そしてまた、この地へ2
昨日は何もできなかった。強がって振る舞うノクターナよりも、表面上はずっと取り乱していた。内面まで同格に語ることはできない。
城からしばらく離れた場所に宿を取った。その方が良いだろうという判断は、傷心なノクターナに余計歩かせることになてしまって、正しかったのかはわからない。
二人部屋を取ったあと、ノクターナに促されて地図を開いた。小さなテーブルでは完全に広げることのできない地図を、現在地が中心になるよう広げる。そこには当然、ひとつの国名が書かれてあった。ルドルフはもうなくなってしまった国の名前を、自然を装って不自然に掌で覆い隠す。未来永劫、二度とこの国名を口にすることはないだろう。
地図の南方、まだ行ったことのない場所をノクターナは指さす。
「ここ、果物が美味しいんだって!」
綺麗な海、巨大な湖、特有の文化。コラムのように綴られたそれらを見ながら、ノクターナは思いをはせているフリをする。そんな言葉をルドルフは無心に聞いていた。
無理に元気に振る舞っているのが痛々しい。一見演技でないように見えるのが痛々しい。
城に帰ったあとも、旅を続けられたらと思っていた。それを選んで欲しいと思っていた。
でも、このまま旅に戻るのは得策でないように思った。旅の継続を選ぶとき、あるいは選ばないとき、どちらにせよそれはポジティブな意味であって欲しい。以前ここを離れたときと同じように、そして違うように。
でも、だからどうすると言うのだ?案のひとつでもあるのか?また時間が解決してくれるのを待つと言うのか?仮初の目標すらもない俺たちに、その時間は与えてくれるのか?それまでの希望をどうやってノクターナに与えれば良い?
城に帰るという目標があった、手段を与えられた。
手段は目標になり得ない。戦争に負け国が変わったということはつまり、ノクターナの家族はもう――。
「――ルフ、ルドルフ、大丈夫?僕の話聞いてる?」
はっとする。顔をあげるとノクターナが首を傾げていた。
心配そうな瞳をして、しかし口角には優しい微笑みが張り付いている。ちぐはぐだ、不気味だ。
強がっているノクターナを見ていると、本当に何とも思っていないのではないかと希望的観測を抱きたくなる。けれど違うのだ、無理をしているだけ。
ルドルフはノクターナと目を合わせて、何も気付いていないことにした。指摘すれば首の皮一枚で繋がっている何かが決壊して、二度と元には戻らないような気がしたから。
「ああ、うん、大丈夫だ。ちょっと、疲れてるだけ」
「そう?まあ確かに結構急いで来たからね。うん、じゃあ続きはまた明日の朝にでもやろっか。身体壊したりしたら大変だからね」
ノクターナは地図を折り畳んで小さくする。
ダメだ、しっかりしないと、ノクターナに気を遣わせてどうする。そうは思いつつも、ノクターナの提案は確かに有難かった。身の振り方を決めるまでの時間ができた。明日までには決めておかないと。
ライトを消し、ベッドに寝転がる。まだ更けていない夜はカーテンの隙間が明るかった。五里霧中なルドルフに行き先を教えてくれているようで心地良く思う。そんなものが本当にあるのなら、だけれど。
ベッドで仰向けになる。遥か高くに感じる天井があって、光は視界から外れた。
もしノクターナが哀しみに明け暮れたのなら、ルドルフには慰めることができた。もしノクターナが怒りに苛まれたのなら、ルドルフは落ち着かせるべく立ち回った。
しかし、どうだろう。「まあ大きな国じゃなかったからね、そんなこともあるよ。それに彼女、ハートレイのことを想えば、生きてるだけ幸せなんだよ」なんて自分に言い聞かせるように強がられてしまえば、どうすれば良いのかわからなくなる。ルドルフにはそれがもどかしくて情けない。
不幸の度合いなんて比べるものじゃない。不幸の度合いを比べることで自分を保っているんだ。
それから、ルドルフは一睡もすることができなかった。疲労に身を任せて決断を後回しにして惰眠を貪ることになるのを危惧していたけれど、状況はそれよりも悪かった。
何も決まらない、思考が次々に飛んで纏まらない。それなのに頭ばかりが冴えていく。
これからも一緒に旅をしたい、今は旅をするべきじゃない。
ノクターナは旅をしようと言った、彼女の本心は何処にあるのだろう。
国が消えた、女王は族滅されたと考えるのだ妥当だ。
投獄で済んでいるだろうか、そうだとして何になる?
そんなことばかりを考えていた。ひとつ半ばこじつけのような形で結論を出して、別方面からアプローチをして、再び変わらない結論を反芻する。
気が付けば深夜を迎えて日の出を見た。眠るべきと思い目を瞑って頭が覚醒した。それを何度か繰り返して今日寝るのは諦めた。明日にはきっと気絶するように眠れるだろう。疲れはすっかり忘れていた。
ノクターナを起こしてしまわないよう、ゆっくりとベッドを出て椅子に座る。ルドルフは徹夜することになったけれど、ノクターナは眠れたようで良かった。すーすーと寝息を立てて、悪夢も見ていないみたい。
ふとノクターナの寝顔を覗き込むと、目元には涙の跡があった。枕は湿っていた。すすり泣く声は全く聞こえなかった。
同室、すぐ近くにいたと言うのに、だ。枕に顔を埋めて必死で隠そうとしたのだろう。いや、そうでなくとも、可能性くらいは考慮すべきだった。全く気付いていなかった。当然の行動に考えすら及んでいなかった。
しっかりしないとって自分を鼓舞しておきながら、その実は自分のことに精いっぱいで、比べるまでもなく辛いノクターナに尚も気遣わせている。
自分が嫌いになる。
ノクターナが起きたら、どうしようか。行き先が決まってしまえば、今日明日にでも街を出ることになるだろう。
それは良くない、逃げと同義だ。でも逃げることの何が悪いんだと言う自分もいて、ああ、時間が足りない情報が足りない経験が足りない。何が不足していようと決断しなくては。しかし一晩掛けて収穫のなかった議題に、椅子に座っただけで光明が差すはずもなく。それでもこればかりは答えが出ないからと言って思考放棄できる他の議題とは訳が違って、ルドルフは同じ時を無為に過ごした。
それを幸いと呼びたくはないけれど、チェックアウトの時間になってもノクターナは眠ったままだった。
宿の女将さんに部屋へ押し入られるのが嫌で、ついでに気分転換のために外を散歩しようとルドルフは書置きを残す。『少し風に当たってきます。部屋のことは心配せず、ゆっくり休んでおいて下さい』
部屋を出ると、他の客は既にチェックアウトを済ませたようだった。いくつかある部屋の全てが閑散としている。
階段を下りて共用スペースに行く。女将さんは昨晩と同じ場所カウンターの中で時計を見ながら座っていた。ルドルフが下りていたのに気付くと一瞥して、やっと出てきたことに悪態をつく。しかし声色だけは丁寧に、ルドルフに話しかけた。
「おはようございます、ごゆっくり休めましたか?」
「ああ、おかげ様で」
「それは良かったです。そろそろチェックアウトの時間となりますが、ご準備の程はいかがでしょう?」
ルドルフが一人で現れたことに訝しみを深くしてもう少し態度が悪くなる。具体的には頬杖をついて、ルドルフと時計と人の気配がしない階段の方を交互に睨みつける。さっさとチェックアウトしろと伝えてくる。
「その件なんだが、今日から明日までずっと部屋を借りておきたい。チェックアウトはしない」
「――はい?」
眉を吊り上げて耳たぶを引っ張った。耳がおかしくなったのかと疑っているらしい。
「安心しろ、多分女将さんの耳は正常だ」
「――馬鹿には皮肉も伝わらないのかい。私は何を冗談言ってるのって言ってるんだ」
敬語すら止めてしまった女将さんに、八つ当たりのようなことをしてしまったと心の中で謝罪しつつ、ルドルフは換金するタイミングに恵まれなかった貴金属のアクセサリーをひと掴みカウンターの上に置いた。
「チップだ」
「――はい?」
今度は別の意味でそう言った。
貴金属の類にそれほど明るくないルドルフでも、ざっくりとした相場はわかる。城下町の高級でない宿で、これだけ稼ぐのに何人の客を入れなければならないのだろう?
女将さんとは言え商人の端くれだ。目の色が変わったのがわかる。勿体ないと思わなくはないが、アクセサリーのは重いし邪魔だし扱いに困るし、何より今はケチっている場面ではない。換金する手間が省けたと思っておこう。
「それじゃあ、頼んだ」
「――まいどあり」
欲を出してまだ足りないと言われる前に、ルドルフはカウンターを離れることにした。女将さんはアクセサリーを下卑た笑みで丁寧に回収している。
「そうそう、もし俺の連れが出てきたら説明して引き留めておいてくれ」
「かしこまりました」
一番の本題を伝えてからルドルフは外に出た。過保護だと思われるかもしれないが、今のノクターナを一人で外に出すのは心配なのだ。
空は今にも雨が降りそうな曇り空だった。湿度も高く空気が重い。
時間のこともあるだろうか、宿の前は昨日より賑わっていた。
恰幅の良いおばあちゃんが良く通る声で客寄せをしている。娘と手を繋いだ父親が値段を尋ねながら買い物をしている。笑い声が木霊する。
変わってしまった街の、変わらない日常だ。今のルドルフにはそれが嫌に寂しい。
住まう街が別の国になって、どうしてこうも普通を演じていられるのだろう?なんて言われのない文句をお門違いに思う。人とはそういうものだ、自分に影響がない変化になど他人事。わかってはいるけれど腹立たしい。
それからしばらくの間、満足するまで、目的もなく街を歩いた。
どこを見ても街並みは以前と全く同じで戦争があったことなど嘘のよう。むしろ嘘だと言われた方が信じられるくらいだ。名前は違えど城は城で街は街。目を凝らしてようやく、少しだけ違った顔の特徴を持つ人や少しだけ違った言葉の訛り、少しだけ違った流行があるだけ。
街は同じ歌詞同じメロディーの歌を歌っている。




