元小国の城2
ルドルフは女将さんにお礼と謝罪を告げて、宿の扉に手を掛けた。金属の冷たいノブを握る。力を籠めて押す。木製の扉は重たく一瞬の抵抗を見せてから、二人に道を譲った。
そよ風が心地の良い喧噪を室内にまで届ける。陽気に紛れた感動が鳥肌を作る。瞳孔がぎゅっと狭まる。尚も、眩しい。まるで二人の門出を祝福しているように。
レジャーシート、お弁当、パラソル。そんなものは一切ない。身軽になった二人の旅がようやく始まったのだと。正午を知らせる鐘がゴングのように鳴った。
二人は街を並んで歩いた。目的地はない。
昨日も見た街並みは、太陽に照らされているせいか心境変化したせいか違ったように見えて、しかし新しい街のそれと比べてはいくらか刺激が足りない。それでもルドルフは脳裏に焼き付けておくべきものを探した。
記憶の頁に認める価値のあるものは何もなかった。
ルドルフはこの街に着いてすぐから城での勤務を開始して、街の観光は後回し、終ぞその時は訪れなかったから、地図に書かれている以上のことはほとんど知らない。それは城に住んでいたノクターナも同じで、30分もすれば当初の気持ちも萎れていた。
ただ、期待感が膨れ上がって実情を上回りすぎていたのだと思う。長いこと追い求めてきたのだから何か良いことがあるはず、何かが変わるはず。劇的なんてないのに。
そして、ほとんど必然のように、二人はそこに辿り着いた。
「結局、僕たちはここに来るんだね」
「俺たちじゃなくても、旅人ならここに来る」
それを免罪符にするように。ルドルフは小さな城の一番高いところ、ノクターナはかつて自分が見下ろしていた場所を見上げた。
大きさはそれほどでなくとも存在感は十二分にある。風貌も装飾も、壁についた傷の位置ひとつだってお同じように見える。しかしもうそこには誰もいない。恰好だけのハリボテだ。
城の近くにある広場は、前回来たときとは違い静かだった。演説をしている人もいなければ聴衆もいない。無言で通り過ぎる人はいても、立ち止まっているのはルドルフたち二人だけだ。
そんな広場に見覚えのないものがあった。それは小さな掲示板。端に縮こまって主張が乏しく人に読ませる気のない掲示板。変化したことを探し求めていたからだろうか。それがやけに気になった。
ルドルフが吸い込まれるように向かうと、一歩遅れてノクターナも続く。
五枚ほどしか張り出せない掲示板には一枚の紙と強引に剥がされた痕跡がひとつ。
『七月から期間限定、お城を一般公開』
まるで新商品の広告のように。
不快感に顔を歪ませながらルドルフはノクターナを見遣った。ノクターナは笑顔を作ったまま、両手に拳を握っていた。
「ねえ、ルドルフ」
声色は至って平静だった。
「お城に忍び込まない?」
突拍子もないことを言うものだから、ルドルフは耳を疑った。真意を探るべくノクターナを見遣った。
「本気?」
「本気。良い侵入経路を知ってるんだ」
顎で城の方を差しながら微笑むノクターナは、無邪気な子供のようだった。リスクを説くことはできたけれど、その笑顔を壊したくはなくて、最後くらい良いかと思って、ルドルフは頷いた。
二人組の警備員が見張っている正面を通り過ぎ、良い侵入経路へと向かう。
「一度だけ、秘密の道を使ってお城から抜け出したことがあったんだ。あのときは偶然街にいたリナに連れ戻されて、こっぴどく怒られたけど」
ノクターナの声色が楽しかった記憶だと物語っていた。
「侵入経路は、そのときに直されなかったのか?」
「うん。――大丈夫だよ、僕たちしか知らないから」
なんともザルな警備である。
ノクターナの後ろに続くこと数分、二人は城の側面に到着した。ノクターナが立ち止まったから、この辺りに良いの侵入経路があるのだろうと思って周りを見渡す。
城を守るための城壁は今も堅牢さを保っている。近くにそれらしい建造物は何もなく、侵入経路があったとしてそれは外からも丸見えだろう。地下道なのかと視線を下に動かせば、しかしむき出しになった地面に隠せそうなところはない。
しばらくそうしていると、ルドルフの様子を無言で見守っていたノクターナが笑いながら言った。
「ここにはないよルドルフ。この壁の向こう側」
ルドルフは揶揄われたのだと気付いて、しかし何かと喚くのもみっともなく感じられて、明後日の方向に不貞腐れるだけにした。
ノクターナは杖を取り出すと、何時ぞやと同じように、氷の梯子を作った。
「魔法って便利だな」
「まあ、それが魔法だからね」
まずはルドルフが梯子に手を掛けて、ノクターナがそれに続く。細い城壁に二人が並ぶと、今度は花束ではなく真っ当に梯子で降りた。あれは少し目立ちすぎる。
降りた場所は初めてルドルフとノクターナが出会ったトイレの近くだった。懐かしいなんて思いながらそこを素通りして、ノクターナはまっすぐ進む。
庭園の外れ。少しだけ荒れた木々や濁った池、つる草の生えた石垣が、手入れをする人がいなくなってからそう長くないことを思わせた。鬱陶しいと耳を閉ざしていたかつての喧噪が今も聞こえるようで、しかし現実とのギャップにルドルフは落胆する。両耳に手をあてがっても、聞こえるのはノクターナの呼吸音くらいだ。
「あそこを見て。ここからじゃ見えにくいけど、中へ続く隠し通路があるんだ」
ルドルフはノクターナの指の先をじっと見つめた。
庭師の技術の賜物だろう。所々錆びた重い金属の扉が、庭園の装飾で不自然のないように隠されていた。何の情報もなしに見つけ出すには相当の根気と運が要る。
「それは、俺みたいな部外者に教えて良いものなのか?」
「大丈夫だよ。どうせもう使われないし、それに教えたって誰にも言わないでしょ?」
ノクターナは明るくそう言って、ルドルフはどんな顔をすれば良いのかわからなくなった。曖昧な表情で頷く。
金属の扉を押すと、先には狭い通路が続いていた。ノクターナが入ったのを確認して力を抜くと、重量で扉は自動的に閉まり、灯りの一切ない通路は真っ暗闇になる。外部から遮断されている故か冷たい空気が充満していて、ルドルフは身体を小さく震わせた。
ぼんやりと、ノクターナが持つ杖の先が光って通路が照らされる。暗がりでライトに群がる羽虫のように、杖の近くでは埃が舞っていて、最近は誰もここを通っていないことを示していた。
「秘密基地へ向かってるみたいでちょっとわくわくするね」
声がくぐもって反射する。
すれ違うのも難しい程度の広さでノクターナに先行されては表情を確認できず、複雑だろうノクターナの心境を正確に読み取ることができない。
「――俺は逆に戦々恐々としてるけどな」
「どうして?こんな経験めったにないのに」
「普通はな。こっそり侵入するのも秘密の通路を使うのも既出の手段だ」
出口のわからない一本道を二人は進む。殊の外長い通路は途中で上へと続く階段があって、一段一段が高くルドルフの体力を奪っていく。
「それに、出た先で誰かが待ち構えているかもしれない」
「そのときは僕がルドルフに花束を手向けるよ」
「俺死んでないか?」
そんな冗談を交わす。
しかし心配が無用のはわかっていた。正面の入口に立っていた二人組以外警備がいないのではというくらい、城の中が静かだった。足音や話し声はひとつとしてない。警備をザルにして侵入者をおびき寄せる罠を張っているのではと錯覚するほどに。
しばらく階段を上った先。ノクターナが杖を前方へと振った。
外にあった重工な扉と違い、そこは木の板で蓋をするように閉ざされていた。ノクターナが小さな取っ手を握って押し込むと蓋は用意に外れ、どうやら二重扉になっているようだ。今度は横にスライドさせると、先に眩しい廊下が見えた。
「出たら蓋閉めて」
もぞもぞと廊下に這い出る。通った道を振り返れば収納ラックがあった。
「ようこそお城の最上階へ。ルドルフがここへ来るのは初めてだよね?」
「現実では」
廊下には景色を見るための空間が設けられており、小さなテーブルと椅子がひとつずつ置かれてある。ノクターナがテーブルと椅子を邪魔そうに除けると、二人は並んで外を眺めた。
「見ておきたかったんだ。多分、最後になるだろうから」
「そうか――」
決して、秀でた景色ではなかった。小さな城の小さな庭園と、小さな街の一部が見えるだけ。自然は綺麗だけれど、旅の中でこれ以上の景色もたくさん見てきたはずだ。
それでも、ノクターナはこの景色を見納めしておきたかった。秀でていなくとも特別な景色だった。
「昔はここに来るために、かくれんぼをしてたんだ。僕がいつもここへ逃げてることが皆にバレて、いつからか手段と目的が逆転しちゃって、あの椅子に座らなくなったんだけど」
果たせなかった想いをここで発散するように、ノクターナはノスタルジックに語った。ルドルフは無言で頷きながらそれを聞いていた。
ぽつぽつと過去を辿るように、ノクターナは浮かんできた言葉を片っ端から口にした。時系列はぐちゃぐちゃで、因果関係もほどけない毛糸のように絡まって、人に聞かせることを前提としていない。話の中にはルドルフが聞いたことのあるものも混ざっていた。同じ経験を違う声色で語る。
いつまでも耳を傾けていられる。ルドルフはそう思った。
けれど、時間とは過ぎゆくものだ。太陽は沈んで、月が昇った。腹の虫が空気を読んで静かなのを良いことに、ノクターナは瞼を下した。
その日は、特別な景色が見える窓の前で夜を明かした。壁に背を預けて、座ったまま目を瞑る。床は硬くて冷たくて最悪の環境だったけれど、特別な環境だった。
「ルドルフ、賭けをしない?」
ふとしたとき。眠っている赤子が起きることを危惧しているような、十センチ離れてしまえば聞こえないほどの声量でノクターナは言った。
「賭け?」
「――起きてたんだ」
意外そうで、嬉しそうだった。
「実は、僕の中だけで賭けをするつもりだったんだけど、ルドルフにも関わることだからフェアじゃないと思って」
「やっても良いが、内容は?」
「僕が勝ったら、僕の我儘を一個聞いて。ルドルフが勝ったら、仕方ないから何でも何個でも我儘を叶えてあげる」
「フェアじゃないな」
「フェアじゃないよ」
ルドルフは有利すぎると思ったが、ノクターナは微塵も不利だと思っていないようだった。と言うより勝敗を気にしていないように感じる。
ルドルフはノクターナの企みを探ろうとして、止めた。
「無難にコイントスで、結構は起きてから。それで良い?」
「ああ」
「――おやすみルドルフ。明日は大変だから、ゆっくり寝るんだよ」
◇◆◇
そして、朝。
ルドルフがぼんやりと朝焼けが進む空を眺めていると、隣で眠っていたノクターナがもぞもぞと動き出した。
ノクターナは両腕を高い天井に向けて伸ばす。声になる前の吐息がこぼれ出て、ゆっくりと瞼を上げた。
「おはようノクターナ」
「ルドルフ、早いね――。もしかして寝てない?」
「いいや」
ノクターナは残念そうな安心したような、曖昧な表情を浮かべた。
物音を立てたくなくて座っていたけれど、痛むお尻を誤魔化すためにルドルフは立ち上がる。若干ふらつくのを窓枠に両手を沿えて隠し、昨日見た景色をもう一度眺めた。
静かだ。誰も外を歩いていない。
「ねえルドルフ。これからどうしよっか」
尋ねるように、言い聞かせるように。ノクターナは座ったままそっぽを眺めていた。
「どうって、次の目的地は決めただろ?」
「うん。あの街には絶対に行きたい。僕がしたいのはそれまでの話だよ」
ノクターナの考えていることはわからないけれど、凸凹道を舗装するように、ルドルフは優しい声色で言った。
数日前、ノクターナが言ったことだ。
南方の、綺麗なビーチと海鮮が有名な街に行きたい。それほど遠くないけれど、急ぐ必要は全くないから、三か月くらいかけて。シーズンからは外れるけど良いよね。僕たち海で泳ぐわけじゃないし、旅人は少ない方が好き。それに、あそこは――、やっぱり何でもない。
「賭けの約束は覚えてるよね」
ノクターナは財布から一枚のコインを取り出して、それをルドルフに渡した。表に絵柄、裏に数字が描かれた、今はもう誰も使っていない一枚の硬貨だ。
「――実はね。昨日の夜、僕の中でもうひとつ賭けをしてたんだ。朝になって、僕とルドルフのどっちが先に起きるのか。ルドルフが先だったみたいだから、コインはルドルフが投げて。表か裏も決めさせてあげるよ」
「もしノクターナが先だったら?」
「僕は賭けの約束を忘れて、この場所から消えてた。ふっふっふ、初めからこの賭けにルドルフの勝ち目は薄かったんだよ」
「今はもう半々だけどな」
ノクターナはわざとらしく笑った。
冗談か本音かわからないことを考えても仕方がない。ルドルフは右手を軽く握って、親指の爪の上にコインを乗せた。
「表」
「じゃあ僕は裏だね」
コインを弾く。コインは空中を回転して、手の甲と平で挟んでキャッチする。夜の間にお願いを考えておけば良かった、なんて思いながら結果を確認する。
「裏、だね」
賭けに勝ったはずなのに、ノクターナの声は小さかった。
「約束通り僕の我儘を聞いて。聞くだけで叶えてくれなくても良いから」
とてもアンフェアな賭けだった。
思うのは、初めから全てがただの儀式でしかなかったことだ。ノクターナが実行した賭けは全て、次の言葉を言うための、長く遠回りな儀式だった。言わないための、言い訳探しだった。
「僕は、忘れ物を探すことにしたんだ」
ルドルフには我儘を聞き届けることが責務であるように感じられた。
「それでね。ここからは僕の我儘。――次の目的地で僕を待っていてくれないかな」
何でもないフリをして逃げるよりずっと良い。苦し紛れの時間稼ぎが役割を果たしたのだと。
ルドルフはコインを返す。返事はしないでおこう。嘘を吐かないように。
荷物を半分に分けて、ノクターナは片方を持った。もう片方は床に放置されて行き場を失っている。
ノクターナが窓を開けて傍に立つ。生ぬるい風が吹き込んで廊下を冷たい空気でなくさせる。空には太陽と月が一緒に浮かんでいた。
「またな」
「――ばいばい」
窓の外に姿が消える。
最後の言葉が、ゴングのように反響していた。




