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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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そしてまた、この地へ1


 魔力を育む温床となっている、深くて巨大な樹海。豊潤な樹海の恵みを受けて発展した街で、まことしやかに囁かれていた亡霊の噂は、隣人に広めたことを誰も覚えていないほどすっかりと消え去っていた。


 それから少し進んだ先にある小さな街。良いタイミングで訪れたらしく、公園にテントを立て炊き出しの準備をしていた。まだ調理中だと言うのに公園には多くの人々が集まっていて、彼らは行儀よく料理が出来上がるのを待っていた。

 鞄の中から余っていた食材を取り出し手渡すと、怪訝そうな顔をされたあとひどく喜んでくれた。彼らは有志のボランティアで、最近は首が回らなくなってきているらしい。殊勝な人がいたものである。

 公園から少し離れた場所に妙な石像が飾られてあった。落書きのせいでひょうきんな顔で、モデルとなった人物を揶揄ってやろうと思う。


 そこからもうしばらく進んだ先。小さなお城、小さな城下町が見える。数日前から高鳴っていた心臓が最高潮を迎えて、ぼんやりと耳鳴りがするようだ。


「やっと――」


 やっと、帰ってきた。久しぶり、なんて言葉を、高揚した頭で冷静を装って思い浮かべる。


「――ただいま」


 ノクターナは呟く。歓喜に満ち溢れた、涙を呼び起こすような声色だった。


 今、彼女はどんな顔をしているのだろう。嬉しさに瞳を潤ませているだろうか、実感が押し寄せているのだろうか。それとも、得も言われぬ漠然とした不安感が混じっているのだろうか。

 いいや、どれだって良い。確認する必要もない。もし不安があったとしてもその全てを覆い尽くすポジティブな感情があるはずだ。ノクターナはこの瞬間を待ち望んできたのだから。


 良くない結末など、あろうはずがない。


 足取りが軽くなるノクターナと、それに影響されながらも自分を律するルドルフは、堂々とした面持ちで門兵の前に立った。旅の半分は今のためにあったのだ。


「身分証の提示をお願いします」


 見知らぬ門兵に、ノクターナに視線で急かされながら、手が震えるのを隠して、リゼッタに貰った偽物の身分証を見せる。

 このときのルドルフは、表面上は何でもないを演じているけれど、内面まで完璧には律っせていなかった。注意散漫でああったことを認めよう。


 門兵はルドルフから提示された身分証を見て目を見開くと、急ぎ足で上司を呼びに行った。書かれている内容は偽物でも作った人物は本物なのだから、見抜かれるはずがないとわかっていたけれど、門兵が戻るまでに何滴の冷や汗をかいただろう。


「――遠いところから良く来てくれた」


 門兵の上司はそう言って身分証を返却してくれる。ルドルフは二人に小さく会釈をして、ノクターナもそれに続いた。


 ――はあ。どうしてこのときに気付かなかったのだろう。違和感は何度も、人の言葉よりも正確に、現実を教えてくれていたのに。


「――ただいま」


 ノクターナがもう一度、噛み締めるように呟く。


 城下町は、様々な街を旅してきたからだろうか、以前と同じ姿にも違う姿にも思える。平凡で特別な理由や思い入れがなければ立ち寄らないような街にも特色を見出せる。

 同規模の街と比べて空気が穏やかだ。自然が多いからとかそういう意味ではなく、時間の流れがゆったりと感じられ、落ち着き、住民がそう過ごしている。家業に手を焼いている様子もなく自分を過ごしている。


 小腹が空いているのが気になって軽食を買う。繁華街を思えば安価だけれど、以前より物価の上昇を感じた。


 そんな街の空気に当てられてノクターナの足もゆったりとした速度になる。


「これからどうする?」


 これから、というのは今日明日のことであり同時にずっと先のことでもあったけれど、ノクターナには前者の意味しか伝わらなかったようだ。ノクターナは軽食を喉に詰まらせないよう飲み込みながら数秒考える。


「取り敢えずは城を見に行きたい。――入れないのはわかってるけど」


 ルドルフは頷く。見知った人物に出会うリスクがあるからと言って、それは止める理由になり得ない。

 本来なら宿を先に取っておきたかったのだけれど、無粋にも程があるだろう。


 城下町とは言ってもそれほど規模が大きいものではなく、しばらくすれば中央に位置する城へ辿り着くことができる。

 久しぶり。この城を故郷でも何でもないルドルフには、感慨などこの程度で良い。全てはノクターナのものであるべきだ。


 ふと過去の記憶がフラッシュバックして、そういえばルドルフとノクターナが国外追放された理由は何だったろうと考える。埒が明かないと思考放棄した事柄を今更反芻したところで正解に辿り着けるはずもなく、しかし闇に葬られてしまったのは度し難く思う。


 ルドルフが掃除した窓なんかを遠目に見ていると、十人規模の人集りが付近の広場にできていた。そのほとんどが聴衆で、脚立を足場に他より高い位置から見下ろしている男が演説をしているようだ。

 珍しい、以前には見られなかった光景だ。ノクターナにとってもそれは同じであった。


 半ばスキップをしながら聴衆に近付いていくノクターナ、それを後方から保護者面で追い掛けるルドルフ。嗚呼、――。


 距離の問題か聴力の問題か、先に演説の内容を拾ったノクターナは突如その場に立ち止まった。


 どうしたんだろうなんて悠長なことを思って、どうしたんだなんて何の捻りもない言葉を吐こうとする。数メートル離れてしまったノクターナに声を届けようと口を開いて、しかし口から言葉が零れることはなかった。


 だって。


「待って」


 寸前でノクターナは振り返って、瞳を揺らしていたから。ハイライトが消えて、表情筋が衰えて、血の気が引いて。一言で表したなら、全身を耳の先まで余すところなく盲目だろうと見えるくらいにはっきりと、絶望の文字が無数に刻まれていたのだから。


 はっとしたノクターナが文字の不透明度を九十パーセントにして、ルドルフの前へ走ってくる。


 それから、両手でルドルフの耳を塞いだ。目を瞑るよう促した。理解が及ばなくて固まっていたルドルフの、視界を奪うため限界まで顔を近付けた。


 目の前にノクターナが居る。彼女以外が見えなくなる。

 ノクターナが呼吸をする。彼女の息遣い以外感じなくなる。

 

 そんな状況に、そんな状況なのに、ノクターナの心臓は冷酷に動いていた。ルドルフの心臓も落ち着き払っていた。


「うん、満足した。城はもういいや。次はどの街に行くんだっけ?ああ、まだ決めてないんだったね。だったら今日は早く宿を取って、それから早く決めてしまおう。それから明日の朝にでも街を出よう。思い出補正ってやつかな、ずっと帰ってきたかったけどいざ帰ってくるとそうでもないね。色んなところを旅しすぎたのかも。だからこの街はもう良いや。次はどこが良いかな?北の方ばっかり行ったから、僕南の街も見てみたいな。寒いのはもうころごり。あ、でも南に行ったら暑いのかな?夏の本番はまだこれからだしちょっと嫌だな。でもそれも経験だよね。だから早く宿取りに行くこう?ほら、いつかみたいにどこも満員ですって言われて街なのに外で寝る羽目になっちゃうかも。あれは悲しかったよね。道行く人の可哀そうな人を見る目。別にお金がない訳じゃないのにね。だからさ、ね、こんな街早く離れよう?」


 耳を塞がれて、外部の音は遠く滲んでいるのに、ノクターナの声だけは確かにはっきりと聞こえた。


 どうしたんだろうなんて未だ寝ぼけたことを思って、どうしたんだなんて無責任な言葉は吐けなかった。

 急にこんなことを言い始めるはずがない。何かがあって何かを知って、その情報をルドルフにひた隠しにするために、ありとあらゆる不平不満を押し殺して振る舞っているのだ。


 ――もう一度言おう。どうして気付かなかったのだろう、と。

 違和感は提示されていた。ルドルフはそれらを見逃していた。浮足立ったノクターナに感化されて見惚れていて、そうでなければ、少なくとも彼女より先に気付くべきであった。逆の立場であるべきだった。


 旅で見聞きしたことが差すひとつの事実。


 見知らぬ門兵、何故?制服が変わっていたからだ。以前見たものとも騎士団のものとも違う、それよりいくらか新しい様式の制服。

 何故門兵がノクターナに気付かなかった?新入りだから?だったらあの上司は?あの日ノクターナは城で演説をしただろう。城のみんながそこで聞いていて、お前は偶然その日が休みだったとでも言うのか?


 何故この国で演説をしている?この国は王政だ。悪く言うなら旧時代的だ。女王が全てを決める。民衆に投票権など与えられていないのに、演説に意味なんてないのに。


 門兵、演説者、両者共に同じアクセサリーを胸に付けて、あんなのこの国にはなかったはずだ。確かあれは隣国の――。


「ノクターナ」


 嗚呼、ようやく理解した。


 この国は戦争に負けたのだと。俺たちが知っているあの国は、もうどこにも存在していないのだと。


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