終焉の満ちたるに光を渇望す
森の中は幸い休憩場所には困らなかった。その辺に生えている木の幹を背凭れにしてルドルフは座り込む。
どうやら、本の世界はルドルフに相当な疲労をもたらしていたらしい。息をつくとルドルフの身体はどっと重くなる。即刻ダウンするほどではないにしろ、動き出すのが億劫に感じる。体力はいつまで続くだろうか。
その点ノクターナは元気そうだった。腹の虫を鳴らしながら鞄を漁り、せっせと食べられそうなものを探してる。ノクターナも同じ世界にいたはずなのに何が違うのだろう。偶に彼女が羨ましくなる。
「ねえルドルフ、もしかしてお疲れ?」
「多少な。だが大丈夫だ、動けないほどじゃない」
「ふーん」
とは言っても、昼食の準備は任せておこう。今は少しでも休憩したい。
空を見上げながらゆっくりと瞼を下す。澄んだまっさらな世界に居るようだ。ノクターナの奏でる音がより鮮明に聞こえる。
本の世界で、ルドルフはひとつ言うつもりのなかった言葉を零した。あのときは必要な言葉だったかもしれないけれど、それでもルドルフは話題に出したくなかった。
『ノクターナ。この世界みたいな生活は現実で待っていないんだ』
小さな国の小さな城に帰ったところで、どうにもできないという事実を。
ノクターナと旅をする上で幾度と思い、幾度と口を閉ざしてきた。残酷な事実を言うべきではないと思った。ノクターナもわかっているだろうけれど、しかし。
話題に出せば、きっとその先を尋ねたくなる。尋ねれば気付かれてしまう。完全にフェアな気持ちで二択を突きつけることはルドルフにはできない。
城に帰るのは絶対か?
「ノクターナ」
「なに?」
どうしても願望が混じってしまうのだ。故郷よりも別のものを選んでほしい。その答えを聞くことを、ルドルフの願望でノクターナの願望を歪めてしまうことを、臆病なルドルフは拒む。
「騎士団副団長のリナって知ってるか?」
「うん、もちろん。ルドルフも会ったことあるよね?」
これくらい伝えても良いだろう。むしろ伝えるべきだ。そして伝わらないのだろう。
喜ぶべきか?哀しむべきか?
「その彼女から伝言だ。……この国に帰ってこないでください、だと」
仄かに願望を乗せて、嗚呼、願わくば。
「帰るよ、僕は、僕たちは。そういう約束でしょ。ルドルフ」
「――ああ、その通りだ」
ノクターナは即答する。それで良い。
やはりという言葉も軽々しく思えるくらい、やはりノクターナはルドルフの手を握りはしないのだ。
「因みに――」
城に帰ったらやりたいこととかあるのか?
――いいや、口を噤もう。
◇◆◇
そこにはひとつの川があった。
とてつもなく長いとか流域面積が最大だとか、そういった特別性を何ひとつ持たないただの川。せいぜい地元の人々の間で名が知られている程度の川があった。そこそこ長い距離を流れる川はそこそこ深い森を流れており、付近の村の畑に栄養を届ける重要な役割を担っている。
昨今、そんな川で不可思議な光景が確認されている。
ある日の昼下がり。男が森へ柴刈りに川辺を歩いて向かっていると、おおよそ五個から八個の大小異なる石が縦積みにされていた。
男は手先の器用な子供が遊びで積み上げたのだろうと思ってそれらを倒しながら、深くは考えていなかった。ひとつ、またひとつと無心で夢中で倒していると、男はいずれ不審に思う。「俺はあといくつ倒さなきゃならないんだ?」と。さながら生まれ育った街の草むらでスライムを討伐し経験を積み続ける尊敬すべき馬鹿のように、男の心には義務感とも言うべき狂気が芽生え始めていた。
安っぽい靴で石を蹴り続けたダメージが無視できないくらいの痛みとなってきた頃、足元ばかりを見ていた男は顔を上げて戦慄した。森に入ったばかりのときは数メートルにひとつくらいの間隔だった石の造形が、見渡すかぎりびっしりと息が詰まるほど積まれていたのだ。それらは河原の片側にだけ集中ており、もう片側は閑散としているのだから異様さが際立つ。
男は積み石よりも多くの脂汗を流し、祟りを恐れ急いでその場を後にした。当初の目的などとうに忘れて、鬼とは存外つまらぬ輩なのであろう。
星空が綺麗な夜。そんな話を露も知らないルドルフとノクターナはさぞ驚いたことだろう。ある地点からいきなり大量の積み石が現れたのだから。その境界をせっせと川下へ動かす青年がいたのだから。
「ねえルドルフ、親不孝な子供?がいるよ」
とノクターナ。子供と呼ぶには年老いている。
「ああ、そっとしておいてやろう。きっと無意味な行いじゃない」
とルドルフ。どこかの古い伝説を思い出した。
「そこの二人。突然現れて散々な物言いだがオイラは死んだからこうしてるんじゃないし両親とは死別してるからこうなる未来もない」
と親不幸なことをぬかす青年だった。
青年は足の踏み場もないような河原から、被害を出さないよう立ち上がると、せっかく積み上げた石が倒されては堪らないといった様子でルドルフたちに接近する。それから眉を吊り上げて言う。
「犯人は現場に戻るっていうけど、もしかしてオイラの努力を無に帰っした?」
「いいや。通りかかっただけだ」
「――だよな。オイラにもそう見える。ごめんな、疑って悪かった」
彼がどんな執念に駆られているのかはわからないが、彼はおかしな男でありながら嫌な男ではないのだろう。そう思わされる素直な微笑みであった。
ところで、彼が死人でないのなら、青年は何故石を積み上げているのだろう?口ぶりから察するに少なくとも一度せっかく積み上げた石を倒されているのに。
ルドルフの疑問に答えるように、青年は河原を一瞥したあと語りだした。
「願い事。知らないだろうけど、オイラの地元じゃ、願い事をしながら石を積み続けたら叶うっていう言い伝えがあるんだ」
旅の途中、ルドルフはそんな話を聞いたことがある。当時も確か、同じ感想を抱いた。
「不気味な手段だな」
「そうかな?今日みたいな天気の良い夜は毎日、一人でぶつぶつ願い事を唱えながら石を積んでる。だってほら、空を仰いでみて。――流れ星が見えるでしょ」
青年がそう言ったとき偶然にも流れ星が光って、しかし願い事を三回唱えるだけの時間を人々に与えてはくれない。胸の前で両手を握って目を瞑るのが限界だ。
「願い事に効率を求めるべきじゃないよ」
そもそも願い事は叶わないから願うのだ。ノクターナは辛辣にもそう言った。
「それで。――そこまでして君は何を叶えたいの?」
通りすがりの挨拶ではなく、腰を据えて話そう。ノクターナはそんな意を込めて、付近の手頃な大きさの岩を探して、砂埃を掃ってからそれに座った。ルドルフもそれに続く。
きょとんとした青年は一度満更でもないため息を吐き出してから二人の向かいの岩に座る。
「去年の今ごろ。オイラはここからそれほど遠くない別の国で、一人の世界一可愛い女と出会って、話して、惚れて、プロポーズして、振られた」
哀しい語り口から始まったそれは、青年の奇行も相まって、興味を引き出すに十分だった。
「一度振られたくらいでめげるつもりは一切なかった。――だがその女はオイラをボロクソに罵倒した。彼女のか細い両腕では持ち切れないくらいの、男のオイラでも難しいくらいの重さと厚みがある悪口だけを綴った辞書を持っているみたいだった。知らない言葉もたくさんあった。でも侮蔑の言葉であることだけは理解できて、これまでの楽しかった日々は幻想だったのだと思い知らされた」
青年の言葉からは重い未練を感じる。ルドルフもノクターナも見ておらず、視線は一等星を探して彷徨っていた。
「逃げるようにしてその国を離れたオイラは、偶然見つけた村に定住することにした。村の人たちと交流する最中にオイラの愛する女の名前、ハートレイの名前を出したとき聞いた話によれば、彼女は大量殺人鬼らしい」
「た、大量殺人鬼って、そんなことあり得るの――?」
「オイラも初めて聞いたときはそんな反応をした。――いや、ちょっと違ったか。あなたほど冷静じゃなかった」
ノクターナは目を見開いて驚いて、しかしそれは殺人鬼がのうのうと日の下を歩けていることに対する驚きだ。青年の裏切られたような驚きとは毛色が違う。
「信じられなくて調べてみたら、どうにも本当だったらしい。彼女は大量殺人鬼で、捕まっていなくて、オイラが振られた後も人を殺している」
「にしては、君はその人を軽蔑していないみたいだけど」
「軽蔑なんてするものか。彼女がどんな人であれオイラが惚れた女であることに変わりない」
青年は確固とした意志を持って言う。
当然行き着く疑問、「何故人を殺しているのか」について青年が言及することはなかった。であればルドルフもノクターナも態々言及するようなことはしない。人を殺める理由なんて、往々にして聞くに値しないと決まっているのだ。
ただ、理由なんて青年にもわかっていないのかもしれない。
それでも、青年の言葉には盲目的で絶対的な信頼があった。
「それが丁度半年くらい前の話。それからオイラはこうして願い事をするようになった。――彼女に人を殺める必要がなくなりますように」
良く言えばそれは、一人の男の茹だるほど一途な片思いの物語だ。美しく儚い恋の一幕。誰に語られることもなく歴史の渦に消えていく波乱万丈な人生の種。
だがそうはならない。途方もないような願う日々は彼のエゴにすぎない。叶えたいのなら行動すべきだ、女の傍にいるべきだ。そうするべきで、しかし青年は楽な道を選んだ。
だからこれは、空っぽで虚しい徒労の出来事だ。夏前に植えた、道行く人々の目を奪うはずの綺麗な朝顔を、枯れて終ぞ拝めなかった絵日記の一ページ。
「ねえルドルフ――」
どこかで聞いたような話だ。それも最近。
身勝手にもルドルフが――実際にはルドルフではないのだが――タイトルを付けるのであればそれは。
「本は好きか?邪魔したお詫びにプレゼントだ」
ルドルフはバッグの比較的浅いところにある本を一冊差し出す。
「オイラ学がなくて、本を読めるほど文字を知らないんだ」
「読めなくても貰って欲しい。お守りみたいなものだと思ってさ」
困惑を隠そうとしない彼に、ほとんど押し付ける形で本を持たせた。
タイトルは、『知り合いの女の子が人殺しに手を染めそうなので、止めようとしたら色々と巻き込まれた件。』。これは彼の理想を描いた小説である。




