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そしてまた、この地へ  作者: 朱殷


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頁を捲れば3


 絵具がついた筆をバケツに汲んだ水で洗い流すように、次々と色が混濁して、水流に合わせて妙な模様が作られる。それらは時間の経過により溶け合い、ひとつの色へと収束していく。

 ぼんやりとした色に世界が象られる。頭が重力に負けて落ち行くのを許容していると、ゴーンと鐘の音が鳴って意識は覚醒を果たした。


 自重で沈み込むような柔らかいベッドと重い布団は身体をしっかりと包んで、肌と服の間にあるじっとりとした感触に顔を顰める。人の声以外で目覚めるのは久しぶりだ。無理に起こされるのとはちがい、意識がはっきりとしている。


 足を動かしてベッドの縁に座ろうとして、足先すらベッドに届かずベッドがやけに大きいことに気付く。それとも自分が小さいのか?両手を大の字に広げてみても布団の冷たい部分を堪能できるだけ。

 諦めてその場で胡坐を、いや正座をして部屋を見回す。その部屋は広々としており可愛らしい装飾で彩られている。随分と高そうな部屋だと思う。そんな光景に懐かしさを感じていると、扉がコンコンコンとノックされた。


「失礼します」


 是非を答えるよりもはやく声の主は部屋に入ってくる。


 扉の方を見遣ると丁度目が合って、彼女は驚いたように目を見開いた。


「起きてらっしゃったのですか。おはようございます、ノクターナお嬢様。正座なんかされて、悪い夢でも見られたのですか?」


「おはよう――」


 お嬢様との呼び方にしばらくの違和感があって、僕はどうやら寝ぼけているらしい。


 微笑みながら歩み寄って来る彼女に向き直る。それから身体を動かしてベッドの縁まで移動する。足をぶらんとさせて楽にすると、僕は彼女に身体を預けた。

 メイドに対するお嬢様らしい行動だ。僕は自嘲する。


「ネグリジェが乱れていますよ。それに髪も。お水を持って来ましょうか?」


 そうか、そんなにラフな格好をしていたのか。僕はそれに返答することなく、彼女が触れるのを受け入れる。


 テレパシーでも繋がっているように,、しばらくすると別のメイドが水の入った桶とタオルと櫛を持って現れる。

 彼女らは僕のネグリジェを脱がし、下着姿になった僕の肌を濡らしたタオルで拭いていく。漆黒の髪が柔らかく梳られていく。僕は随分と長期間こうして身体を清めていなかったように思えて、心地良く小さな吐息を漏らす。


「お嬢様、失礼ですが――どうかなさいましたか?」


「――?」


 髪の隙間を通る櫛と頭を撫でる優しい手つきに絆されていると、メイドの一人がそう言った。質問の意図がわからなくて僕は首を傾げる。


「普段よりも、いくらか落ち着かれたように思います」


 落ち着いた――そうかもしれない。


 以前の僕がどのように振る舞ってどのように思われていたのか。それらを正確に思い出すことはできないけれど、経験が人を変えるという話はよく聞から、きっと僕は変わったのだろう。


 僕は王族だから、一般人ができないような経験をたくさんしてきた。僕は「――」だから、他の人が一生かかってもできないような経験をした。僕たちは「――」だから、僕たちは、何だったか。

 とにかく、僕は落ち着いたらしい。


「ですから、本日はこんなお召し物なんていかがでしょう」


 それは長い間衣装室で眠っていた、かわいいけれど少し動きにくいドレスだ。僕は一瞬悩む素振りを見せてから頷く。そんな僕にメイドたちの表情がぱあっと明るくなって、それから手慣れた手つきで僕はドレス姿にされた。


 くるりとその場で一回転してみる。裾の長いスカートがふわりと舞う。うん、やっぱり動きにくい。けれどそれ以上にかわいいのは嬉しい。


「えへへ……」


 頬がほころぶ。


「お似合いですお嬢様。軽いメイクもしてみてはいかがでしょう」


 上機嫌でテンションがおかしくなったメイドたちは、僕の返事も待たずに様々を顔に塗りたくる。やわらかく落ちた頬がふにふにと揉まれる。ぷるんとした唇が弾かれる。目元には筆で落書きをされた。


 手鏡を僕の前で構えて「かわいくなりましたでしょう」なんて言うけれど、印象に思っていたほどの変化はない。メイドたちが自信満々にしていたので、僕は微笑んで頷いたけれど。うーん、これは僕の目が節穴なのかも。


「お嬢様、そろそろ参りましょう。朝食の時間でございます」


「うん、わかった」


 今一度自分の姿を頭の中で描いてから、案内してくれるメイドと一緒に部屋を後にした。


 使用人とすれ違う度に、彼らは踏め言葉を口にする。それは昨日までと同じお世辞なのだろうけれど、僕の心持ひとつで違って聞こえた。

 再び前方で働いている使用人が目に入って、頬が緩みそうになるのをなんとか堪える。


 嗚呼――。


「お嬢様、本日はいつになく楽しそうでいらっしゃいますね」


「そうかもね」


 嗚呼、ここが僕の居場所なのだ。


◇◆◇


 まるで、悪夢を見たときのように。


「い、あ――っ!」


 勢い良く振り上げられた頭が二段ベッドの上段に衝突して、俺は言葉にならない呻き声をあげた。ジンジンと痛む額を両手で押さえる。たんこぶにならなければ良いが。


 痛みに悶絶していると、眠っていたルームメイトが目を覚ましたようだ。キョロキョロと上段で首を動かし、しばらく二段ベッドを揺らして、ひょいっと上段から顔だけを覗かせた。


「なんだ、地震か――?」


 この城におけるルドルフのルームメイト。名をグレイと言う。彼の特徴を一言で表すなら、いびきが煩いイケメンである。


 彼は化け物でも見たように目を大きく見開く。それからふうっと大きく息を吐いて、見慣れた表情に戻った。


「よお――ルドルフ。一年ぶりの早起きだな」


 グレイ、久々に見る顔だ。とびきりに仲が良かったかと聞かれればそうでもないが、同じ部屋で苦楽を共にした?こともあって多少の感慨はある。

 ルドルフがグレイの顔をまじまじと見つめていると、グレイがにやりと笑う。まるで心の内を見透かされているようで、俺はそっと視線を外した。


「おはよう、勇者様」


「――はぁ、頭でもおかしくなったか?」


「頭なら今ぶつけたところだ」


 グレイは頭を引っ込めてから、のそのそとベッドを這い出る。そしてまだ時間的には余裕があるというのに仕事着に着替え始めた。


「真面目だな――?」


「あれ、さっきのはアラームじゃなかったか」


 グレイはそう言って俺をからかう。嫌なやつだ。


 グレイがすっかり仕事モードに入ってしまった。ついでにといった様子でロッカーから俺の仕事服も取り出して投げる。飯を食べに行こうという誘いである。

 誰にも受け取られなかった仕事服がベッドの上に落ちるのを眺めてから、額を押さえながら寝頃がった。生憎ルドルフはそこまで真面目じゃないのだ。


「つれねえのな」


 グレイは退屈そうに壁へ凭れかかる。


「そういえばルドルフ、最近どうなんだ」


「最近って何が?」


「わかって聞いてるだろ。恋路だよ。それ以外あるか?」


「恋路?あー、」


 どう話したものだろうか。これまでの出来事をいくつか思い浮かべてみる。


「まあ、進展はほとんどないな」


 皆無だとは言いたくなかったのでそう濁しておく。


「気長にやるさ」


 時間ならあるんだ。自信もある。彼女を落せる自信ではなく、彼女に最も近付いた男だという自信。これでもし彼女の心が他の誰かに傾いたのなら、自分に魅力がなかったのだと諦めよう。


「――俺に惚気を聞いてやる趣味はねえな」


 自分から尋ねておきながら、そしてどこに惚気の要素を感じ取ったのか、グレイはそそくさと部屋を後にした。


 一人きりになった部屋でルドルフは宙を仰ぐ。再び夢の世界へ戻ろうとする。――いや、どちらかといえばこっちが夢の世界だろうか。

 なんとかしないと。けれど方法がわからない。焦らずに方法も聞いておくべきだった。教えてくれたかはわからないけれど。

 とりあえずはノクターナと接触を図らないと。しかし考えてみれば自ずから探して見つけられたことなど一度もなかった。夜にでもノクターナの部屋に行けば確実なのだろうけれど、今は朝だし何より投獄される。


 そんなことを考えていると、いつの間にか眠ってしまったらしい。急いで着替えて部屋を出ると、とっくに皆働いていた。もしかしてまずい?


「――別にいいや」


 どうせこれは現実じゃないんだ。クビにされるまでというタイムリミットが設定されただけ。


 はて、今日の管轄はどこだっただろうか。確認すらしていなかったな。思い出そうとしても知っているはずがなく、見知らぬ誰かの仕事を奪っておくことにした。

 すぐ近くにあったバケツと雑巾を持って汚れた窓を拭く。視界の端でルドルフのバケツと雑巾を探している人影が見えた気がしたけれど、多分幻覚だろう。


 …………。


 ちなみに。業務を円滑に進めるためそして城内の秩序を保つため、使用人同士の喧嘩やトラブルは厳しく禁じられている。破った場合、両成敗と罰則が待ち受けていることは使用人たちの間で常識である。

 だから自分と同等以上の立場の者へ物申したいことがあるとき、相手より上の立場の人間を連れて来ることがセオリーとなっている。

 つまり何が言いたいか。偶然ルドルフたちの近くにいた上の立場の人間とやらが彼女だったという話である。


「あら、誰かと思えばルドルフじゃない。トラブルを起こすことしか能がないのかしら?」


 嫌な記憶が蘇る声がして見上げると、それは……誰だったか。声は嫌と言うほど聞かされたし、顔も少しやつれているながらも概ね知っている。彼女は上級使用人の一人で、ここに来たばかりの頃紹介された記憶はあるのだが、名前は忘れた。そもそも一度も覚えていないかも。


「あなたの持ち場はここじゃないでしょう、早く失せなさい。それとも、またバケツをひっくり返されたいのかしら?」


 彼女は何故かルドルフのことを目の敵にしているようだが、ルドルフとしてはあまり彼女を嫌ってはいないのだ。嫌わなくなったと言った方が正しいか。

 あの出来事が俺とノクターナの距離を縮めてくれたと言っても過言ではないし、今となってもトップファイブには入る良いイベントだった。むしろ感謝さえしているくらいだ。


「謹慎、明けられたんですね。おめでとうございます」


 彼女はわかりやすくピキっておられた。


「誰のせいで今日まで――」


 ふと、そのとき。急激に空気が変わった。両手をわなわなさせていた彼女を含め、他の誰もが変化に勘づくほど、劇的に。全員が一様に手を止め廊下の先を見遣り、少し遅れてルドルフも視線を動かす。


 ノクターナが歩いていた。


 数人のメイドに囲まれて歩く少女は、昨日までの印象とはまるで違う。長い旅の影響で軋んだ黒髪は艶っぽく輝いて、親しみやすい笑顔はナチュラルメイクで彩られて慈愛の如く黒目を動かす。庶民っぽさが身につき始めていた所作はその立場に相応しく、機能性を第一に望んでいた服装は高貴さの象徴になっている。


 どうしても、考えてしまう。言わないようにはしていたけれど、ノクターナもわかっているはずだ。

 城を一度追放されたルドルフたちが何とか戻ってきたところで元通りにはならない。お姫様は過去のものだ。同じ景色は見られど同じ景色には見えない。もう、無理なのだ。


 だからどうしても思ってしまう。


「ノクターナ――」


 嗚呼、ここが彼女の居場所なのだと。


 幸いルドルフの不敬な呟きは誰の耳にも入らなかったらしい。ノクターナの存在感はここに居合わせた誰もの五感を握っていた。


 ひとたび呼吸をすれば香のような甘い香りが全細胞に行き渡る。ひとたび視界に入れたならその他全てを削除してノクターナだけを脳に描く。ノクターナが動くことによって生じた僅かな風を感じようと全身の毛が逆立つ。

 全身を視界に入れ続けよと叫ぶ。一言一句心の声さえ聞き逃すなと叫ぶ。ひれ伏して敬服せよと叫ぶ。しかしそれはできないと囁く。


 瞬きすらできないのだ。話さなければならないのに話すことなどもってのほか。生命の鼓動すら止めてしまえる。ノクターナの存在感にはここにいる誰のよりも五感を握られていた。


 嗚呼、彼女が好きだ。


「君!あのときの――」


「――っ!」


 話しかけられて、ルドルフは呼吸を忘れていたと気付く。嫌な汗が全身から湧き出ている。はあ、はあと繰り返す浅い呼吸を何とか落ち着かせると、冷え切った身体に体温が戻ってくる。流れていない涙を拭う。

 トリミングされたように白かった背景に色が塗られる。耳鳴りが劈いているでもないのに音を音として認識できない。めまいを引き起こしたときのような乱雑さで、しかしノクターナの声だけには鼓膜が正常に震えた。


「久しぶり。もういじめられないように気を付けてね」


 ノクターナは一方的にそう伝えるとルドルフから視線を外す。


 俺にも聞きたいことがある。


「まっ――!」


 遅れを取り戻そうと鼓動する心臓はルドルフの行動を制限した。声は声にならず、伸ばした腕は痛む頭を抱えるために用いられる。お願い、行かないで欲しい。


 ノクターナはそれだけ言うと、あの部屋に心当たりがないルドルフを放置してどこかに歩いて行ってしまった。ルドルフは立ち尽くす。ノクターナが見えなくなると全員の視線がお姫様に話しかけられた地味な使用人に向けられる。


「し、死にかけに見えるけど、大丈夫かしら?」


「――うるさい」


 ふらふらと覚束ない足で、ルドルフはその場を後にした。


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