頁を捲れば4
太陽が傾くとき、小さくて美しい城の窓から眺める景色は圧巻のものへと変化する。ほんのりと赤みがかった庭、休憩を目前にしてより熱心に働く使用人たち。見慣れた景色だ。
外を眺めやすいように設置された椅子に座ると、庭のほとんどが視界から消え空の割合が多くなる。薄っすらと靄のように広がった雲を貫通して届く太陽の存在。いつでも見られる光景なはずなのに、思えばかなり久々な体験だ。
ここ数日を振り返るように呆然としていると、メイドの一人がお茶とお菓子を持って現れる。メイドは近くの小さな机を運んできて、それらをコトンと並べる。ふんわりと漂う上品な香りが心地良い。いつまでも黄昏ていられる。
「ありがとう」
暖かいお茶を口に含む。お茶を口の中で転がしてテイスティングみたいなことをしてみるけれど、生憎茶葉の種類なんてわからない。できるのはわかっているフリだけ。ただ美味しいのは認めよう。それと、思っていたよりずっと甘かった。
お菓子に注目してみる。柔らかいクッキーのようだ。歯に触れるとほろほろと崩れ口の中の水分を奪っていく。それを補うためにお茶を飲むのが至福の一時なのだ。やはりクッキーも甘かった。ただ美味しいのは認めよう。
「五十五点」
クッキーは悪くないチョイスだけど、砂糖をケチった甘くないクッキーが懐かしくなった。そこが減点ポイントかな。なんちゃって。
「辛口ですね」
「かなり甘いよ」
「――シェフに伝えておきます。一年ぶりに張り切って作ったはいいけれど腕落ちたんじゃないですかと」
そこまでは言ってないんだけど。
「一年ぶり――だよね、何だか懐かしい気がした。どうして急にクッキー作り再開させたの?」
「私はそれを伝えるために参りました。お茶とクッキーはついでにございます」
「僕に?お母様やお姉様じゃなくて?珍しいこともあるんだね」
「お二人の意向により、お嬢様に伝えるべきだとの結論が成されました」
基本的に国の運営に係ることはお母様とお姉様が決めている。国民には知らされていないが次の女王はお姉様でほとんど確定しているので、ノクターナが情報を知る頃には一足遅れていることがほとんどだ。だからこそかなりの自由が許されているのだが――。
そんな訳でノクターナに直接情報が伝えられることは珍しい。それがクッキーについてだとは、らしいと言うべきか舐められていると言うべきか。
「約一年前、お嬢様が仲良くされていた使用人の男を覚えていらっしゃいますか」
去年仲良くしていた男の使用人――。考えてみるけれどパッとは思い浮かばない。あの頃はよく色々なところで色々な人と遊んでいた。男の使用人と言われても一人には断定できない。
「名をルドルフと言います。数か月ここで勤務した後に、正体不明の失踪を遂げました」
名を聞いてノクターナの脳裏に顔が浮かぶ。
それほど珍しい顔つきをしているわけえではないのに、浮かぶ顔はやけに鮮明だ。笑った顔、喜んだ顔、悲しんだ顔、怒った顔。その中には見たことのない表情もあって、しかしこんな顔をするだろうと確信めいてもいる。
名を聞いて、ルドルフと交わした会話が思い起こされる。
回数はそこまで多くない。一番直近のものは、僕の部屋で交わしたものだったろうか。
「彼は出身不明年齢不明。果てはルドルフが本名かさえ不明。しかし類稀なる本人のスペックと魔法への素質を買われ採用されました。その半分は見当違いでしたが」
知っている。呪いのせいで魔法は使えない、しかし素質のせいで一部の使用人から疎まれている可哀そうな人。
「ルドルフは本名だよ」
「――そうですか」
なぜか訂正したくなった。
「そんな彼が突如として帰ってきました。真っ先にそれを伝えたのはシェフです。ルドルフとの再会に感極まって作ったクッキーがそちらにございます」
メイドがクッキーを視線で差す。つられて僕もクッキーを見遣る。なるほど、だからやけに甘かったのか。
「――それで、ルドルフが帰ってきたのはわかったよ。でもどうしてそれを僕に伝えたの?」
「彼が現れたのは今朝のことです」
「うん、そうだろうね」
「お嬢様が変わられたのも、今朝のことでした」
メイドは目を細めて言った。
「……気付かれてたんだ」
「私はお嬢様のメイドでございますから」
その目は訝しむと言うより確かめたいという色が強かった。何があったのか。使用人一人の神隠しでは終わらない問題が生じたのではないか。
僕は小さくため息を吐く。それからメイドに向き直ってこう言うのだ。
「その彼を連れて来てくれる?」
「――かしこまりました」
メイドは何も尋ねることなく踵を返す。
僕はぐったりと椅子の背凭れに体重を預けた。疲れが押し寄せて来て身体が重く感じられる。そんな体制のまま空を見て、少しぬるくなってしまったお茶を一口飲む。うん、やっぱり銘柄なんて僕にはわからない。
徐々に遠ざかっていく足音を聞きながら僕は考える。
違和感は最初から感じていた。皆が変わった変わったと何度も言うから。僕は変わったつもりなんて一切ないのに。
メイドたちは「落ち着いた」と言った。昨日までの僕はもっと扱いに困る存在だったらしい。そうは言われても人が何もなしに急激に変わることなんてありえない。そして僕はそんなきっかけがあったと記憶していない。だからメイドたちが間違っているのだと思った。でも思い返してみると確かに昨日までの僕は扱いに困る行動をしていた。使用人たちの仕事の邪魔をしたり、勉強から逃げて怒られたり。あまりに行動が子供っぽかった。なぜ?わからない。
執事は小言を言わなくなった。事あるごとにいちゃもんをつけてくる面倒臭いやつだと記憶していたのに。僕にうんざりして諦められたのだろうか。どうしてか聞いてみるとセバスチャンは言った。「立派な淑女になられたようですからな」と。昨日までは小言の嵐だったのに、淑女には一朝一夕でなれるものじゃないと言っていたのに。なぜ?わからない。
そんなことを考えていると、いつの間にかお茶が空っぽになっていた。クッキーも残すところ一枚だけ。手を伸ばしかけて、これは呼び出したお詫びとしてルドルフにあげようと思い留まる。お茶もなしに食べたら喉が枯れてしまうし。
しばらくすると足音がふたつ聞こえて来て、壁が三度叩かれる。
「どうぞ」
扉で隔たれていないこの場所において今のがノックの代わりだ。
「お連れしました、お嬢様」
「ありがとう。下がって良いよ」
「失礼致します」
一度深々と礼をしてメイドがここからいなくなる。
「君はこっちに来て。一緒に景色でも見ようよ」
「――ああ、そうだな」
椅子はひとつしかないので立ち上がって言うと、ルドルフは短く答えて隣に立つ。普通は言われてすぐに隣に来ないし多少の緊張はするはずだが、ルドルフからはそれを感じられない。やっぱり何か知っているのだ。
「綺麗でしょ。君はここからの景色を見たことある?」
「ないな。だが、ここより綺麗な景色なら見たことがある。――今は俺しか覚えてないみたいだが」
ルドルフはあえて意味深な言葉を選んでいるようだ。それが鬱陶しくもあり羨ましくもある。
「そうだ、そこのクッキー食べていいよ。僕が君のために残しておいてあげたんだ」
「ありがとう。――うん、昼食と同じだ」
「どう美味しい?何点くらい?」
「九十点」
「から――甘口だね」
「甘いからな。減点ポイントは喉が渇く」
それから、二人は笑い合った。特別面白いこともないのに笑いが込み上げて来て止まらなかった。それはげらげらと声を上げるような笑いではなく、くすくすと小さく。しかし確実に笑っていた。
「僕は君に聞きたいことがあるんだ」
しばらく。ルドルフの息が整うのを待ったあと僕は問い掛ける。雰囲気は変わって真剣に。それが伝わったらしく、ルドルフもそっと姿勢を正した。
「ねえ、君。君は何か知っているの?」
確かに、この生活は幸せだ。食べ物は美味しいし、みんなは優しい。以前のような小言を言われることもなくなり、ちょっとしたおめかしをして過ごすこともできる。みんな僕を褒めてくれる。僕は僕が誇らしくなる。
決して裕福な国ではないけれど、平和で安全で居心地の良い僕の家。事件だってめったにない。一年ほど前に何やら不穏な気配が漂っていたことはあったらしいけれど、どうやらそれも杞憂に終わり。そこはただの幸せな空間。僕の唯一無二の居場所。きっとここを離れることはないだろうし、僕自身も離れたいとは思わない。
けれど、どうしても。一度生まれてしまった違和感は拭えない。メイドや執事の言葉、記憶とのちょっとした差異。多分、一週間もすれば誰も何も思わなくなるだろう。それが普通になる。僕だって何思わなくなる。思っていたことさえ忘れていく。それは嫌だった。
だから僕は尋ねる。理屈で一番怪しくて、感情で一番頼れる彼に、一縷の望みをかけて。
「ねえ、君。僕は一体何者なの?」




