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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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元小国の城1


 空気の流れさえ停滞した部屋。扉が開閉したのはつい先程のことだ。


 極僅かに、ルドルフが階段を下る音が聞こえる。数秒の警戒、ノクターナは目を開けた。

 身体が重い。ベッドに体重も感情も預けていられるこの状況に浸っていたい。起き上がって前を見たくない。城での生活が好きだった。旅の刺激が好きだった。見えるもの全てがパステルカラーだった。この天井のように、突き放すような白はしていなかった。


 目を瞑ったら、どこまでも落ちて行ってしまいそうだ。ノクターナは視界を覆わないように目元を擦る。そこには感情と乖離した奔流の跡があった。手遅れだろうかと思いつつ、それでも擦って跡を無くす。しつこく、痛みを感じるまで、枕もひっくり返した。まるでノクターナの中から事実を抹消させるように。


「はあ――」


 誰の耳にも届かないため息をひとつ、今日は体調が悪い。このまま寝転んでいたい。このまま沈んでしまいたい。

 でも、暗闇が怖い。夜が来ないで欲しい。黒は身体を狂わせる。ただでさえ湿気で重い空気が圧し掛っているのに、ただでさえ静寂が耳元でささやくのに。


 異常を病気のせいにしたくて、ノクターナは額に手をあてがう。平熱、喉の痛みや鼻詰まりはない。少し眩暈がするだけで、それは多分貧血でしかない。


 ノクターナはゆっくりと身体を動かすと、換気のために窓を開けた。生ぬるい風と一緒に住民の声が入り、陰鬱な空気と静寂がいくらか流れ出る。


「早く次の行先を決めないと」


 やや早口になった言葉。いざ言ってみると、ありとあらゆるを差し置いてそれが最も大切であることのように感じられる。


 地図を広げてこれまでと同じように。ふと、机の上にある書置きが目に留まった。

 ルドルフが部屋を出る前に残して行ったのは知っていた。無意識に意識から除外していたそれを、ノクターナは俯きがちに読む。


『少し風に当たってきます。部屋のことは心配せず、ゆっくり休んでおいて下さい』


 何のことはない、普通の文章だ。心配と心優しさばかり伝わってくる。どうにも感情が揺さぶられて仕方がない。

 俯いていれば、目尻が熱くなって重い空気に飲み込まれそうになる。天井を見上げれば、足元がぐらつく感覚から逃げることができる。


 ノクターナは書置きを丁寧に折りたたむと、それをポケットの中へ忍ばせた。捨ててしまうのは勿体なく思えた。


 ルドルフが先に起きて外出するとき、こうやって書置きを残すことは珍しい。その逆もまた然りで、それは両者がそれを求めていないからだ。

 だから書置きを残したということは、ルドルフがそれを必要だと思ったからなのだけれど、ノクターナは首を傾げる。今日は特に予定もないし、どうしてそんな勘違いを起こしたのだろう?


 地図とにらめっこする前に解決させておきたくて、ノクターナは鏡の前に立った。


 鏡の向こうにはノクターナが無表情で佇んでいる。洗面台を両手で押さえつけ、ぐっと顔を近付ける。ノクターナは少しづつ口角を上げて、微笑みを作ってみる。自分自身と目を合わせるというのは少し妙な感覚だ。

 うん、笑えている。満足して頷く。


 微かに腫れた瞼、ぎこちなく震える口先、飛び跳ねた髪の毛。鏡の向こうのノクターナには、それらの特徴がなかった。


 これならきっと、ルドルフもわかってくれるだろう。まだ旅を続けられる。傍にいられる。


「僕は大丈夫だから」


 明確な意思を込めた言葉。それは分厚い鏡を越えられなかった。


「ノクターナ――?」


 しかし、代わりに聞き届けた人物がいた。


 戻っていたらしい。ルドルフが傍に佇んでいた。いつからそこに、とノクターナは目を見開くけれど、すぐに平常心を装う。幸い貼り付けた微笑みはまだそのまま残っていた。


「おかえり。どこ行ってたの?」


「昼食を買いに」


 言いながらルドルフは紙袋を見せびらかすように揺らした。


 椅子に座ってから昼食を受け取る。柔らかいパンとフルーツ。食べ合わせはともかく、消化には良いだろう。過剰とも言える気遣いに、ノクターナは肩を窄めた。


「ねえ、ルドルフ」


 たった一瞬の沈黙が嫌で、ノクターナは考えなしに名前を呼ぶ。


 呼んでみたは良いけれど、言葉に詰まる。


「――やっぱり何でもない」


 もう少し、こんな日々を続けていたかった。


 言葉の続きはまた明日。明日が嫌ならまた明日。いつになるのかな?いつだっていいや。ノクターナはまだ相棒に甘えていたくて、口を噤んだ。

 あるいは、その日なんて来なければ良いのに。


◇◆◇


 某日。


 眠れない夜が続いたこともあったが、どうやらそれは一過性のものだったらしい。ベッドに入ったルドルフは、ここ数日の睡眠不足を全部取り返そうとするように、ぐったりと眠った。久々に心地の良い夢に溺れた。内容は覚えていない。


 目を開け、身体を起こす。既に朝とは呼べない時間になっていて、ルドルフは悠長な自分に驚くと同時に安心した。今は体調を崩したくない。

 暖かい空気が部屋を巡っている。長いこと続いた曇天は大雨をもたらすことなく去ったようだ。世界をはっきりと認識できる。


「おはようルドルフ」


「――おはよう」


 椅子をふたつ、外の景色が見られるような位置に動かして、ノクターナが座っていた。机には先程まで地図を見ていた痕跡が残されている。それ以外の荷物は一か所へとまとめられている。


 ルドルフはノクターナの隣に移動して座った。横顔では表情こそ読めないけれど、涙の跡は見当たらなかった。

 汗ばんだ身体に風が気持ち良い。外を歩く人々の服装は打って変わってラフなものになっている。半袖の人もちらほらと見受けられる。夏の香りがして感慨深い。


「朝食の代わり。ルドルフも食べる?」


 ノクターナが差し出したのは半分に千切られたパンだった。


「ありがとう」


「どういたしまして。冷たいミルクもあるよ」


 もう半分はノクターナの手になかった。ルドルフが起きるのを待っていたのだ。


 ルドルフは恐縮しつつ、だからこそ遠慮もできずにパンとミルクを受け取った。柔らかいパンを噛む。ミルクと一緒に流す。喉が急激に冷えて驚くが、それ以上に温かい。

 ルドルフが頬を綻ばせるとノクターナはつられたように微笑む。その頬がやや上気していた。血色が戻っていた。


 ただ、そう思いたいだけなのかもしれない。


「どうしたの?僕の顔に何かついてる?」


「いや、元気になったみたいだ、と思って」


「僕はいつでも元気だよ」


 ノクターナは肩をすくめた。


 ルドルフは目のやりどころに困って、手元に落ち着いた。それがノクターナには落ち込んでいるように見えたのだろう。


「どうしたの?」


「大丈夫、何もない」


 そう伝えても、ノクターナの心配するような視線は止まない。


 そんなに顔色が悪いだろうか?寝不足が解消されたことを思えば幾分ましになってさえいそうだ。

 どちらにせよ、関係のないことだ。タイムリミットは訪れた。


「もしかして、そんなにこの場所が恋しいの?」


 明日にまで、旅の再開は迫っていた。


「そうかもな。逆に、ノクターナはどうなんだ?」


「うーん、僕は――、正直なところあんまりわかってないのかも」


 ノクターナは遠い目をして、変わってしまった変わらない街を見下ろした。それはかつて別れた街に向けたどれよりも冷ややかだった。


 雲ひとつない空の色も、深緑に彩られた山の端も、ここからは見えないお城の形も。見える全てがノクターナの心を曖昧に乱す。


「どうでも良いからじゃないよ。でも、みんないなくなっちゃった」


「死んだと決まったわけじゃない」


「もういないんだよ。次女の僕が継ぐことはなかったけど、勉強くらいはした」


 咄嗟に出た苦し紛れの慰めは一蹴されて、ルドルフは次の言葉を見付けられなかった。ルドルフの瞳が揺れる。


 あえて口にはしなかっただけ。二人共にわかっていた。


「違ったら良いな、とは思うけどね」


 ルドルフは思った。伝えられるはずがなかった。不幸中の幸いだとかノクターナが生きてくれているだけで嬉しいとか、そんなふざけた言葉。


 最低だ。


「僕は国が大事なときに国にいなかった大馬鹿だけど、それでも王族だった」


「あのときはどうしようもなかった」


「うんわかってるよ、どうしようもなかった。仕方なかった。でもどうしてお母様は僕らを追放したんだろうね?僕が良い子じゃなかったからかな?」


 未来永劫答えを知ることのできない問い掛けをノクターナは口ずさんだ。


 ノクターナはルドルフと目を合わせてから、街行く人々を眺めた。


 歩いているのは見知らぬ人々だ。出店を開くのは昨日知った人々だ。大きくない街だとは言え知人が通ることもない。他人が他人の人生を彩っている。幸せな日常を描いている。ノクターナはそれを、映画のように眺める。


「みんな、笑ってる。楽しそう。――困ってる人がいたら助けなさいって、教わったんだけどな」


 一瞬だけ、僅かにだけ、ノクターナの声が潤んだ。


 それがノクターナのアイデンティティだった。そして家族の恨みをぶつける口実でもあった。

 かつての国民は、しかし順風満帆に見えた。少なくともノクターナの目にはそう映った。


「ねえルドルフ」


 ノクターナはこれまでを振り切るように明るい声を作って、言った。


「今日はめいっぱい遊ばない?この国とさよならするために」


「ああ、そうしよう。俺の躊躇いを少しでも軽くするために」


 あくまでそういうスタンスで。


 ルドルフは一瞬の迷いもなく同意した。


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