頁を捲れば5
夕方、窓辺。オレンジが綺麗な時間帯もそろそろ終わりが近付いているらしい。うす暗くなっていく空を見ながらルドルフはそんな見当違いなことを思う。
「ねえ、僕は何者なの?」
ノクターナのそんな問いにルドルフは即答することができなかった。
ノクターナはどこまで勘付いているのだろう。ルドルフはどこまで言って良いのだろう。そもそも伝えて良いことなのだろうか。ノクターナを前にしてなおルドルフは決心がつかないでいた。
次に会うまでに決めれば良いと後回しにした影響はすぐに訪れた。半強制的に何の説明もなしに連れて来られたのだ。
だから、俺は醜くも時間稼ぎをすることにした。
「あの日、ノクターナと俺が出会った日を覚えてるか?俺あのとき、なんだこの化け物って思ったんだ。いろんな意味でな」
この夢の世界でノクターナを初めて見たとき。俺はこう思った。なんて輝いてるんだろうって。恰好の所為もあるだろうけれどきっとそれだけじゃない。仕草、喋り方、そしてあふれ出るカリスマ。なんて輝いてるんだろう、なんてこの場にふさわしいんだろう。ああ、ここがノクターナの本来いるべき場所なのだ。
そしてそれを心の底から楽しんでいる表情を見たとき。一年近い旅が否定されたような気がした。俺なんかが連れ出して良い存在じゃなかったんだと思わされた。
もちろん、あの時はそうするしかなかったとわかっている。もし今からあの場面をやり直せるとしても同じ選択をするだろう。しかしそれでも、俺は間違えた。
「それから俺たちは何度か会った。それはほとんど偶然で、でも少し楽しみにしてた」
だからわからないのだ。この幸せな夢からノクターナを連れ出して良いのか。現実で帰ってきても、ノクターナはもうお姫様にはなれない。この夢の世界でいる方がノクターナにとって幸せなのではないか。
そんなことを何となく吐露したとき、グレイは言った。「ルドルフのやりたいようにすればいい」と。しかしそれがわからないのだ。
ルドルフの目的はノクターナを城へ帰らせてあげることだった。しかしそれはノクターナが望んだからで、今ノクターナが望むのならこの世界で過ごさせることが優先される。だからこそ、わからない。
「なあ、ノクターナ。記憶をなくす魔法はあるか?」
「禁忌だよそれ。まあ、直近の記憶なら消せなくはないけど――」
「だったら、聞きたくないと思ったらすぐに自分自身にその魔法を使ってくれ」
「……わかったよ」
だから、臆病にも俺は決断することを諦めた。全てをノクターナに任せることにした。
「ある日、この世界じゃ俺が失踪したことになってるらしい日。どういう訳か俺たちはこの国を追放された」
「……はい?」
「意味わからないだろ、俺にもさっぱりだ。とにかく、理由も碌に聞かされないまま俺たちは国外追放されたんだ」
それから、俺は夢の世界史とは違う話を始めた。
二人で旅を始めたこと、色々な人と出会ったこと。妙な出来事に巻き込まれたこと、今生の別れも経験したこと。今は城までの帰路を辿っていること。
言葉足らずの説明不足かもしれないけれど大切だと思うことは全部伝えた。
そして現実ではあえて言わないようにしていたことも伝えた。きっと城に帰ってこられても、今のような生活はできないだろうこと。同じ景色を見ることはできても同じ景色には思えないだろうこと。全てを。
「そっか――」
ノクターナは疲れたように一言だけ呟くと、それっきり俯いてしまった。静かに黙ってしまった。あまりの情報量に固まっている。指先が不安で震えている。膝が笑っている。俺はそれに、どうしてあげることもできない。
手を握ってやることも肩を貸してやることもできない。俺にそんな権利はない。俺にそんな勇気はない。
短くて長い沈黙が流れる。それをつらいと思うほどルドルフとノクターナの仲は浅くないけれど、今ばかりは気不味く思えた。ノクターナは俯いたままだ。
そんな状況を打破するために俺は口を開く。
「昔話はこれまでだ。――だがひとつ、言わなきゃならないことがある」
ノクターナが顔を上げる。動作はそれだけ。考え事に必死でルドルフの話をほとんど聞いていない。
でも、それで構わない。これは本来言うつもりのなかった言葉なのだから。ひとつ、ふたつ、みっつ、深呼吸をする。
ルドルフにとってノクターナの選択が何より重視される。ノクターナが現実に戻りたいと言ったらその手伝いをするし、戻りたくないと言ったら一人で現実に戻る。そして眠ったまま意識の戻らないノクターナを連れて城に帰るのだ。
これはそんなルドルフの押し込んだ本音。選択の邪魔にならないよう伝えるべきじゃなかった希望。遠まわしで分かりにくい告白だ。
「俺たちがこの国を追放されて離れるとき、俺は言ったんだ」
忘れたとは言わせない。
俺は貴女をこの国に帰してあげられる。
「必ず無事に連れて行くと約束する」
◇◆◇
追い出されるようにその場を離れたあと、俺は気絶するように眠った。目覚めたら現実世界に戻っているのだろうか。
そして今朝。俺は狭い二段ベッドの下で目が覚めた。
「いっあ――っ!」
勢いよく跳ね上がったルドルフの額は二段ベッドの上段に衝突。額がジンジンと痛む。今度こそたんこぶになっていそう。
痛みに額を押さえていると、眠っていたグレイが目を覚したようだ。キョロキョロと左右に首を動かす振動がルドルフにも伝わる。それからひょいっと顔だけ覗かせた。
「なんだ、地震か――?」
「おはようグレイ。今日の目覚ましはどんな気分だ?」
「悪くないな」
グレイはのそのそとベッドを下りると、ロッカーから仕事着を取り出して着替え始める。彼は今日も真面目に働くらしい。
「ルドルフ、今日はいつになく機嫌悪そうじゃないか?」
「いつも通りだ」
グレイの問い掛けにぶっきらぼうに答えると、ルドルフはもう一度寝転がって二段ベッドの上段を眺める。忌々しいベッドめ、せめて座ってぶつからないくらいの高さにはならないのか。
「ほら、早く着替えろ」
「気が向いたらな」
「はあ――。まあいいや。今日こそは遅刻するなよな」
グレイが外に出てしばらく。ルドルフも仕事着に着替えると部屋を後にする。まだ始業時間に余裕はあったが、部屋で寝転がっている気にもなれなかったのだ。
久々に余裕を持って部屋を出てみると普段とは違った光景が見られた。夜にこっそり部屋を出たとき以来に見る静かで誰もいない廊下。夜中に幽霊が掃除しているとしか考えられなかった窓辺にはほんの少し埃が付着している。
食堂に行くと徐々に人影が見え始めるがやはり少ない。朝食は食べ損ねてあるいは人だかりを嫌って抜くことも多々あったけれど、これが早起きがもたらす三文の力なのだろうか。いやそうに違いない。
今日の朝食はパンとシチューらしい。受け取りに行くとオーロラを初めて見た人みたいな顔で渡された。少々失礼である。
グレイは見当たらなかったので適当な席に座って手を合わせる。
「いただきます」
パンをシチューに浸けて一口。暖かくて美味しい。旅をしていれば必然的に暖かいご飯よりも冷たいご飯が増えてしまう。焼き立てのパンが食べられるのはちょっとした幸せと言っても過言ではない。
ルドルフは無言で食べ進める。思えば、こうして一人で食事をするのも久しぶりだ。昨日はキッチンで雑談というか尋問まがいの状況での昼食になったし約一年ぶりだ。
ふと顔を上げてみても誰の顔も見えない。些か寂しいと思ってしまうのは俺が甘えている所為。
「お隣、失礼しますよ」
凛とした声がして隣を見てみると、有無を言わさず一人の女性が座っていた。同じメニューのはずなのにパンやシチューが豪華に見えるのは立場の違いの現れ。
「ええと――はじめまして?」
「いいえ、二度目まして。覚えてはいませんか?私は騎士団副団長リナと申します」
残念、博打は大失敗。
「お久しぶりです、ええと、その節はどうも――?」
「――ええ、お久しぶりです。ルドルフさんも大変でしたよね」
二度目の博打は成功した。
リナと名乗った女性はパンを豪快に齧りながら言う。どうやらシチューは別々にスプーンで掬って食べるらしい。
「昨日はどうもありがとうございます。ルドルフさんのおかげで喉に刺さっていた骨が取れました」
「水を渡した記憶はないんだが――」
「そうではありません。姫様のことですよ。昨日から様子がおかしかったので心配していたんです。そしたら今朝私の部屋に来ましてね。何と言ったと思いますか?」
リナは興奮気味に話す。それは姪っ子をかわいがる親戚のようで、そこには敬意よりも愛情を感じられた。ルドルフが少し椅子を浮かせて距離を取るくらいの。
「今までありがとうございましたって、急に畏まって言ったんです」
それはかなりの朗報だった。
ノクターナは居心地の良い夢から覚めて現実に戻ることを選んだらしい。今のノクターナにはルドルフの話以外、現実がどんなところかもわかっていないだろうに。尊敬する。
「それに俺は関係ないだろ。自慢話なら自分の部下相手にしてきてくれ」
「とぼけないで良いですよ。姫様はルドルフさんについても話しておられましたから」
「俺について?」
何だろう。それはとても気になる。
「はい、ですが内容は秘密です。本人に聞けば良いでしょう。私たちにはできませんが、ルドルフさんにだけはそれができる。そうですよね?」
根拠も情報もないところからこの人はどこまで推察したのだろう。恐ろしい。ルドルフはそう思った。
リナはそれを伝えてから黙々とシチューに向き合い、一言も発さなくなった。ルドルフが何と問い掛けても、まるで聞こえていないように無視を決め込む。
はあ、こんな性格の悪い知り合い城に居ただろうか。
諦めてルドルフも食事と向き合う。偶然にも完食はほとんど同時だった。
「ごちそうさま」
ルドルフが両手を合わせた数秒後、リナも同じ言葉を言う。
「ごちそうさまでした。……あれ、まだ時間あったんですね」
「――もしかして、食べ終わりたいから無視してたとか?」
「そうですが何か?……でしたら最後に、伝言だけお願いしましょう」
やはり、こんな性格の悪い知り合いは知らない。
「姫様にお伝えください。この国に――」
――帰ってこないでください。
その瞬間、世界は崩壊した。




