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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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生命の満ちたるに悲嘆を求め


 これといった感慨もなしに、ただ炎が空気を遮断され消えるが如く。本の世界は突如として消滅した。


「それから、お姫様は幸せな結婚生活を送りましたとさ。おしまい」


 子守歌のような朗読が終わったころにルドルフはゆっくりと目を開けた。


 仰向けに寝転がったルドルフの目前には空が広がっている。事の元凶であり世話になった一冊の小説がノクターナの手で閉じられる。


「あ、起きたんだ。おはようルドルフ」


 どうやら本にはもうあの世界へ誘う力は残されていないらしい。ルドルフは自分の瞼を擦ると一仕事終えたあとのようにおおきな欠伸をした。


「おはよう、ノクターナ。――それは?」


「ルドルフが起きるまで暇だったから読んでたんだ。すごいよ、これ、僕の理想そのものって感じ。読んでみたい?」


「いいや、興味ない」


「ま、読みたいって言われても読ませてあげないけど。僕のプライバシー筒抜けになるし」


「だったら音読するな」


 興味ないのは嘘だが、知りたくないのは本当だ。もしノクターナの結婚相手が――いや、やめておこう。考えるだけで数日落ち込みそうだ。


「もし聞かれてたら、それはそれで――ってね」


 はあ、良くわからない感性である。


「それよりも。どう?僕の膝枕の感想は」


 …………。


 ルドルフは勢いよく、しかし夢の中の二の舞にはならないよう額に気を付けて身体を起こす。明らか地面ではない後頭部の感覚と妙な視点になぜ気付かなかったのだろう。それほど疲労が蓄積していたのだろうか。


 ぐわんと視界が揺れる


 心を落ち着かせるために深呼吸を数回。それからノクターナに軽口でも言おうとして、しかしその言葉は喉の辺りで引っ掛かった。


「――僕も目が覚めたときは驚いたよ」


 そこには文学が流行した新興の街も、文学に憑りつかれた人々も、事の元凶である店主すらもいなくなっていたから。


 代わりにあるのは全てを飲み込まんとする深い森林。恐ろしいほどの静寂が辺りを支配している。鳥のさえずりも動物の足音もなく、そよぎが仄かに聞こえるだけ。森林には付き物の昆虫すら絶滅してしまったようだ。

 まさかと思い適当な大きさの石を持ち上げてみると、そこにはダンゴムシが丸くなって集まっていた。生存はしているようだが冬眠中のように動かず、確かに太陽が薄くなるここは少々肌寒いが、違和感は積もるばかりだ。


 それと――。


「――あれは?ノクターナ、何かやった?」


「僕を何だと思ってるの」


 ルドルフとノクターナは同じ方向を見遣る。そこには自然の一切が消失した一直線の道が出来上がっていた。


 空からは太陽光が直接地表に降り注ぎ、消失を免れながらも一部を剪定された草木は風に揺られながらも、消失したエリアに侵入することを拒んでいる。抉られた地面の形からもわかるように、それは円形の何かが貫通した道筋のような。そしてあの方角は――。


「あれは魔法にしか無理だろ」


「たとえ魔力があふれた森の中でも、僕には無理だよ」


 ノクターナがそう否定するが、わかっていたことだ。人間一人に出来て良い破壊の範疇を越えている。どんな化け物が何をすればこのような惨事になるのか。


「取り敢えず、森を出よう」


 ないとは思うがこの惨事が誰かの手によるもので、二発三発と放つことができたら?二人の塵は残るだろうか。そういうレベルの痕跡なのだ。


 二人は重い腰を上げて立ち上がる。近くにある深い森の位置なら頭に入っているので、――ここがその森でなければまた別に考えなければならないが――方角さえわかれば森を脱することくらい容易いはずだ。

 太陽の位置を見るに正午を少し前。本の世界に入ったのが確か正午丁度くらいだったから、少なくとも一日近くは眠っていたらしい。それなのに身体にやけに倦怠感があるのは一体どうして。


「ノクターナ。聞きたいんだけど、あの世界のことは全部覚えてるのか?」


「うん、多分ね。幸せだなーって思ったことも、()が僕をあんまり恰好良くない方法で助けてくれたこともね」


 ノクターナの揶揄ったような微笑みに、ルドルフは苦笑いを返すことしかできない。


 恰好良い方法と言うと「何も言わず俺を信じろ」だとかそういうのになるのだろうか。言い訳にしか聞こえないだろうが、それはふさわしくないと思ったのだ。

 あの世界が悪でこの世界が善だなんてことは決してない。選択権はノクターナにあるべきで、それれはルドルフが受け身だとかそういうのではなく。

 むしろノクターナからすればあの世界があるべき姿で、ルドルフにはどうしてこっちの世界を選んだのかわかっていない。でも、それを尋ねるのは多分無粋だ。だって現実を選んでくれて嬉しかったから。


「ノクターナがそれを望むなら、次からはそうする」


 次なんてない方が良い。


「いや、僕はあれで良かったと思ってるよ。もしあんまり知らない人から信じろなんて言われたら、僕はあの世界に引きこもってたかも」


 ノクターナは冗談めかして言う。


 それはつまり、この世界を選んだことを後悔していないというわけで。ルドルフは頬が緩み、はにかんでしまった顔を隠すために、そっと俯いて地面を見た。


「というか僕たちって確か街中にいたよね?どうしてこんな真逆みたいなところにいるんだろ」


「――さあな」


 気を取り直して、ルドルフは真剣な顔を作る。


 シンプルで可能性の高いことを探すなら、テレポートの魔法が一番に上がってくる。

 あの街で本の世界に入り込んだ皆は、素性のわからない店主か誰かの魔法で各地に転移させられた。これなら近くにノクターナ以外の誰もいなかったことに説明がつく。問題はそれをする理由とそれらを成すための膨大な魔力の出どころだけ。――うん、結構無理がありそう。


 あと考えられるのは眠っている間にものすごく長い月日が経過して街が森に飲み込まれちゃった説と、街に入るずっと前からの全てが、広範囲に繁茂しすぎた森が見せた幻想だった説。――うん、やっぱり無理がある。


「ノクターナはどう思う?」


「うーん、この道と関係あるって考えた方が妥当だよね?」


「まあ偶然だと思うのは難しいな」


 ノクターナはとんとんと足で地面を叩きながら、空を見上げた。二人は方角も一致している森の中よりずっと歩きやすい道を少しの恐怖と共に進むことにした。

 雑草のひとつも生えていないここはつい先程作られたようでありながら、ノクターナが言うには「魔力が根こそぎ奪われた状態」で長期間このままでも不思議でないのだそう。つまりは手がかりが乏しい。


「だが、放っておけばいずれ元に戻るんだろ?」


「うん。だから――少なくとも一年は経ってないかな。専門家じゃないから正確なことは言えないけどね」


 一年、か。方角がほとんど一致していることも、あの世界でのリナの言葉も、何やら嫌な可能性を肯定しているように思えて仕方がない。


「僕的には、ただの魔法には無理って結論だね。多くの魔法使いと長い儀式をすれば不可能じゃないけど現実的でもないし――。ねえルドルフ。世界を救った英雄の伝説は知ってる?」


「ああ。全く同じ話ではないだようが」


 世界を救った英雄の伝説。どこの国にもありがちなそれが、場所によって全く違うように伝わっていることも珍しくない。


 ルドルフがまだ帝国にいた頃。そんな伝説を何度か耳にしたことがある。

 昔、まだ人間が天下を取っていなかった時代。あの時代には魔物と呼ばれる、魔法を扱うための臓器を有した動物が跋扈していた。今でも魔物と呼ばれる生物は存在しているがその数の多くを減らしたのはその時代の人々の努力の結果、中でも強大な力を持った魔物をことごとく撃退したのが世界を救った英雄という話だ。

 ちなみに、魔法使いもその臓器を持って生まれる。さらにちなみに人から取り出したその臓器は他人でも使えるらしい。禁忌中の禁忌、トップシークレットだ。


「それがどうかしたのか?」


「もしもだけどね。昔の魔物が生きてるなら不可能じゃないなって思ったんだ」


「それは――」


 もとが寿命の長い動物だとして、生き永らえられる可能性は零じゃない。そんな生物が隠れていて偶然生き残っていた可能性と、利権の絡んだ人間に何らかの方法で捕らえられ生き永らえていた可能性、天秤にかけたとき僅かに傾くのは後者だろうか。


「陰謀論だな」


「十中八九、僕もそう思う」


 やけに心が騒めくのは、きっと荒唐無稽すぎるせい。


 まあつまり、考えても無駄というわけで。そんな結論に到達する頃には、思考によって忘れ去られていた空腹がぐーっと音を上げていた。


「ねえルドルフ、僕お腹空いたみたい」


「聞こえた。食料生きてると良いが――」


「何日経ったかわからないからね」


 本の世界で目覚めたのが朝だったことを考えると時間が現実とリンクしていたとは思えない。望むなら昔話でありませんように。


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