった。
「もったいないお言葉ですわ、殿下。身に余る光栄にございます」
「ふん、やはりな。人族の女の考えは見え透いている。同じ龍族なら庶民より王族を選ぶ、媚びを売るしか能のない種族だ。だが、許してやる。僕は寛大だからな」
「……ですけど、殿下。わたくしは卑小な人族の娘にすぎません。長き寿命と強大な力を持つ龍族の王家の方に釣り合うような女ではございませんわ。どうかご容赦くださいませ」
「卑小な身だと弁えているなら泣いて喜んで跪け。感謝の言葉を尽くすがいい。安心しろ、能力も寿命もつがいには関係がない。卒業後は、僕とともに龍族国へ来るんだ」
わたしのぎこちない笑顔がぴきぴきと引きつった。
何をふざけたことを好き放題に抜かしているんだ。人の話を聞け。ルーンの頃だったら強制的に黙らせているところだぞ。なーにが媚びを売る種族だ。今だってお前に床とキスをさせてやりたい気持ちでいっぱいだぞ。
……でもって、やっぱり存在しないんだね、つがいって。
わたしは腹立たしい気分の中でも、おおよそを悟っていた。
ユリウス殿下がわたしを“つがい”だといい出したのは、それが龍族にとって何の責任も生じない言葉だからだろう。つがいなんて存在しないからこそその言葉を選んだ。
これが「結婚してくれ」あるいは「婚約を申し込みたい」、そういった言葉を皆の前でいったなら、それは冗談では済まされない。いくら人族を下に見ていようと、龍の王族として己の言葉に責任を持たなくてはならない。
だけど、学園に残る伝説にすぎなくて、龍族のゼストが「聞いたことがない」という“つがい”なら、話は別だ。
仮にわたしがユリウス殿下の言葉を本気にして、龍族国までついていったら、最後にはこういわれるにちがいない。
『つがいなんてただの作り話だろう。そんな冗談を鵜呑みにするなんてどうかしているな』
そう、せせら笑う姿が目に浮かんで、わたしのこめかみには怒りの青筋が浮かんだ。
なるほど、ゼストのいう通り龍族は千年経っても相変わらず傲慢だ。あぁ腹が立つ。これだから嫌いなんだよ、龍族は。力は強くても昔から性格が最低すぎる。
わたしは礼儀正しいお断りの定番の台詞をつらつらと思い浮かべた。しかし、そのどれもが王子様の力づくで無視されるだろうという結論に達する。なにをいっても聞く耳を持たないだろう。最初から好意なんて微塵もないのだから。
いいわ。そっちがその気なら、こちらにも考えがある。
わたしはにっこりと微笑んでいった。
「殿下、でしたらどうか、龍化していただけませんか?」
「───なに?」
「わたくし、古い文献で読んだことがあるのです。龍族の方の正式な求婚は、龍の姿になって、自らの魔力で黄金の雫を降らせることで行うのだと。とても素敵だと思いますわ。わたくしもぜひそんなプロポーズを受けてみたいのです」
きゃっ恥ずかしい、言ってしまったわ。
両手で顔を覆って無垢な少女の振りをしつつも、内心では舌を出してやる。龍化しての正式な求婚なんて絶対にできないでしょう? ゴミのように見ている人族相手だものね?
まあわたしが知っているのは千年も前の手順だから、今は多少ちがっているかもしれない。
しかし、龍化した状態で口にする言葉は龍族にとっては重いのだ。
千年前には散々龍族ともやり合ったから知っている。つがいという言葉で騙そうとしても、龍の姿でいうなら冗談だったでは済まされない。
恥じらう振りをしつつユリウス殿下を見ると、彼は明らかに追い詰められた顔をしていた。
「───っ、生意気をいうな! 龍の姿は人族ごときに軽々しく見せるようなものではない!」
「ええ、だからこそですわ。わたくしが真に殿下のつがいであり、運命の相手であるというのなら、龍の姿を見せていただくこともできるはずだと思いますの」
幸い、学園には広いグラウンドもある。龍化しても周りを壊してしまう心配はないでしょう? と、にこやかに微笑みながら続ける。
「それとも殿下、なにか龍の姿を取れない事情がございますの?」
「貴様……ッ!」
「あぁ、申し訳ございません。無理を申し上げるつもりはありませんの。どうしても殿下が龍化はできないと仰るなら、それで構いません。わたくしがつがいだというのも、なにか誤解があったのでしょう。ええ、本物の運命の相手でしたら、龍の姿になれないはずがございませんもの」
ぐっと押し黙った殿下に、内心で勝利を確信する。
実際は龍化とつがいには何の関係もないけれど、そこは強引に押し切ってやる。要は殿下がつがい発言を撤回させて、引き下がらせることができたらいいのだ。いくら殿下の性格が最低でも、嫌がらせに人生は賭けられないはずだ。ひとまずこの場をしのげればいい。あとのことはゼストと相談しよう。
……そんな風に考えていたから、気づくのが遅れた。
ユリウス殿下が凄まじい形相でこちらを睨みつけていた。静まり返った教室に、ぜえぜえという荒い呼吸音が響く。殿下の青の眼は血走っていた。その手が震えながらわたしを指す。
「貴様……っ、貴様ごときが、この僕を侮辱するのか……ッ!」
え? そんなに怒ることだった?
わたしが戸惑った瞬間に、詠唱が響いた。
ユリウス殿下の指先から、雷を纏った矢のような攻撃魔法が放たれる。
わたしはそれを呆気に取られてみていた。
───あ、まずい。これを食らったら死ぬかも。
───え、なんでキレてるの? 嫌がらせしてきたのはそっちでしょ?
───いや、そんなことを考えている場合じゃない。防がないと。
時間の流れがひどくゆっくりと感じられた。まるで走馬灯のように、一瞬のうちに思考の断片がいくつも浮かび上がってきて、まとまらずに消えていく。防御魔法を考えると同時に手遅れであることを理解する。
最後に思ったのは『わたしもずいぶん平和ボケしちゃったな』ということだった。
ルーンだった頃なら反応できていた。防いだ上で即座に反撃に移っていただろう。
だけど今のわたしはボケっと突っ立っている。だってもうルーナで、この平和な世界で楽しいことを満喫するつもりで生きてきたから。もう生きるか死ぬかの戦いなんてしなくていいと思っていたし、したくなかった。友達と遊びに行ったり、好きな人に告白したり、そういうキラキラな人生を送るんだと思っていた。
だから雷を纏った矢が眼前に迫るこの一瞬でさえ、後悔する気持ちがわいてこない。だって平和に暮らせる人生を夢見ていたから。今のわたしはかつてのわたしが抱いていた憧れそのものだから。
───あぁだけど、ゼストがまた泣いてしまう。
そう思った瞬間に、身体が動いた。どうにか直撃を避けようとする。だけど間に合わない。雷の矢が、わたしの胸を貫こうとして───……。
そして、世界に夜が訪れた。
真っ暗だった。太陽の光も、教室内の照明も、迫り来ていたはずの雷の刃すら見えない。視界は効かず、すべては夜に塗りつぶされている。
月が輝くことすらない完璧な夜。
悲鳴一つ上がらない。明かりを灯す魔法一つ紡がれない。
なぜならすべてはこの夜に溶けだしているから。あらゆるものを溶かし呑みこむ夜。巨大な神の手の内に閉じ込められたかのように、抵抗の意志すら保つことのできない絶対的な夜。千年前の龍族が恐れた力。それは、
「ルーナちゃん!!!」
ゼストが、教室に飛び込んできた。